足りねぇもんは、覚えりゃいいだけだ
◇
軍事局に併設された治療室。
ヒルトとフィリアは、それぞれベッドへ腰掛けていた。
二人の間に立ったユノは、静かに両手をかざす。
その傍らでは、青白い狐の精霊――キュウが淡い光を揺らしていた。
「それでは、始めますね」
ユノが小さく息を整える。
「《暖脈》」
柔らかな霊素が、ヒルトとフィリアの身体を包み込んだ。
熱いわけではない。
春の日差しのような、穏やかな温かさが全身へ広がっていく。
傷ついた身体の巡りを整え、内側から回復する力を高めていく術。
「おぉ……」
フィリアは自分の両手を見つめ、何度か指を動かした。
「身体がぽかぽかする」
「傷が治ったわけではありませんよ」
ユノは念を押すように言った。
「治りを早めているだけですから、急に動いたりしないでくださいね」
「はーい」
返事だけは素直だった。
隣では、ヒルトも胸元へ手を当てながら、ゆっくりと息を吐いている。
「さっきより、かなり楽になったよ」
「それなら良かったです」
少し離れた場所で見ていたレテが、申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません、ユノ君も怪我人なのに」
胸元へそっと手を添える。
「私の治癒が、まだ調子を取り戻せなくて……」
「いいえ」
ユノは柔らかく首を横へ振った。
「あんなことがあったんです。今は無理をせず、ゆっくり休んでください」
「ですが……」
「レテさんがまた倒れたら、皆さんの心配が増えるだけですよ」
レテが周囲へ目を向ける。
ヒルトとフィリアは心配そうにこちらを見ていた。
壁際では、ログが腕を組んだまま立っている。
「……そうですね」
レテは小さく頷いた。
「ありがとうございます」
その時、ログが壁から背を離した。
「おい、糸目」
「はい?」
「俺にもかけてくれ」
ユノはログを上から下まで眺めた。
そして、にこやかに答える。
「嫌です」
「なんでだよ!」
「これ以上焦げたら大変なので」
「誰が焦げてんだ!」
ログが思わず声を張り上げる。
フィリアが吹き出した。
「あはは! ログ、やっぱり焦げパンじゃん!」
「やっぱりって何だ、やっぱりって!」
「二人とも静かにしてください」
ユノが困ったように笑う。
レテも口元へ手を添え、キュウは楽しそうに尾を揺らしていた。
治療室へ穏やかな笑い声が広がる。
その時だった。
バンッ!
扉が勢いよく開いた。
「ヒルトくーん!」
「ひっ!」
聞き覚えのある明るい声に、ヒルトの肩が大きく跳ねた。
扉の前には、満面の笑みを浮かべたミレイアが立っている。
「おひさー!」
「……お久しぶりです」
ヒルトは反射的に身構えた。
「もう、そんなに構えないでよ!」
ミレイアは頬を膨らませながら、ベッドのそばまで歩いてくる。
「今日はちゃんとお願いがあって来たんだから!」
「お願い……ですか?」
「うん!」
ミレイアは勢いよく頷いた。
「今から研究室に来て!」
「術式のことで、ちょっと相談したいことがあるの!」
「……今からですか?」
「今から!」
ヒルトは困ったように自分の身体へ目を落とした。
「まだ治療中なんですけど……」
ミレイアはすぐにユノへ顔を向ける。
「歩くくらいなら大丈夫だよね?」
「無理をしなければ、問題ありませんよ」
ユノは穏やかに答えた。
「ただし、走ったり戦ったりは駄目ですからね」
「ほら!」
ミレイアは嬉しそうに手を叩く。
「決まり!」
「まだ返事してませんけど……」
「来てくれるでしょ?」
期待に満ちた顔で見つめられ、ヒルトはしばらく黙り込んだ。
やがて、諦めたように息を吐く。
「……分かりました」
「やった!」
ミレイアは嬉しそうに笑い、ヒルトの袖を軽く掴んだ。
その様子を、フィリアは黙って見つめていた。
「……ヒール」
「何?」
ヒルトが振り返る。
フィリアは一瞬だけ口を開きかけた。
けれど、上手く言葉が出てこない。
「……無理しないでね」
少しの間を置いて、そう告げた。
「ああ」
ヒルトはいつも通り、穏やかに笑う。
「すぐ戻るよ」
その言葉に、フィリアの表情がほんの少しだけ緩んだ。
「じゃあ行こ!」
「引っ張らないでください」
ヒルトはゆっくりとベッドから立ち上がり、ミレイアと並んで扉へ向かう。
二人が治療室を出ていく。
扉が閉まったあとも、フィリアはしばらくそちらを見つめていた。
「フィリア?」
レテが不思議そうに首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「え?」
フィリアはすぐに笑顔を作った。
「ううん。何でもないよ!」
「そうですか」
レテは素直に頷いた。
その隣で。
ログだけが、黙ってフィリアへ目を向けていた。
何かを察したように僅かに目を細める。
だが、何も言わない。
そのまま静かに視線を外した。
◇
「次だ、小僧!」
「はい!」
一方その頃。
軍事局の会議室では、アルトが机へ向かっていた。
答案を受け取ったバルガスは、腕を組みながら次々と採点していく。
歴史。
戦術。
算術。
どれも予想以上の出来だった。
ガイストの歴史については細かな年代に間違いこそあるものの、大きな流れは正しく理解している。
戦術では、敵を倒すことよりも、仲間や民間人を逃がす方法を優先して考えていた。
算術も、物資の配分や移動時間の計算をほとんど間違えていない。
バルガスは答案から顔を上げた。
「小僧」
「はい?」
「お前、意外と頭いいんだな」
「意外ってなんですか!」
「行動が馬鹿っぽいからな!」
「ひどい!」
「だっははは!」
バルガスは豪快に笑いながら、次の答案へ手を伸ばした。
そして。
笑い声が止まる。
「……なんだ、これは」
精霊術学。
ほとんど白紙だった。
僅かに書かれている答えも、大半が見当違い。
続く精霊術史も、結果はほとんど変わらない。
バルガスは二枚の答案を机へ並べた。
「歴史、戦術、算術は文句なしだ」
「本当ですか!」
アルトの顔がぱっと明るくなる。
「ああ」
バルガスは頷いた。
「だが」
精霊術学と精霊術史の答案を持ち上げる。
「こっちは落第だ」
「えぇぇ!」
「むしろ、どうやったらここまで間違えられるんだ」
「知らないことばっかりだったんですよ!」
「知らねぇで済むか!」
バルガスは答案を机へ叩きつけた。
「お前、精霊術師になりてぇんだろ!」
「はい!」
「だったら、一番必要なところじゃねぇか!」
アルトは悔しそうに答案を見つめた。
バルガスはそんな姿をしばらく眺める。
「……しかし、妙だな」
「え?」
「普通は逆だ」
バルガスは歴史や戦術の答案へ目を向ける。
「こっちはよくできてる」
「戦場で何を優先するべきかも分かってる」
「算術も悪くねぇ」
次に、精霊術学と精霊術史の答案を見る。
「なのに、精霊術師として必要な知識だけが、綺麗に抜け落ちてやがる」
アルトは申し訳なさそうに頭を掻いた。
「今まで、習ったことがなかったので……」
「まあ、いい」
バルガスは二つの科目の資料をまとめ、アルトの前へ置いた。
「足りねぇもんが分かったなら、覚えりゃいいだけだ」
「今日中に、全部頭へ叩き込め」
「全部?」
「全部だ」
アルトは目の前に置かれた分厚い書類の束を見下ろす。
しばらく固まったあと、小さく呟いた。
「脳みそ爆発する……」
「だから最初に言っただろ」
バルガスは獰猛な笑みを浮かべる。
「爆発させんなよ、坊主」




