恐怖を押し殺して
「アルト君!」
レテは倒れゆくアルトの身体を、寸前で抱き止めた。
「しっかりしてください!」
返事はない。
浅く、苦しそうな呼吸だけが微かに聞こえる。
軍服は赤黒く染まり、全身には無数の裂傷。
そのどれもが致命傷になりかねないほど深い。
「どうして……こんな……」
震える手でアルトの頬へ触れる。
熱い。
まるで身体の内側から焼けるような熱が伝わってきた。
レテはすぐに胸元へ手を添える。
「ディーネ!」
治癒術を使わなければ。
今すぐ、この出血を止めなければ。
胸の奥から、小さな震えだけが返ってくる。
「ディーネ!」
もう一度、強く呼ぶ。
それでも姿は現れない。
レテは唇を噛み締めた。
アルトへ精霊術を使えないことは、一度や二度ではない。
ディーネはアルトの近くへ来ると、いつも怯えてしまう。
それでも。
今だけは。
「お願いです!」
レテは涙を堪えながら叫ぶ。
「力を……」
アルトの血で濡れた手を握る。
「アルト君を……助けてください!」
胸の奥で、ディーネは今も震えていた。
恐怖で身体を縮め、外へ出ることすらできない。
レテは祈るように目を閉じる。
「お願い……ディーネ……」
「ギィ……」
弱々しい鳴き声が響いた。
レテは顔を上げる。
巨大なガラス容器の中。
閉じ込められていた小さな存在が、アルトを見つめていた。
その瞳には、大粒の涙が浮かんでいる。
「ギィ!」
小さな身体が淡く輝き始める。
光は次第に強さを増し、巨大なガラス容器全体を包み込んだ。
ピシッ。
一本の亀裂。
続いて、二本。
三本。
蜘蛛の巣のように無数の亀裂が広がっていく。
「離れてください!」
レテは咄嗟にアルトを抱き寄せた。
次の瞬間。
ガシャァァンッ!!
超硬化ガラスが砕け散る。
だが、その破片は地面へ落ちる前に光となり、静かに消えていった。
解放された小さな存在は、ゆっくりと宙へ浮かぶ。
そして真っ直ぐレテのもとへ飛んできた。
「ギィ!」
胸元で震え続けるディーネへ、小さな手を伸ばす。
ディーネは恐る恐る姿を現した。
身体は今も震えたまま。
すぐにでもレテの中へ戻ろうとする。
しかし。
「ギィ!」
小さな存在は、そのヒレをそっと掴んだ。
ディーネは驚いたように身を引く。
「ギィ! ギィギィ! ギィー!」
まるで必死に説得するように、小さな声で鳴き続ける。
ディーネは戸惑い、逃げようともがく。
それでも小さな存在は離さない。
二体は互いを見つめたまま、何かを伝え合っていた。
レテには、その言葉は分からない。
けれど。
想いだけは伝わってきた。
──助けて。
──お願い。
──あの子を。
ディーネはなおも震えている。
恐怖は消えていない。
その時だった。
「……ギィ」
小さな存在が、力なく呟いた。
その声は、どこか悲しげで。
それでいて、優しかった。
ディーネはアルトを見る。
血だらけで倒れる青年。
その隣で泣きそうな顔をする契約者。
小さく目を閉じると。
ゆっくりとレテの手元へ寄り添った。
レテの瞳から、一筋の涙が零れる。
「……ありがとう」
ディーネは小さく頷いた。
恐怖を押し殺しながら。
大切な契約者の願いに応えるために。
レテは両手をアルトへかざす。
ディーネもその手へ寄り添うように泳ぐ。
水色の光が二人を包み込み、優しく溢れ出した。
「《治癒》」
澄んだ水の光がアルトの全身を包み込む。
止まらなかった出血が、少しずつ収まっていく。
小さな存在は安心したように微笑み、アルトの手を両手でそっと握った。
「ギィ……」
その声に応えるように。
アルトの指先が、ほんのわずかに動いた。




