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財閥御曹司の俺が恋したのは、コミケで壁サーを張る“えっちなお絵描き女子”でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第2章 第5話 完売、そして壁の向こう側

 列は、まだ途切れない。


 だが天城玲司は、その流れの中に微妙な変化が生まれていることに気づいていた。


 新刊の箱の減り方が早い。


 机の下に積んである在庫を、さっきより高い頻度で確認するようになっている自分に、玲司は少しだけ驚いていた。ほんの数日前まで、同人誌即売会で何がどう動くかなど知らなかったはずだ。だが今は、列の長さ、会計速度、セット購入率、机の上から減っていく冊数、その全部を自然と見ている。


「白瀬」

「なに」

「新刊、残数は?」

「……え?」

「あとどのくらいある」

「えっと、机上の分と、下の二箱目が半分くらい」

「想定より早いか」

「……うん、ちょっと」


 白瀬もえはそう言ったものの、声にはまだ実感がないようだった。


 無理もない。


 彼女はいま、目の前の頒布を回すことで精一杯だ。

 一人ひとりに本を渡し、言葉を返し、緊張と喜びを同時に抱えながら、流れを止めないようにしている。その最中に全体の在庫推移まで俯瞰するのは難しい。


 だから玲司は、代わりに見る。


「このペースなら、昼前に危ない」

「……え」

「セット購入が多い。予測より速い」

「そ、そんなに?」

「たぶん」


 白瀬が一瞬だけ目を見開く。


 その一瞬で、彼女の中に新しい緊張が走ったのがわかった。

 来ないかもしれないという不安とは別の、来すぎてしまうかもしれないという種類の不安だ。


「どうする」

 玲司が尋ねる。

「どうするって……」

「頒布ペースを少し抑えるか、このまま行くか」

「……」

「白瀬」

「……このままで」

 白瀬は小さく、しかしはっきりと言った。

「できるだけ、来てくれた人に渡したい」

「わかった」


 玲司はそれ以上言わなかった。


 彼女の答えは、十分に理解できたからだ。


 部数や配分の合理性だけなら別の選択肢もあったかもしれない。

 だが今の白瀬もえにとって一番大事なのは、“自分の本を求めて来てくれた人へ、できるだけちゃんと渡すこと”なのだろう。


 その優先順位は、きっと間違っていない。


     ◇


 頒布の波は、再び強まった。


 昼が近づくにつれて一般参加者の流れが変化し、別の時間帯の客層が動き始めているのが玲司にもわかる。列の空気も少し変わった。開場直後の“まず真っ先に来た”熱量とはまた別の、下調べを終えて確実に目当てへ向かう人間たちの流れだ。


「新刊まだありますか?」

「あります」

「セットでお願いします」

「ありがとうございます」

「今回の表紙すごく好きです」

「……ありがとうございます」


 白瀬の返事が、ほんの少しずつ柔らかさを増していく。


 最初は緊張で張っていた声が、今は喜びに揺れていた。

 それでも手元は乱れない。受け取る、渡す、笑う、返す。その一連の動作は、やはり慣れている人間のものだった。


 だがその裏で、玲司は在庫の減りを見続ける。


 あと一箱。

 その一箱も、もう薄くなってきている。


「白瀬」

「……うん」

 今度は彼女も、呼ばれる前から気づいていたらしい。

「もう、そんなにない?」

「たぶん、次の波で危ない」

「……そっか」


 白瀬の目が、ほんのわずかに揺れた。


 嬉しいはずだ。

 想定以上に出ているのだから。

 それでも、そこで素直に喜べないのが彼女らしい。来てくれる人がいる限り、“足りなくなる”ことを先に考えてしまう。


「列、あとどのくらい?」

「今並んでいる全員に行くかは、微妙だ」

「……」


 白瀬は一瞬だけ唇を噛んだ。


 その時、ちょうど次の客が笑顔で言った。


「新刊一部ください」

「はい、ありがとうございます」


 白瀬は、その一瞬で切り替えた。


 表情を崩さない。

 声も変えない。

 目の前の一人に対しては、何も変わらないように接する。


 玲司はそれを見て、胸の奥が強く打たれる。


 すごい、と思った。


 ただ上手いとか人気だとか、そういうことではない。

 目の前の相手一人を雑に扱わない、その姿勢そのものがすごいのだ。


「……」


 そして同時に、好きだ、とも思う。


 もうこれは、かなり明確だった。


     ◇


 限界は、思っていたより静かに訪れた。


 大声を出す者も、急に人が押し寄せるわけでもない。

 ただ、机の下の箱から最後の数冊を取り出した時、玲司はそれを確信した。


 もう、すぐだ。


「白瀬」

「……うん」

「あと十」

「……」

「セット率を考えると、かなり近い」

「わかった」


 白瀬の返事は小さかった。


 けれど、その顔は不思議と落ち着いていた。

 腹を括った人間の顔だ。


 そして、その“時”は本当にすぐ来た。


「新刊一部お願いします」

「はい」

「こちら、新刊で最後になります」

「え、もう!?」

「申し訳ありません」


 玲司がそう告げると、前の女性客は驚いた顔をしたあと、それでも嬉しそうに本を受け取った。


「買えてよかったです」

「ありがとうございます」


 白瀬が深く頭を下げる。


 その瞬間、列の後方にざわめきが広がった。


「え、新刊終わった?」

「うそ、もう?」

「早くない?」


 悲鳴ではない。

 怒号でもない。

 ただ、本当に予想していなかった人たちの驚きと落胆が、波のように通路へ広がっていく。


 玲司はすぐに立ち位置を変えた。


「申し訳ありません。新刊は完売です」

 落ち着いた声で、しかしはっきりと告げる。

「既刊はまだございます。お品書きをご確認ください」


 列が一瞬ざわつく。

 だが、白瀬がすぐに立ち上がった。


「本当にありがとうございます。新刊は完売しました。既刊だけでもよろしければご案内できます」


 mocoの声だ。


 少しだけ震えている。

 だが、笑顔は崩れていない。


 その笑顔を見て、列の空気が少しだけ和らいだ。


「じゃあ既刊だけでも」

「今日は買えなかったけど、次も来ます」

「再販の予定ありますか?」

「検討します、ありがとうございます」


 白瀬は一人ひとりに、短くてもきちんと返していく。


 玲司はその横で、最後尾札を下げ、列の整理を切り替え、既刊対応へ移る。

 今やるべきことは、新刊がなくなったという事実で混乱を広げず、ここまで並んでくれた人たちの期待を少しでも裏切らないようにすることだ。


 数分後。


 長かった列は、ようやく収束した。


 通路にはまだ人が多いが、mocoのスペース前だけ見れば、さっきまでの熱が一度引いたのがわかる。


 そしてその時、白瀬もえは初めて、机の上から新刊が完全に消えたことを正面から見た。


「……」


 何も言わない。


 ただ、そこを見ている。


「白瀬」

 玲司が小さく呼ぶ。

「……うそみたい」

「完売だ」

「……うん」


 白瀬はそれでも、まだ実感を持てずにいるようだった。


「ほんとに?」

「ほんとにだ」

「……全部?」

「全部だ」


 数秒の沈黙。


 そして次の瞬間、白瀬は思いきり両手で顔を覆った。


「むり」

「何がだ」

「今それちゃんと言われると、むり」

「事実確認だ」

「だからその事実確認で人は感情が追いつかなくなるの!」


 声が、少しだけ震えていた。


 玲司はその震えが、焦りではなく別のものだと理解する。

 喜び。安堵。信じられなさ。報われた感覚。いろいろなものが一気に押し寄せているのだろう。


 そこへ、さっき新刊を手にした男性客が、スペース前へ戻ってきた。


「mocoさん」

「……はい」

「今回も最高でした。表紙見た瞬間、絶対欲しいと思ってました」

「っ……ありがとうございます」

「次も楽しみにしてます」


 短い言葉だった。


 だが、白瀬はその一言を正面から受け止めていた。

 目が、少し潤んで見える。


 その客が去ったあとも、差し入れだけ置いていく人、既刊だけ買いに来る人、完売を惜しみながら「また来ます」と言ってくれる人が続いた。


 玲司は、その一人ひとりの声を聞きながら思う。


 これが、彼女が積み上げてきた時間の結果なのだ。


 夜を削り、悩み、研究し、怖がりながらも描き続けてきたものが、今こうして言葉になって返ってきている。


 それはきっと、簡単に得られるものではない。


     ◇


 ひと段落したあと、白瀬は机の内側へしゃがみ込んだ。


 座り込む、というほどではない。

 だが立ったままではいられなかったのだろう。


「大丈夫か」

「……大丈夫じゃないかも」

「体調か」

「感情」


 白瀬は膝に顔を埋めるようにして、小さく息を吐いた。


「なんか、だめ」

「嬉しいのか」

「嬉しい」

「ならいいだろう」

「よくないの。嬉しいと、泣きそうになるから」


 その答えに、玲司は少し黙った。


 机の向こうでは、まだ通路のざわめきが続いている。

 別のスペースの声も聞こえる。

 世界は動き続けているのに、この机の内側だけが少し違う時間になっていた。


「白瀬」

「……なに」

「並んでまで欲しいと思われるって、すごいことなんだな」

「……っ」


 彼女の肩が、小さく揺れた。


 玲司は、気の利いた慰めを言うつもりではなかった。

 ただ、本当にそう思ったのだ。


 自分が何かを“待たれる側”になったことはない。

 何かを作って、欲しいと思われ、並ばれ、受け取られ、感想を返される。そんな経験は、彼の人生にはなかった。


 だからこそ、今目の前で起きていることが、どれほどすごいのかがわかる。


「……天城くん」

「なんだ」

「今、そういうこと言うの……」

「だめだったか」

「だめ」

「なぜだ」

「泣くから」


 白瀬は顔を上げた。


 本当に少しだけ、目の端が赤い。

 だがそれでも、ちゃんと笑おうとしていた。


「私、締切前はめちゃくちゃ強気なのに、終わったあとと完売したあとだけ無理になる」

「知っている」

「知られてるの最悪……」

「最悪ではないだろう」

「……うん。たぶん、最悪じゃない」


 その返事は、小さかった。


 玲司は手元の飲み物を彼女へ差し出す。


「飲め」

「ありがと」

「あと、少し座っていろ」

「うん……」


 白瀬は素直に受け取り、キャップを開けてひと口飲んだ。


 その間にも、まだ既刊を求めて来る客がいる。玲司はそちらへ応じつつ、同時に白瀬の呼吸が落ち着いていくのを待った。


 そして数分後、ようやく彼女は顔を上げた。


「……戻る」

「もう少し休め」

「いや、ここでへたり込んでるの、なんか違う」

「そうか」

「うん。まだイベント終わってないし」


 白瀬は目元を軽く指で押さえてから、立ち上がった。


 その動作に、もうさっきまでの揺らぎは少ない。

 もちろん感情は残っているだろう。だが彼女は、その感情ごと立ち上がる人間だった。


「じゃあ、午後戦線いきます」

「物騒な言い方だな」

「コミケなので」

「そうだったな」


 白瀬はくすっと笑った。


 そして、そのまま机の向こうへ戻る。

 mocoの顔に戻る。

 けれど玲司には、さっき机の内側で揺れていた白瀬もえの顔も、ちゃんと見えていた。


 その両方を知ってしまったことが、どうしようもなく特別に感じられる。


 列はもう朝のようには長くない。

 だがスペースの前にはまだ人が来る。差し入れ、感想、既刊、新刊完売を惜しむ声。


 その一つひとつを受け取りながら、白瀬もえはここに立っている。


 玲司はふと、机上の“新刊完売”の事実を示す空白を見た。


 ほんの少し前までそこに積まれていた本は、もう誰かの手の中にある。


 それはたぶん、白瀬もえが越えてきた壁の“向こう側”なのだろう。


 そして自分は、その瞬間を隣で見ていた。


 それだけで、十分に意味があった。

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