第2章 第4話 学校関係者、接近
列には、波がある。
天城玲司は、頒布開始からしばらくしてそれを体で覚え始めていた。
一気に押し寄せる時間帯。
少しだけ流れが緩む瞬間。
その隙間に在庫を整え、釣り銭を確認し、差し入れを寄せ、白瀬もえへ水を渡す。
今がまさに、その“ほんの少しだけ緩む瞬間”だった。
「飲め」
「ん……ありがと」
白瀬は机の内側へ少し身を引き、ペットボトルの水をひと口だけ飲んだ。たったそれだけなのに、張り詰めていた顔の輪郭がわずかにほどける。
玲司はその横顔を見て、心の中で頷く。
ここまでの流れは悪くない。
列はまだ続いている。だが混乱はない。最後尾対応も追いついている。頒布物の置き方も、昨日二人で確認した通りに機能している。白瀬はmocoとしての顔を保ったまま、ファンへ向き合えている。
その時だった。
白瀬の手が、ぴたりと止まった。
「……え」
小さな、あまりにも小さな声だった。
けれど、玲司にはすぐわかった。
今の声は、原稿の不安でも、頒布の焦りでもない。別の種類の緊張だ。
「どうした」
玲司は正面を向いたまま、小さく尋ねる。
「……うそ」
「白瀬」
「前、三人目」
「……」
玲司は視線だけを滑らせる。
列の中ほど。
こちらを見ながら何か話している男子生徒が二人いた。服装は私服だが、顔に見覚えがある。星ヶ峰学園の別クラスの生徒だ。名前までは出てこないが、少なくとも校内で見たことがある。
片方はアニメ系の話題で盛り上がっているのを何度か見たことがある。
もう片方はその友人らしい。
距離はまだある。
だが、このまま頒布が進めば、数分以内に確実にスペースの正面へ来る。
白瀬もえの顔から、一瞬だけ血の気が引いたのがわかった。
「……学校」
「見ればわかる!」
声にならない悲鳴だった。
玲司は一瞬で頭を切り替えた。
やるべきことは明白だ。
混乱させない。
列を止めない。
そして、白瀬に数秒の猶予を作る。
「白瀬」
「なに」
「今から、僕が前に出る」
「でも」
「君は顔を整えろ」
「……っ」
「大丈夫だ。いつも通りやれ」
白瀬は何か言いかけ、しかしすぐに閉じた。
今は反論している時間がないと理解したのだろう。
彼女はペットボトルを机の奥へ置き、すっと一度深呼吸した。
玲司は半歩前へ出る。
机の位置、ポスターの角度、客の視線、通路の幅。
すべてを一瞬で見て、自分の立つべき場所を決める。
頒布物を受け取る時、わずかに身体を斜めにする。
会計の動線を少し変える。
それだけで、正面から机の奥を見る角度が少しだけ限定される。
大げさではない。
だが、意図は明確だ。
「新刊一部お願いします」
「ありがとうございます」
玲司が会計を受け、白瀬はいつも通りに笑顔を向ける。
その笑顔は、直前まで手が震えていた人間のものには見えなかった。さすがというべきか、彼女は土壇場で切り替えた。
列が一人、また一人と進む。
そして、ついに。
「あれ?」
星ヶ峰の男子生徒の一人が、正面へ来た。
玲司は心の中で息を整える。
「新刊二部と、既刊セットで」
「承知しました」
あえて少しだけ低めに、落ち着いた声で応じる。
玲司は会計の動作を自然に速め、相手の視線が奥へ行ききる前に紙袋と本を渡せるよう位置を調整した。
「え、ちょっと待って」
男子生徒が玲司の顔を見る。
「……天城くん?」
来た。
だが、想定内だ。
「どうも」
玲司は、あまり大げさに反応せず、短く答える。
「えっ、え、なんでここに?」
「手伝いだ」
「手伝いって……」
相手の視線が、玲司からスペースの奥へ向かいかける。
その瞬間、玲司は会計の流れを一段前に出した。
「代金はこちらです」
「あ、ああ、ごめん」
千円札が出る。
釣り銭を渡す。
本を渡す。
動作を止めない。
男子生徒はまだ混乱している。だが、列の後ろがある以上、ここで長々と立ち止まるわけにもいかない。
「天城くん、そういう趣味あったんだ?」
「人の趣味を知る機会があってな」
「え、うそ、ちょっと詳しく――」
「後ろがつかえている」
玲司は静かに言った。
相手は後ろを振り返り、列の存在に気づいて慌てる。
「あっ、すまん。じゃ、じゃあまた学校で」
「機会があれば」
男子生徒たちは半ば押し流されるようにその場を離れた。
だが去り際、もう一人の友人の方が、ちらりとスペースの奥を見た。
「今の……」
「行くぞ」
先の男子生徒が腕を引く。
「お、おう」
二人はそのまま人波へ紛れていった。
玲司は内心、まだ終わっていないと判断していた。
疑念は残っただろう。だが少なくとも、ここで“白瀬もえ=moco”まで確信されたわけではない。
数秒後、頒布の流れが一段落したところで、玲司は横目で白瀬を見る。
「大丈夫か」
「……っ、は」
白瀬は今になって息を吐いた。
呼吸を止めていたのかもしれない。
指先が少し白くなっている。ペンを握っていないのに、力が入っていたのだろう。
「今の、心臓止まるかと思った……」
「止まってはいない」
「そういう問題じゃないの……!」
それでも白瀬は、机の下で膝が少し揺れていた。
玲司は机の内側へ飲み物を寄せる。
「飲め」
「う、うん」
白瀬はペットボトルを受け取り、両手で持ってひと口飲む。
その手が、ほんの少し震えていた。
「……助かった」
「まだ確定ではない」
「でも、今のがなかったら、たぶん私ほんとに固まってた」
「そうか」
「そうだよ……」
白瀬は目を閉じ、少しだけ俯く。
「天城くんが前に出てくれたから、ギリギリ戻れた」
「君が自分で戻ったんだ」
「でも、時間は作ってくれた」
彼女はそう言って、机の下で片手を握る。
「……ほんとに助かった」
その声は、今までで一番素直だった。
玲司は何も気の利いたことを言わなかった。
代わりに、机の影で震えている彼女の手元を見て、小さく問う。
「冷えているか」
「え?」
「手」
「……あ」
白瀬はそこで初めて、自分の手が冷えていることに気づいたらしい。
指先を見て、苦笑する。
「ほんとだ」
「もう少し飲め」
「うん……」
玲司はその様子を見ながら、胸の奥に静かな怒りにも似たものが生まれるのを感じていた。
ただの偶然だ。
ただ学校の知り合いが来ただけだ。
なのに、白瀬もえはこんなにも追い詰められる。
彼女がどれだけ慎重に、学校とこの世界を分けてきたのか。
どれだけ大事に守ってきたのか。
今の一瞬だけでも、はっきりわかった。
だからこそ――守りたい、と思う。
「白瀬」
「なに」
「次も来るかもしれない」
「う……」
「だが、その時も同じだ。君はいつも通りやればいい」
「……天城くんは?」
「僕が前を見る」
白瀬は数秒、黙っていた。
そして、ほんの少しだけ目を細める。
「……かっこよすぎるの、今は禁止なんだけど」
「禁止されても困る」
「困ってよ……」
そう言いながらも、白瀬の頬には少しだけ色が戻っていた。
そのタイミングで、また新しい列の波が来る。
今度はさっきより穏やかだ。
だが、止まってはいられない。
白瀬は一度、自分の頬を軽く叩いた。
「……よし」
「戻れるか」
「戻る。じゃないと今の自分が悔しい」
その目には、もうさっきまでの怯えだけではなく、負けたくないという色もあった。
玲司は小さく頷く。
「なら行こう」
「うん」
そして次の客が来る。
「新刊一部ください」
「はい、ありがとうございます」
白瀬の声は、もう元に戻っていた。
いや、さっきより少しだけ強い。
玲司はその変化を感じながら、また会計へ手を伸ばす。
たった今、彼は自覚したばかりだ。
自分はもう、彼女の世界を見ているだけでは満足できない。
この場所で笑う彼女を守りたい。
脅かすものがあるなら、その前に立ちたい。
それはもはや、ただの親切ではなかった。
列の向こうでは、また新しい客が足を止める。
会場のざわめきの中で、玲司は静かに息を整え、いつも通りの声音で告げた。
「最後尾はこちらです。足元ご注意ください」
その声は落ち着いていた。
だが胸の奥では、先ほどよりずっと強い熱が灯っていた。




