第2章 第3話 開幕、壁サーmocoの顔
開場直前の数分間は、奇妙な静けさがあった。
もちろん無音ではない。遠くのアナウンス、机を動かす音、誰かの小さな話し声、紙の擦れる音。そういった細かな物音は絶えずある。
それでも、その場にいる人間たちが一斉に息を潜めているような感覚があった。
嵐の前だ。
天城玲司はそう思った。
白瀬もえ――mocoのスペースの内側で、釣り銭ケースの位置を最後に確認し、机上のお品書きを見直し、頒布物の順番を頭の中で反復する。やるべきことはすでに教わった。流れも理解した。だが実際にそれがどれほどの速度で押し寄せてくるのかは、まだ体験していない。
白瀬もまた、明らかに緊張していた。
机の下で指先を軽く握っては開き、握っては開きを繰り返している。目線は正面へ向けているが、焦点は少し遠い。学校での彼女とも、修羅場中の彼女とも違う顔だ。
戦う前の顔。
「白瀬」
玲司は、あえて静かな声で呼んだ。
「……なに」
「深呼吸しろ」
「してる」
「足りない」
「厳しいなあ……」
そう言いながらも、白瀬は一度肩を落とし、大きく息を吸った。
そして吐く。
「……ありがと」
「まだ礼を言うには早い」
「それもそう」
白瀬は小さく笑い、その笑みが少しだけ緊張をほどいたようだった。
その時、少し離れた場所からざわめきが増した。人の気配が、はっきりと波になって近づいてくる。開場を知らせるアナウンスが流れたのだと、玲司は空気の変化で察した。
次の瞬間。
世界が、動き出した。
◇
最初の数十秒は、玲司にとってほとんど“流れ”だった。
遠くから人が来る。通路へ人の筋が生まれる。目当てのスペースへ迷いなく歩く者、途中で立ち止まる者、視線を机上へ滑らせる者。そこから一気に、人がこちらへ吸い寄せられてくる。
「……っ」
白瀬が、ごく小さく息を呑んだのがわかった。
だが次の瞬間には、彼女の目つきが変わる。
その変化は、思っていたよりはるかに鮮やかだった。
白瀬もえの顔から、“学校で静かにしている女子”の輪郭がするりと剥がれ落ちる。代わりに現れたのは、ここに立つことに慣れ、ここで人を迎えることを知っている創作者の顔だった。
「おはようございます、新刊あります」
声が、通る。
明るく、柔らかく、だがはっきりと。
玲司は一瞬、それが本当に白瀬の声なのか疑った。
学校ではこんな声の出し方をしない。少なくとも彼の知る白瀬は、ここまで自然に“前へ出る声”を使わない。
だが、今の彼女は迷いがなかった。
「最後尾こちらでーす」
玲司は我に返り、すぐに動いた。
事前に確認していた通り、列が伸び始めている。まだ混乱するほどではないが、明確に“流れ”ができている。迷っている暇はない。
「最後尾こちらです。通路を塞がないようお願いします」
声を出す。
思ったよりすんなり出た。
人は、その声に反応する。立ち位置を微調整し、並ぶ方向を変える。玲司は通路の幅を見ながら、列の先頭と最後尾の間隔を頭に入れた。人の流れが左右どちらへ寄るかも確認する。
そして、その最中にちらりと白瀬を見る。
彼女はすでに完全に“moco”だった。
笑顔が違う。頷き方が違う。受け渡しの手つきが違う。一人ひとりの客へ、短くてもきちんと視線を向け、言葉を返している。過剰ではないが冷たくもない。慣れている人間の速度で、だが相手を雑に扱わない。
玲司はそこでようやく、本当に理解した。
彼女はこの場で、待たれている人間なのだ。
「新刊一部お願いします」
「はい、ありがとうございます」
「既刊とセットで」
「はい、セットですね。ありがとうございます」
声が次々と飛ぶ。
玲司は頒布物を取る。受け渡す。金額を確認する。釣り銭を渡す。白瀬がサイン対応ではなく、基本頒布を優先できるよう、流れを止めないよう意識する。
最初の数分でわかったことがあった。
これは“会計”ではあるが、ただの会計ではない。
速さだけではだめだ。雑でもだめだ。相手はただ商品を買いに来ているのではなく、“mocoの新刊”を受け取りに来ている。そこにある熱量を冷まさず、でも混乱させず、滑らかに流す必要がある。
「ありがとうございます」
気づけば、玲司も自然に口にしていた。
その間にも列は伸びる。
想定していたより早い。白瀬が昨夜「最初の数分が一番怖い」と言っていた意味が、体感でわかった。これはたしかに怖い。人が来なかったら怖いし、来すぎても怖い。
けれど、今は後者だった。
「天城くん」
頒布の合間に、白瀬がごく小さく言う。
「なんだ」
「右の既刊、手前に出して」
「了解」
玲司はすぐに動く。
その手際を見ていたのか、列の前方にいた女性客が思わず笑った。
「売り子さん有能すぎません?」
「……恐縮です」
反射でそう返すと、その女性はさらに笑う。
「mocoさん、今日の売り子さんすごいですね」
「で、ですよね……」
白瀬は笑顔を崩さないまま、しかし耳だけ少し赤くなっていた。
玲司はその反応に少しだけ可笑しさを覚える。だが、可笑しがっている暇はない。次の客がもう目の前だ。
「新刊二部ください」
「はい、ありがとうございます」
「差し入れです」
「ありがとうございます。お預かりします」
差し入れは机の後ろへまとめる。長話になりそうな空気は、笑顔を保ったまま短く切る。列が詰まりすぎないよう、最後尾へ視線を飛ばす。前方の会計が途切れそうなら、新刊を取りやすい位置へ動かす。
玲司の中の“段取りの感覚”が、完全に起動していた。
そしてそれは、どうやらこの場と相性が悪くない。
◇
二十分ほど経った頃には、最初の混乱は明確な“流れ”へ変わっていた。
人はまだ多い。列もまだ長い。だが、今のスペースには一定のリズムがあった。
白瀬が受け取り、玲司が補佐する。
玲司が会計を引き受け、白瀬が一言添える。
差し入れは右後方、既刊は左手前、新刊は中央、釣り銭は金額別。昨日まで“知らない単語だらけ”だった男とは思えないほど、玲司は自然に動いていた。
「すみません、最後尾どちらですか?」
「こちらです」
「新刊まだありますか?」
「あります。机上のお品書きもご確認ください」
「ありがとうございます!」
客の目線が、自然と玲司を経由して白瀬へ向かい、また頒布物へ戻る。その循環ができていた。
玲司は、それが少しだけ嬉しかった。
自分が今、白瀬もえの世界の流れを邪魔せず、むしろ支える側に立てている。その実感があったからだ。
「……天城くん」
また小さく呼ばれる。
「なんだ」
「左の在庫、あと少し」
「了解」
「あと、喉乾いてない?」
「今は問題ない」
「私はちょっと乾いた」
「飲め」
「今、無理」
「なら次の切れ目で渡す」
「うん、お願い」
ごく短い会話だ。
だがその短いやり取りの中にも、妙な信頼感が生まれていることを、玲司は感じていた。
白瀬はもう、彼を“無理やり巻き込んだ外部の人間”としては見ていない。少なくとも今この瞬間は、同じスペースを回す相手として扱っている。
それが少し、誇らしかった。
そして同時に。
白瀬もえがこの場所でどれほど魅力的に見えるかを、玲司は知ってしまった。
彼女はファンの前で必要以上に媚びるわけではない。だが、笑う時は柔らかく笑い、頒布物を渡す時には相手の目を見て、短い一言にもきちんと気持ちを乗せる。
それが自然にできてしまう。
“mocoの顔”とは、こういうことなのだ。
人前に立ち、待たれ、喜ばれ、それでも自分を見失わない顔。
玲司は思う。
好きにならない方が難しい。
「……」
「天城くん?」
「いや、なんでもない」
「今ちょっと変な間あったよ」
「業務に支障はない」
「あるかもだから戻ってきて!」
白瀬は小声でそう言ったが、その口元は少しだけ緩んでいた。
どうやら彼女も、頒布の流れがうまく回っていることを感じているらしい。
そこへ、列の中ほどにいた若い男性が、会計を済ませたあとしみじみと言った。
「今回もめちゃくちゃ可愛かったです。待ってました」
「ありがとうございます」
白瀬は、ほんの少し目を細めてそう返す。
その“ありがとうございます”は、最初の頃の業務用の声とは少し違っていた。
ちゃんと届いた相手へ返す声だった。
玲司はその一瞬を見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。
彼女は、ただ絵を描いているだけではない。
こうして、誰かに待たれ、言葉を返され、受け取られている。
その光景が、ひどくまぶしい。
◇
列はまだ途切れない。
だが玲司は、もう最初の頃のような圧倒は感じていなかった。代わりに、冷静な観察が増えていた。
頒布ペースは速い。想定以上だ。
新刊の箱の減りも目に見えて早い。列の長さだけではなく、セットで買う割合も高い。これはあとで白瀬に伝えるべきだろう、と玲司は頭の片隅に留める。
そして、その考えとほぼ同時に、また別の声が飛んだ。
「mocoさん、今日めっちゃ列きれいですね」
「……え?」
白瀬が一瞬、きょとんとする。
「売り子さん、プロの人ですか?」
「いえ」
答えたのは玲司だった。
「本日限りの臨時です」
「臨時でこれ!? すご……」
客は驚いたように笑って去っていった。
白瀬はその背を見送り、それから横目で玲司を見る。
「……プロの人ですか、だって」
「違う」
「知ってる。でも、たぶん今のは褒め言葉」
「君がそう思うならそうなのだろう」
「いや、その返しで流さないでよ。普通に助かってるから」
「それは何よりだ」
白瀬は数秒、何か言いたそうに口を開きかけて、結局閉じた。
頒布中でなければ、たぶんもっと別のことを言っていただろう。だが今は仕事が先だ。それを彼女自身が一番よくわかっている。
だからこそ、次の客へ向ける笑顔が崩れない。
恋より原稿。
そして今は、恋より頒布。
その姿勢を、玲司はむしろ好きだと思った。
いや。
もはや“好きだと思った”ではなく、もう好きなのかもしれない。
その感情の名前に、うすうす気づきながらも、玲司は今はそれを口にしない。
なぜなら今目の前にあるのは、白瀬もえの“本気の時間”だからだ。
それを邪魔するつもりは、まったくなかった。
列の向こうでは、まだ新しい客がこちらへ向かってくる。
玲司は一度だけ深く息を吸い、最後尾の位置を確認し、机上の在庫と釣り銭を見て、また声を出した。
「最後尾こちらです。足元ご注意ください」
その声はもう、最初のような借り物ではなかった。
少なくともこの瞬間だけは、彼もまた確かに、このスペースの一員だった。




