因果応報
◇
時は少し遡る。
《ドミネーション》から緊急脱出したバルドゥルは、ヴォルグの国境近くに広がる森を走っていた。
「はぁ……はぁ……!」
枝が顔へ当たる。
高価な衣服は泥に汚れ、横から無理やり撫でつけていた髪も完全に崩れていた。
それでも、足を止めない。
目指しているのは、森の奥に建つ古びた塔。
そこへ辿り着けば、まだ逃げられる。
「まだだ……」
荒い呼吸の合間に呟く。
「まだ終わっていない……!」
背後から、草を踏む小さな音が聞こえた。
バルドゥルは怯えたように振り返る。
木々の間。
そこに、小さな子どもが立っていた。
深く被ったフード。
身体を覆う、丈の長いローブ。
顔は影に隠れ、よく見えない。
「あ……」
バルドゥルの表情が変わる。
「貴方は……!」
子どもはバルドゥルではなく、遠くにある研究施設の方角を見ていた。
「全く……」
幼い声が、静かな森へ落ちる。
「これで一つ、精霊の供給源がなくなってしまう」
その瞬間だった。
周囲に漂っていた精霊たちが、一斉に逃げ出した。
枝の陰から。
草木の間から。
小さな光となり、互いを押し退けるように子どもから遠ざかっていく。
バルドゥルは意味が分からず、ただその光景を見つめた。
子どもは小さく息を吐く。
「はぁ……」
そして、興味を失ったようにバルドゥルへ背を向けた。
「まぁ、もういいでしょ」
「好きにしなさい」
「ひひぃー!」
バルドゥルはそれを許しの言葉と受け取り、再び森の奥へ走り出した。
何度も転びそうになりながら。
振り返ることもなく。
子どもは、その背中を黙って見送る。
やがて視線を足元へ落とした。
逃げ遅れた一体の精霊が、木の根元で震えている。
子どもはゆっくりと手を伸ばした。
「お腹、減ったなぁ」
◇
「あれさえあれば……」
バルドゥルは森の中を進み続ける。
「《ハースト》さえあれば……!」
ようやく視界の先に塔が現れた。
蔦に覆われた古い石造りの塔。
表向きは放棄されているが、その地下には秘密の保管庫がある。
バルドゥルは扉を押し開け、階段を転がるように下りていった。
「ある……」
暗い地下室の奥。
巨大な鉄の箱が置かれている。
蓋には、大きく文字が刻まれていた。
――HAAST。
バルドゥルの顔へ笑みが戻る。
「あるぞ……!」
「これさえあれば!」
震える手で鍵を外す。
「これで逃げられ――」
勢いよく蓋を開けた。
中には、何もなかった。
「……は?」
あるのは一枚の紙だけ。
バルドゥルは呆然とそれを手に取った。
そこには、ヴォルグ語ではない文字で何かが書かれている。
――大泥棒ライ様参上! なんちゃって!
「何だ……これは……」
読めない。
だが、馬鹿にされていることだけは伝わってくるようだった。
手紙を握る指へ力が入る。
「誰だ……」
紙がくしゃりと潰れる。
「誰がぁぁぁ!」
「おい」
突然、背後から声を掛けられた。
「ひっ!」
バルドゥルは飛び上がるように振り返る。
地下室の入口。
そこにカイルが立っていた。
片手には《裂兎》。
表情からは、いつもの軽薄な笑みが消えている。
「颶風!」
バルドゥルは目を見開く。
「貴様……!」
だが、すぐに表情を変えた。
「いや、いいタイミングだ!」
縋るように両手を広げる。
「私を逃がせ!」
カイルは動かない。
「俺の妹の情報を渡せ」
「だ、だからそれは……」
バルドゥルは言葉を詰まらせる。
「ここから逃がしたら教えてやる!」
「本当は知らないんだろう?」
静かな問いだった。
バルドゥルの頬が引きつる。
「そ、そんなわけが――」
「なら喋れ」
カイルが一歩、近づく。
「今ここで全部喋れ」
「そしたら助けてやる」
バルドゥルの顔が怒りで歪んだ。
逃げ道を失い。
切り札も奪われ。
追い詰められた男の中で、何かが弾けた。
「知るわけないだろう!」
カイルの足が止まる。
「……何?」
「貴様は騙されていたんだ!」
バルドゥルは唾を飛ばしながら叫ぶ。
「妹の居場所など、初めから知らん!」
「貴様の力が必要だったから、適当な餌をぶら下げていただけだ!」
カイルは何も言わなかった。
「そうか……」
それだけだった。
バルドゥルは、その沈黙を恐怖とは受け取らなかった。
むしろ優位に立ったと勘違いし、腹を抱えて笑い始める。
「はっはっは!」
「滑稽だなぁ、颶風!」
カイルの手が《裂兎》へ触れる。
「颶風の颶はなぁ!」
「愚か者の愚なので――」
バルドゥルが首を傾げる。
「……ありゃ?」
視界が、斜めに落ちていく。
天井。
壁。
床。
全てがゆっくりと傾いて見えた。
最後に目へ映ったのは。
首から血を噴き出しながら、立ったまま揺れる自分自身の身体だった。




