第2章 第2話 開場前、御曹司は“壁”の意味を思い知る
会場に近づくにつれて、人の流れはひとつの方向へ収束していった。
大きな荷物を引く者。肩にポスターケースを担ぐ者。眠そうな顔のまま早足で歩く者。逆に、明らかに慣れきった足取りで迷いなく進む者。
天城玲司はその波の中に身を置きながら、妙な感覚を覚えていた。
圧倒されている。
だが、それと同時に、妙に冷静でもあった。
この場にいる人間は皆、それぞれの目的でここへ来ている。遊び半分ではない。仕事でも義務でもなく、自分の意思で早朝から集まり、準備し、運び、並び、作り上げる場へ向かっている。
その熱量が、言葉にしなくても伝わってくる。
「人、多いでしょ」
隣を歩く白瀬もえが、前を見たまま言った。
「ああ」
「でも、まだこれでも“始まる前”だから」
「これで、まだ前段階なのか」
「そう。一般入場始まったら、もっとすごい」
「……なるほど」
その返事に、白瀬は少しだけ笑った。
「今日だけで“なるほど”何回言うんだろ」
「回数を数える余裕があるなら、まだ落ち着いているな」
「それはそうかも」
玲司は彼女の横顔を盗み見る。
白瀬もえは、完全に戦闘モードだった。
駅で会った時も感じたが、会場が近づくにつれてその空気はさらに濃くなっている。視線は常に前を見て、荷物の位置を無意識に確認し、周囲の人波を計算するように歩いている。普段の彼女にある、少し控えめで、周囲に遠慮がちな気配が薄い。
代わりにあるのは、目的地へ向かう創作者の顔だった。
「入場証、出して」
「これか」
「うん。なくすと詰むから気をつけて」
「言い方が物騒だな」
「物騒だよ。ここでなくしたら本当に終わるから」
玲司は首から下げたサークル入場証を確認する。白瀬はそれを見て小さく頷き、少し歩調を速めた。
会場の建物が視界に大きく入ってくる。
想像していたよりもずっと大きい。ニュース映像や写真で見たことはあった。だが実際に目の前に立つと、規模の感覚が違う。
「……大きいな」
「でしょ」
「一日で、この中が埋まるのか」
「埋まるよ。外まで使うし」
「すごいな」
「うん。すごい」
白瀬はそう言ったあと、ほんの一瞬だけ表情を和らげた。
好きな場所へ戻ってきた人間の顔だった。
◇
サークル入場口を通り、建物の内部へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
まだ開場前だというのに、すでに“現場”の匂いがする。
台車の音。段ボールを引きずる音。誰かが机の下へ荷物を押し込む音。挨拶。確認。設営。人と人が、同じ場所で別々の準備を同時に進めている密度。
玲司はそのすべてを、思わず目で追っていた。
「止まらないで」
「……ああ」
「ここ、ぼーっとしてると普通に流れの邪魔になる」
「すまない」
「謝らなくていいから、ついてきて」
白瀬は迷いなく通路を進む。
その歩き方は、初めて来た人間のものではない。荷物を避け、人の進行方向を読み、空いている幅をすっと選び抜いて進む。玲司はその後ろをついていきながら、彼女がこの場所にどれだけ慣れているかを改めて思い知った。
やがて白瀬は、ある一角で足を止めた。
「ここ」
「……ここが、君のスペースか」
「うん。今日の私の場所」
机にはすでにサークル名と配置番号が表示されている。
その机を見た瞬間、玲司は少し黙った。
ここなのか、と思ったからだ。
白瀬もえ――mocoが、今日立つ場所。
学校では目立たない彼女が、大勢の人間を迎えるための一点。
「天城くん?」
「いや」
「変な顔してる」
「そんなつもりはない」
「ちょっとしてる」
「……少しだけ、感慨深いだけだ」
「え」
白瀬は一瞬だけきょとんとして、それから視線を逸らした。
「そういうこと、開場前に言わないでよ……」
「なぜだ」
「今、変に意識すると動けなくなるから!」
そう言って彼女は両手で自分の頬を軽く叩き、すぐに切り替えた。
「設営するよ」
「了解」
そこからの白瀬は、完全に速かった。
「段ボールこっち」
「ああ」
「新刊は上、既刊は下」
「了解」
「お品書きスタンド出して」
「これか」
「そう。それ、昨日決めた高い位置のやつ」
「卓上用は?」
「あと。まずポスター」
玲司もまた、頭の中で手順を反復しながら動いた。
段ボールの位置を揃える。通路側に荷物がはみ出さないよう寄せる。在庫を出しやすい順に積み直す。ポスターケースから紙を取り出し、しわを確認しながら広げる。卓上スタンドを立てる。価格表を貼る。釣り銭用のケースを机の内側へ置く。
周囲でも同じように設営が進んでいる。だが玲司には、今自分の目の前にある作業だけで十分だった。
「そこ、もう少し左」
白瀬が指示する。
「このくらいか」
「うん。……あ、やっぱりあと二センチ」
「了解」
「なんでこんな細かいの」
「君がそういう人間だからだろう」
「うっ」
白瀬は言い返せなかったらしい。
だが、その顔には少し笑みがある。
玲司は自然と口元を緩めた。
設営は決して派手ではない。だが、一つひとつが“ここに人を迎える準備”なのだと思うと、不思議と気持ちが引き締まる。
そんな中、不意に背後から明るい声が飛んだ。
「mocoちゃん、おはよー!」
「おはようございます」
「今日もいい位置だねえ」
「いや、ほんと胃が痛いです」
「またまた~」
振り向くと、隣のスペースらしき女性が笑顔で手を振っていた。さらに少し離れた位置からも、「おはようございます」と何人かが白瀬に声をかける。
白瀬はその一つ一つに、きちんと笑顔で返していた。
玲司はその様子を見て、少しだけ意外に思う。
学校の彼女は、どちらかといえば控えめだ。人付き合いが苦手というわけではないが、前に出る方ではない。
けれどここでは違う。
挨拶が自然だ。表情が柔らかい。空気の中で浮かず、むしろしっくりと馴染んでいる。
白瀬もえは、この世界では“よそ者”ではない。
ちゃんと、ここに居場所を持っている。
「……天城くん」
「何だ」
「今また変な顔してる」
「またか」
「うん。たぶん何か考え込んでる時の顔」
「君が、ここではずいぶん自然だと思った」
「え?」
白瀬は目を丸くした。
「そうかな」
「そうだ。学校の時より、少し柔らかい」
「……それ、褒めてる?」
「褒めているつもりだ」
「そっか」
白瀬は少し照れたように笑ってから、すぐに前を向く。
「まあ……ここ、好きな人しかいないから」
「好きな人しかいない?」
「同じものが好きとか、同じジャンルが好きとか、絵が好きとか、創作が好きとか。少なくとも、ここにいる人たちは“何かが好き”で来てるでしょ」
「……なるほど」
「そういう意味では、学校より気が楽」
その言葉は、玲司の胸に少し残った。
好きな人しかいない場所。
だからこそ、白瀬もえはここで笑えるのかもしれない。
◇
設営が八割方終わったところで、玲司はようやく周囲を落ち着いて見る余裕を持った。
そして、理解する。
「白瀬」
「なに」
「ここは、かなり目立つ場所ではないか」
「……うん」
「通路が広い」
「うん」
「人の流れも、明らかに多い」
「うん」
「そして外周に近い」
「うん……」
白瀬はそこで、じわじわと居心地の悪そうな顔になった。
玲司は会場図を思い出す。
昨日まで、紙の上でしか知らなかった“壁”や“外周”という概念。それが今、現実の地形として目の前にある。
たしかにここは、列ができることを前提とした場所なのだろう。
人の導線。通路幅。搬入物の置き方。周囲との距離感。すべてが、“人が集まる前提”の作りに見える。
「これが、“壁”か」
「そうだよ」
「……なるほど」
玲司はようやく、その意味を実感として理解した。
言葉では知っていた。
人気のあるサークルが配置される場所。列形成に対応しやすい位置。
だが、それを“白瀬もえの机を前にして理解する”のは、まるで別のことだった。
「君は、本当にすごいんだな」
「っ……」
白瀬の手がぴたりと止まる。
「今、そのタイミングで言う?」
「事実確認だ」
「だからその事実確認で人が死ぬって何回も……!」
白瀬は顔を赤くして机の下へ潜り込みそうになった。
「待て。そこに逃げるな」
「逃げたい! 今すぐ島中の影に逃げたい!」
「君は壁なのだろう」
「そうだけど! 本人に壁って連呼されるとなんか違う羞恥があるの!」
玲司は少しだけ笑った。
その時、後ろから別の声が飛ぶ。
「mocoさん、今日もよろしくお願いします」
「こちらこそお願いします」
見ると、少し離れたスペースの男性が軽く会釈している。白瀬は自然に返し、それから小声で玲司に言った。
「この辺、何度か近くなったことある人たち」
「顔見知りか」
「うん。イベントって配置近いとけっこう話すから」
「なるほど」
玲司はまた一つ、彼女の知らない面を知る。
白瀬もえは、ここでは一人で戦っているわけではない。
同じ場を共有し、同じ熱を持ち、ゆるやかな繋がりの中で生きている。
それは、玲司の知らなかった彼女の社会だった。
「よし」
白瀬がぱん、と軽く手を叩いた。
「大体できた」
「最終確認は?」
「する。お品書き、価格、釣り銭、新刊位置、既刊位置、ポスター、在庫導線……」
「チェックしよう」
「うん」
二人で机の内外を確認していく。
お品書きの見やすさ。釣り銭ケースの位置。頒布物の取りやすさ。新刊が一番見える角度。差し入れを一時的に置ける空間。後ろへ回る導線。
玲司はそのたびに細かく気づいた点を言い、白瀬は「そこまで見る!?」と驚きつつ修正する。
「ここの隙間、荷物足引っかけるかも」
「……あ、ほんとだ」
「この既刊、手前の方が会計中に取りやすい」
「たしかに」
「釣り銭ケース、右利きならこっちが自然では」
「うわ、そうじゃん……」
白瀬は最後に、両手で自分の顔を覆った。
「どうしよう」
「何が」
「天城くんが有能すぎて、今後もう一人で設営できる気がしなくなる」
「それは困るな」
「困るよ! 依存したらだめなやつじゃん!」
「依存か」
「そこ反復しなくていいから!」
だが、彼女は本気で困っているというより、半分笑っていた。
◇
設営が終わり、開場までまだ少し時間がある。
周囲を見れば、どのスペースも最後の確認をしているところだった。飲み物を飲む者、椅子に座って静かに目を閉じる者、仲間と談笑する者。緊張の質は違っても、みな同じ“始まる前”の空気をまとっている。
白瀬もえは、机の後ろで小さく息を吐いた。
「……緊張してきた」
「今さらか」
「今さらだよ。設営してる間はそっちに集中してたけど、終わると一気に来る」
「列はできる」
「それ、励まし?」
「たぶん」
「たぶんって何……」
白瀬は笑いかけて、すぐに真顔になった。
「でも、怖いのはほんと」
「何が一番だ」
「……最初の数分かな」
「最初」
「人が来るか来ないか。最初に列ができるかどうか。あの時間だけは、何回やっても慣れない」
「そうか」
玲司は少し考え、それから静かに言った。
「なら、その最初の数分は僕が一番冷静でいよう」
「……え」
「君が動けなくなるなら困る。だから、その時は僕が前を見る」
「……」
「君は君のやるべきことをやればいい」
白瀬は何も言わなかった。
けれど、その視線はまっすぐ玲司へ向いていた。
「……ほんと」
「何だ」
「今日、いてくれてよかった」
「まだ始まっていないぞ」
「始まる前だから言うの」
「そうか」
玲司は小さく頷いた。
その時、遠くのアナウンスが会場内に響く。
開場が近いことを知らせる声。
空気が、一段階変わる。
周囲の雑音が少しだけ静まり、代わりに見えない緊張が広がった。
白瀬は深呼吸をひとつして、椅子の背にかけていた薄手の上着を整える。
「……よし」
「白瀬」
「なに」
「行けるか」
「行くしかないでしょ」
そう言った彼女の横顔は、少しだけ強かった。
玲司はその顔を見て、自分もまた背筋を伸ばす。
ここから先は、本当に始まる。
“壁”の意味を知った今ならわかる。
この場所に立つ白瀬もえは、ただ可愛い絵を描く女子高生ではない。
人を呼び、待たれ、受け取られる側の人間だ。
その隣に、今日の自分は立っている。
それを思うだけで、胸の奥に小さな熱が灯った。




