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財閥御曹司の俺が恋したのは、コミケで壁サーを張る“えっちなお絵描き女子”でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第2章 第1話 始発前の駅で、壁サー少女は戦闘モードになる

 朝というより、まだ夜の残りだった。


 天城玲司が家を出た時、空はようやく群青から薄青へ変わり始めていたが、街灯はまだ仕事をやめていない。空気はわずかに湿っていて、夏の朝特有の、生ぬるさと静けさが同居している。


 こんな時間に外へ出るのは久しぶりだった。


 いや、正確には“こんな理由で”外へ出るのが初めてだった。


 私立星ヶ峰学園二年、天城グループ直系の御曹司、学園では完璧王子と呼ばれる男が、今向かっている先は、早朝のコミケ会場へ向かう待ち合わせ駅である。


「……本当に来てしまったな」


 玲司は誰に言うでもなく呟いた。


 それが嫌なわけではない。むしろ、胸の奥は不思議な高揚で静かに熱を帯びている。


 白瀬もえの世界に、今日初めて“見学者”ではなく“当事者”として足を踏み入れる。


 それを考えるだけで、普段の学校生活では味わわない緊張があった。


 スマホには昨夜のやり取りが残っている。


 集合時間、持ち物、動きやすい服装、目立たない色味推奨、朝食は軽くでも食べること、水分必須、会場で倒れないこと――。


 白瀬もえからのメッセージは、途中からかなり真面目な業務連絡に寄っていたが、最後だけ妙に彼女らしかった。


 遅刻したら壁に埋める


 玲司はその文面を思い出して、少しだけ口元を緩める。


 冗談なのか本気なのか判別がつきづらいあたりが、いかにも彼女だった。


 駅前へ着くと、時刻はまだ集合の十分前だった。


 始発後すぐの時間帯とはいえ、同じ方向を目指しているらしい人間がちらほらいる。大きなバッグ、キャリーケース、筒状のポスターケース、首から下げた入場証らしきもの。服装は様々だが、どこか“目的地が同じ”という空気がある。


 玲司は人の流れを観察しながら、改札近くの柱のそばに立った。


 そして三分後、視界の端に、見覚えのある黒髪を見つけた。


「……」


 白瀬もえは、普段の学校で見る彼女とは少し違っていた。


 まず服装が違う。今日は制服ではない。ゆったりとした薄手の黒パーカーに、動きやすそうなカーゴパンツ。スニーカー。髪は下ろしているが、いつもより少しだけ高い位置で後ろを軽くまとめていて、顔周りがすっきりしている。肩には大きめの斜めがけバッグ、片手にはキャリーケース。さらにもう片手には細長い筒も抱えている。


 荷物が多い。


 だが、それ以上に目を引いたのは顔だった。


 眠そうではない。むしろ逆だ。目は冴えていて、表情は引き締まり、歩き方にも迷いがない。学校での控えめな地味女子の面影はたしかにある。だが今日の彼女は、その輪郭の上に、明らかに“現場へ向かう人間”の緊張感をまとっていた。


 白瀬もえではあるが、同時に“moco”でもある顔。


 玲司は一瞬、見惚れた。


 すると、ちょうどその瞬間に白瀬もこちらに気づいた。


 足が止まる。


 目が合う。


 そして彼女は、ほんのわずかに目を見開いた。


「……おはよう」

 先に言ったのは玲司だった。

「お、おはよう……」


 白瀬は近づいてきたものの、開口一番、玲司の全身を上から下まで見た。


「なに」

「いや……」

「何だ」

「なんでそんなに自然に早朝駅前にも馴染むの」

「質問の意味がわからない」

「なんかもう、存在の完成度が高いんだよ……」


 白瀬は疲れたように言ってから、はっとした顔になる。


「って違う! そうじゃなくて、ちゃんと来てる!」

「約束した」

「したけど。ほんとにしたけど……」

「まだ驚いているのか」

「ちょっとだけ」


 白瀬はキャリーケースの持ち手を握り直しながら、少し気まずそうに視線を逸らした。


「昨日の夜まで、なんかまだ実感なかったから」

「僕も似たようなものだ」

「え」

「こうして駅に立って、ようやく“本当に行くんだな”と思った」

「……そっか」


 白瀬は小さく笑った。


 その笑顔は、学校で見る控えめな微笑みとも、修羅場後の力の抜けた笑いとも違う。緊張しているのに、どこか楽しみでもある人間の顔だった。


 玲司は彼女の持っている荷物へ視線を向ける。


「重そうだな」

「まあ、それなりに」

「貸してくれ」

「え」

「キャリー以外なら持てる」

「いや、でも」


 白瀬は反射的に遠慮しようとしたが、玲司はすでに自然な動きで細長い筒の方へ手を伸ばしていた。


「ポスターか?」

「う、うん」

「ならこれは僕が」

「ちょっと待って、そういうの慣れてそうなの腹立つ」

「慣れてはいない」

「でも似合ってるのが腹立つ!」

「褒めているのか?」

「知らない!」


 白瀬はそう言ったものの、筒は素直に玲司へ渡した。


 荷物を持ってみると、想像していたより軽い。だが彼女一人でキャリーとバッグとこれを抱えて移動するなら、たしかに大変だろう。


「ありがとう」

「礼には及ばない」

「そういうとこ、ほんと王子様だよね……」

「今さらか」

「今さらだよ! でも今日だけは、あんまり優雅にしないで」

「優雅に?」

「そう。今日はとにかく動いて、止まらないで、迷わないで、列が来たら冷静に、でも変に目立たないで」

「難易度が高いな」

「高いよ。コミケだから」

「了解した」


 玲司が即答すると、白瀬は一瞬ぽかんとした。


「……ほんとに」

「何だ」

「怖いくらい従順だね、今日は」

「君の世界なのだろう」

「う」

「なら、今日は君の指示に従う方が合理的だ」

「……その言い方、ちょっとかっこよすぎて困るんだけど」


 白瀬は顔を背け、耳を少し赤くした。


 だが次の瞬間には、すぐに気持ちを切り替えたらしい。スマホで時間を確認しながら、足早に改札の方へ向かう。


「行こ。電車一本逃すと、想定が全部ズレる」

「そんなに違うのか」

「違う。朝は特に」

「わかった」


 二人は改札を抜け、ホームへ向かった。


     ◇


 早朝の電車は、思っていた以上に“それらしい”人間が多かった。


 大きな荷物を持つ者、明らかにイベント慣れしている足取りの者、眠そうな顔で壁にもたれかかっている者。一般的な通勤通学の空気とは微妙に違う。どこか、同じ祭りの開幕前に向かう者たちの気配がある。


 玲司と白瀬は、ドア付近の比較的空いた場所に並んで立った。


 白瀬はスマホを見ながら、確認するように言う。


「じゃあ最終チェックね」

「聞こう」

「まず、会場着いたら設営優先。話しかけられても、私はすぐ返せないことある」

「了解」

「お品書きは二段。昨日確認した通り」

「了解」

「新刊は一番目立つ位置」

「了解」

「列ができたら最後尾対応」

「了解」

「スケブは不可」

「了解」

「差し入れは受け取って、まとめて後ろへ」

「了解」

「あと」

 白瀬はそこで玲司を見た。

「かっこつけなくていいからね」

「……どういう意味だ」

「いや、なんか天城くんって、無意識に“ちゃんとして見える”から」

「問題か?」

「悪い意味じゃないよ。でも今日は、“完璧王子”じゃなくて“うちの売り子”でいてほしい」

「うちの売り子、か」

「言い方に引っかからないで! そういう意味じゃなくて!」

「少しだけ引っかかった」

「やめてよもう……!」


 白瀬は頭を抱えた。


 玲司は少しだけ笑う。


 その時、電車が揺れた。白瀬の身体が小さくよろめく。玲司は反射的に腕を伸ばしかけて、寸前で止めた。代わりに、彼女が掴みやすい位置へ吊り革の下のポール側へ身体をずらす。


 白瀬はそれに気づいたらしい。何も言わなかったが、小さく「……ありがと」と呟いた。


 しばらく沈黙が続く。


 車窓の向こうでは、少しずつ朝の光が増していた。


「……緊張してる?」

 不意に白瀬が聞いた。

「少し」

「やっぱり?」

「ああ。知らない場所へ行く時の緊張に近い」

「そっか」

「君は?」

「めちゃくちゃしてる」


 白瀬は即答した。


「何回出ても、これは慣れない。搬入ちゃんとできてるかなとか、忘れ物ないかなとか、今日の頒布ペースどうかなとか、全部考える」

「だが楽しみでもあるんだろう」

「……ある」

「なら大丈夫だ」

「なんでそんなに言い切れるの」

「君の顔が、怖がっているだけの顔ではないからだ」


 白瀬は目を見開いた。


「……」

「違ったか」

「違わない」

「そうか」

「だからほんとに、なんでそういうとこだけ妙に鋭いの……」


 彼女は少しだけ俯き、髪の先を指でいじった。


「でも、天城くんがいるの、ちょっと心強い」

「それは何よりだ」

「うん……。たぶん、一人だったら今ごろもっとガチガチ」

「なら来た価値はある」

「ある。かなりある」


 その返事に、玲司の胸の奥が少しだけ温かくなる。


 電車が大きな乗換駅へ着き、人の流れが一気に増えた。白瀬はスマホを見て時間を確認し、ぱっと顔を上げる。


「次、乗り換えたらもう近い」

「了解」

「ここからは、ほんとにイベント勢が増えるから」

「イベント勢」

「空気でわかるよ」

「もう少し具体性が欲しいな」

「無理。感覚だから」


 白瀬は笑った。


 その笑みにつられて、玲司もわずかに笑う。


 そしてふと思う。


 今、自分は明らかに“彼女に教わりながら知らない世界へ向かっている”。


 その事実が、少し嬉しい。


     ◇


 乗り換えを終え、目的地に近づくにつれて、周囲の景色も人の種類も変わっていった。


 大きな荷物を持つ者が増え、会話の中に聞き慣れない単語が混じる。頒布、配置、搬入、外周、列、完売。どれも玲司にとってはまだ新鮮な単語だ。だが、もはや完全な異国語ではない。


 白瀬が少しずつ教えてくれたからだ。


 駅を出たところで、白瀬は一度立ち止まり、深呼吸した。


「……よし」

「着いたか」

「うん。ここからが本番」


 さっきまで少し柔らかくなっていた空気が、すっと変わる。


 白瀬もえの背筋が伸びる。視線が前へ定まり、歩幅が一定になる。重い荷物を持っているはずなのに、その足取りに迷いがない。


 玲司はその横顔を見て、あらためて思う。


 今日は、学校で見る彼女ではない。


 これは、創作者としての彼女だ。


 白瀬もえであり、mocoでもある少女。


 自分は今、その隣を歩いている。


「天城くん」

「何だ」

「ここから先、ほんとに止まらないから」

「わかった」

「わからなくても、わかったって言うの偉いよね」

「褒めているのか」

「今日はちょっとだけ褒めてる」


 白瀬はそう言って、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「でも、その代わり」

「うん?」

「ちゃんとついてきて」

「もちろんだ」


 玲司の返答に、白瀬は一瞬だけ目を細めた。


 それは照れなのか、安心なのか、その両方なのかもしれない。


 次の瞬間には、彼女はもう前を向いていた。


 朝の光の中、大きな会場へ向かう人の流れが見える。


 その波の中へ、二人は並んで踏み込んでいった。


 天城玲司にとっては、まぎれもなく初めての世界だった。


 だが不思議と、怖さより先に思うことがある。


 ――彼女は、ここで生きているのだ。


 その実感だけで、胸が少し熱くなった。

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