第2章 第6話 打ち上げ前、二人きりの余韻
イベントの終わりは、始まりより静かだった。
開場直後のような熱の奔流も、完売時のざわめきも、いまはもう遠い。会場全体にはまだ人の気配が満ちているし、撤収作業の音もあちこちから聞こえる。だが、それは祭りの最中の喧騒とは違う。
終わった者たちの音だ。
天城玲司は机の下に残った既刊の箱を引き寄せながら、今日一日の流れを頭の中で反芻していた。
開場。
列。
学校関係者との遭遇未遂。
新刊完売。
差し入れの山。
mocoとして笑う白瀬もえの顔。
たった一日なのに、妙に濃い。
「天城くん」
白瀬もえの声がする。
「何だ」
「その箱、こっち先。搬出用にまとめたい」
「了解」
玲司は言われた通り箱をずらす。
イベント終盤の白瀬は、開場前とも完売直後ともまた違う顔をしていた。疲れているのは間違いない。髪も少し崩れ、声も朝より低い。それでも表情はどこか晴れやかで、動きには変な軽さがある。
やり切った人間の顔だった。
「ポスター外す」
「僕がやろう」
「え、届く?」
「たぶん」
「その“たぶん”はちょっと不安なんだけど」
「ではやってみる」
玲司が手を伸ばすと、白瀬は一瞬だけ見上げて、それから諦めたように笑った。
「……ほんと、こういう時だけ無駄に絵になる」
「褒めているのか」
「褒めてない」
「そうか」
「ちょっとは褒めてる」
「どっちだ」
「うるさい」
言葉のやり取りはいつも通りだ。
だが、その“いつも通り”が、今日の二人には少しだけ甘く感じられた。
撤収は設営よりも早い。
並べたものをしまい、掲示物を外し、残った在庫を数え、差し入れや私物を分ける。やることは多いが、始まりに向かう作業ではなく、終わりを畳む作業だからだろう。空気は少しやわらかい。
「これ、差し入れ」
玲司が紙袋をひとまとめにする。
「ありがと。多いなあ……」
「かなりある」
「こんなにもらえると思ってなかった」
「君は、自分の規模を過小評価しすぎだ」
「本人にそういうの言わないでって何回も――」
「事実確認だ」
「その事実確認が心臓に悪いの!」
白瀬は頬を赤くしながらも、今日はその抗議にあまり勢いがない。疲れているのもあるだろうが、それ以上に、もう隠しきれない充足感が勝っているように見えた。
「新刊の部数、次は見直した方がいいな」
玲司が残数メモを見ながら言う。
「う……」
「再販するなら別だが」
「それ、今言う?」
「今のうちに記録した方がいい」
「仕事できる人の発想なんだよなあ……」
白瀬はため息をついたが、すぐにメモ帳を取り出した。
「……たしかに、忘れる前に書く」
「そうしろ」
「はいはい」
そうして二人で、残数、完売時間、既刊の動き、差し入れの数、学校関係者遭遇未遂という“想定外”まで簡単に書き留めた。
玲司はふと気づく。
この作業は、妙に自然だ。
まるで最初からずっと、こうして白瀬もえの隣で手伝ってきたかのように、違和感がない。
ほんの少し前まで、コミケも壁サーも知らなかったはずなのに。
「……終わった」
白瀬が、小さく言った。
「撤収か?」
「ううん。今日が」
その声は、思っていたより静かだった。
玲司はその言葉に、すぐには返事をしなかった。
ただ、机の上から最後のお品書きを外し、きれいに畳んで彼女のファイルへ入れる。
その動作まで終えて、ようやく頷いた。
「ああ。終わったな」
「……うん」
白瀬はその一言で、また少しだけ力が抜けたらしかった。
◇
会場の外へ出ると、夕方に近い光が二人を包んだ。
朝のあの張り詰めた空気とはまるで違う。人の流れはまだ多いが、どこかみな疲労と達成感に包まれている。キャリーケースを引く音、笑い声、「また次回」の挨拶。熱の残り香だけを残して、祭りは少しずつ閉じていく。
「……うわ」
白瀬が小さく言った。
「何だ」
「外、明るい」
「当然だろう」
「いや、わかってるけど……。なんか、中にいると時間感覚なくなるから」
「そういうものか」
「そういうもの」
白瀬はキャリーケースの持ち手を引きながら、会場の外の広い通路を歩く。
その足取りは、最初のうちは普通だった。
だが、人波が少し落ち着いたあたりで、不意に彼女の身体がぐらりと傾いた。
「……っ」
「白瀬!」
玲司はとっさに腕を伸ばした。
白瀬の肩を支え、そのまま倒れないよう引き寄せる。キャリーケースの車輪が斜めに滑り、白瀬の体重がほんの一瞬だけ玲司へ預けられた。
「大丈夫か」
「……ごめん」
「謝るな」
「足、変に抜けた」
「座るか」
「いや、そこまでじゃ……」
言いながらも、白瀬の声には明らかに疲労が滲んでいる。
玲司はそのまま近くの壁際へ誘導した。人の流れの邪魔にならない位置で、一度立ち止まる。
「水は」
「ある……」
「飲め」
「うん……」
白瀬はペットボトルを開け、少しだけ飲んだ。
だが、その間も玲司の腕を軽く掴んだままだった。自分では気づいていないのかもしれない。あるいは、気づいていて離す余裕がないのか。
玲司はその手の熱を、妙に強く意識してしまう。
「……ごめん、ほんと」
「だから謝るな」
「でも」
「今日一日動き続けていたんだ。少しふらつくくらい当然だろう」
白瀬はそれを聞いて、少しだけ視線を逸らした。
「……天城くん」
「何だ」
「今、近い」
「支えたからな」
「そうだけど……」
それでようやく、自分の手が玲司の腕にかかったままだと気づいたらしい。白瀬は一気に顔を赤くし、ぱっと手を離した。
「っ、ごめん!」
「今度はその謝罪か」
「だって近いんだもん!」
「倒れるよりいい」
「理屈はそうだけど!」
白瀬は耳まで赤くなったまま、一歩だけ離れた。
けれどその一歩は、完全に距離を取るためのものではなく、単に自分の鼓動を落ち着かせるためのものに見えた。
玲司は、そこで初めて自分の胸の鼓動も少し速いことに気づく。
仕方ないだろう。
あんなふうに、彼女の体重を受け止めるような形になったのだから。
「落ち着いたか」
「……ちょっとだけ」
「ならよかった」
「よくない。いろいろよくない」
白瀬はぶつぶつ言ったが、その口元は少しだけ笑っていた。
◇
会場外のベンチが空いていたので、二人はそこへ腰を下ろした。
打ち上げの約束までは、まだ少し時間があるらしい。白瀬は「幼馴染のかれんがあとで合流する」と言っていたが、今はまだ二人だけだ。
その“まだ二人だけ”の時間が、妙に静かだった。
会場の喧騒は遠く、風が少しだけ涼しい。
「……今日の天城くん、ほんとにすごかった」
白瀬が、ふいに言った。
「何がだ」
「全部。売り子も、列対応も、在庫の見方も、あと学校の子来た時の動きも」
「必要なことをしただけだ」
「それができるのがすごいの」
白瀬は足元を見ながら続ける。
「正直、最初はどうなるかと思ってた」
「ひどいな」
「だってそうでしょ。御曹司だよ? 絶対、現場来たら浮くと思ってた」
「浮いていたか?」
「いい意味で浮いてた」
「褒めているのか」
「今日はかなり褒めてる」
白瀬はそう言って、少し照れくさそうに笑った。
「あとね」
「うん」
「天城くんがいたから、今日の私はだいぶ楽だった」
「……そうか」
「うん。ほんとに」
その言い方は、冗談でも気休めでもなかった。
玲司はその重みをきちんと受け止める。
自分が今日ここへ来たことには、たしかに意味があったのだ。
「ならよかった」
「うん」
白瀬は一度頷いて、それから少しだけ間を置いた。
「天城くん」
「何だ」
「今日、どうだった?」
「何がだ」
「コミケ。私の世界」
その問いに、玲司はすぐには答えなかった。
今日見たものが多すぎて、ひとつの言葉にまとめるには少し時間が必要だったからだ。
人の波。
mocoの笑顔。
待っていたと言う声。
新刊完売の空白。
机の内側で泣きそうになっていた白瀬もえ。
その全部を思い返して、ようやく口を開く。
「……好きになりそうだ」
「え」
「君の世界を」
玲司は静かに言った。
「ここでの君も、ここへ来る人たちも、流れも、熱も。全部ひっくるめて、好きになりそうだ」
白瀬が、息を止めたのがわかった。
「そ、そういう言い方、ずるい」
「ずるい?」
「だって今の、それ、なんか、私ごと好きって言われてるみたいに聞こえる……!」
「完全には否定できない」
「なにそれ!」
白瀬の顔が、一気に真っ赤になる。
「ちょ、ちょっと待って、今さらっととんでもないこと言わなかった?」
「思ったことを言っただけだ」
「その“思ったこと”の威力を考えてよ!」
白瀬は両手で自分の顔を扇いだ。
会場帰りの疲労で赤いのではない。
どう見ても別の意味で赤い。
玲司はその反応を見て、自分もずいぶん危ういことを言ったのだと遅れて理解した。だが、不思議と後悔はなかった。
それくらい、今日見た彼女の世界は眩しかった。
「……でも」
白瀬が、小さく言う。
「でも?」
「嫌じゃない」
その声は、風に紛れそうなくらい小さかった。
「むしろ、うれしい」
「……そうか」
「うん。だって、私の好きなもの、ちゃんと見て、好きになりそうって言ってくれたの、たぶん初めてだから」
玲司は、その言葉に何も返せなかった。
彼女にとって、それがどれだけ大きいことなのか、少しわかってしまったからだ。
白瀬もえは、自分の好きな世界をずっと守ってきた。
学校からも、無理解からも、雑な視線からも。
その世界に対して“好きになりそう”と言われることが、どれだけ救いになるか。
考えれば考えるほど、胸の奥が熱くなる。
「……天城くん」
「何だ」
「今の、ちゃんと責任取ってよ」
「責任?」
「だってもう、しばらく思い出して一人で変な顔するやつだから」
「それは困るな」
「困って」
「困っている」
「ほんとかなあ……」
白瀬はそう言いながらも、明らかに嬉しそうだった。
そして、二人の間に短い沈黙が落ちる。
だがその沈黙は気まずくなかった。
むしろ、心地よい。
イベントの熱が抜けたあとにだけ訪れる、少し浮いたような余韻。
その中で、二人だけが同じものを見てきた共有感が、静かに残っていた。
「……そろそろ行こっか」
白瀬が立ち上がる。
「打ち上げか」
「うん。かれんが待ってるはず」
「幼馴染の」
「そう。絶対うるさい」
「楽しみだ」
「楽しみなんだ……」
白瀬は苦笑した。
だが立ち上がった瞬間、またほんの少しだけ足元が揺らいだ。
今度は倒れるほどではない。けれど、玲司はすぐに手を差し出した。
「ほら」
「……ありがと」
「今日の君は思った以上に危ういな」
「だって朝から戦ってたんだもん……」
白瀬は玲司の手を借りて立ち上がり、そのまま一秒だけ手を離しそびれた。
目が合う。
また、少しだけ距離が近い。
白瀬の頬が熱を持つのが見える。
「……近い」
「さっきも聞いた」
「わかってるけど、近いものは近いの!」
「なら離すか」
「それは……う、うん、そう」
白瀬は慌てて手を離した。
だがその声には、わずかな惜しさのようなものも混じっていた気がして、玲司は自分の都合のいい解釈かと少しだけ迷う。
それでも、今日一日を経てはっきりしたことがある。
白瀬もえはもう、自分をただの協力者としてだけは見ていない。
そして自分もまた、彼女をただの“壁サーのクラスメイト”としては見られなくなっていた。
「行こう」
玲司が言う。
「うん」
「打ち上げでも、倒れるなよ」
「その言い方ひどい」
「事実確認だ」
「もうそれ禁止!」
白瀬は笑いながらキャリーケースの持ち手を握り直した。
その横顔は、朝よりずっとやわらかい。
そして玲司は、その顔を見ながら思う。
今日、自分の恋は、かなり決定的なところまで来てしまったのかもしれない。




