第19話:氷の令嬢は宿題を手伝いたい
8月31日。
それは、全国の学生が絶望の淵に立たされる日だ。
俺、春トも例外ではなかった。
「終わらない……これ絶対終わらない……」
机の上に積み上げられたプリントの山。読書感想文(白紙)。自由研究(テーマ未定)。
彼女ができた浮かれ気分で、夏休みを謳歌しすぎたツケが回ってきたのだ。
時計の針は午後3時を回っている。
このままでは、新学期初日から先生に雷を落とされる未来しか見えない。
(……助けて、美月えもん……!)
俺は藁にもすがる思いで、スマホを手に取った。
『ヘルプミー。宿題が終わらない』とスタンプ付きで送信する。
すると、既読は瞬時につき、5分後には「ピンポーン」とチャイムが鳴った。
玄関を開けると、そこには眼鏡をかけた美月が立っていた。
手には参考書が入ったトートバッグを持っている。
「……春トくん。……呆れた」
開口一番、ジト目で告げられた。
はい、おっしゃる通りです。ぐうの音も出ません。
◇
俺の部屋の机に向かい、二人並んで勉強会(という名の監視)が始まった。
「……ここ、この公式使えば解ける」
「……感想文は、あらすじ書いて、感動したところを膨らませて」
美月の指導は的確だった。
さすが学年トップ。教え方も上手い。
だが、問題は別のところにあった。
(近い……。美月の顔が近い……)
覗き込んでくる彼女の顔が、至近距離にある。
眼鏡の奥の知的な瞳。
さらりと落ちる黒髪からは、いい匂いがする。
(眼鏡美月さん、可愛すぎない? 先生役とか最高かよ……。数式より君の瞳の引力に惹きつけられそうです……)
俺が心の中で現実逃避をしていると、美月がいきなり俺の頬をペンで軽くつついた。
「……集中して」
「あ、はい! すみません!」
彼女は頬を赤らめながら、プイッと顔を背けた。
心の声が全部聞こえている彼女の前で勉強に集中するのは、至難の業だ。
「……もう。……春トくんが頑張らないと、終わらないよ」
「うう……分かってるんだけど、やる気が……」
俺が机に突っ伏すと、美月は少し考え込み、そして俺の耳元に顔を寄せた。
「……じゃあ、これが全部終わったら、ご褒美あげる」
「えっ!?」
俺が顔を上げると、彼女は悪戯っぽく微笑んで、囁いた。
「……何でも、ひとつだけ言うこと聞いてあげる」
ズキュゥゥゥン!
俺のやる気スイッチが、音を立ててオンになった。
何でも? いま何でもって言った?
そんなの、頑張るしかないじゃないか!
「やります! やらせてください! 俺は今、アインシュタインになる!」
そこからの俺の集中力は、自分でも引くほどだった。
ペンが火を吹く勢いで問題を解き進め、感想文をねじ伏せ、自由研究(1日でできる天気調べ)を完成させた。
そして、時計の針が日付を超える頃。
全ての課題が片付いた。
「お、終わったああああ!」
俺は椅子から崩れ落ちた。
燃え尽きた。真っ白な灰になった。
美月は満足そうにプリントの山を揃えてくれた。
「……よく頑張りました」
「へへ、美月のおかげだよ。ありがとう」
「……ん。……じゃあ、ご褒美」
彼女はそう言うと、俺の正面に立った。
心臓が跳ねる。
何をされるんだ? いや、俺が要求するのか?
「……目、閉じて」
言われるがままに目を閉じる。
ふわっと、甘い香りが近づいてきて。
チュッ。
右の頬に、柔らかい感触が触れた。
「えっ」
目を開けると、頬を桜色に染めた美月が、至近距離にいた。
「……ご褒美、おしまい」
彼女は照れ隠しのように俺の頭をワシャワシャと撫でると、逃げるように部屋を出ていってしまった。
俺はしばらくの間、頬に手を当てたまま、幸せな呆然自失状態に浸っていた。
夏休みの最後に、最高のご褒美をもらってしまった。




