第8話 夏コミ前夜、御曹司は彼女の世界に踏み込む
夏の夜は、妙に音が遠い。
昼間あれほど騒がしかった駅前も、二十一時を過ぎれば人の流れがやや落ち着き、代わりにアスファルトに残った熱だけがじわじわと足元へ返ってくる。
天城玲司は、その熱を感じながら白瀬もえのマンションへ向かっていた。
スマホには、十分ほど前に届いた短いメッセージが残っている。
入稿終わった
でもたぶん今、ちょっと変
もし近くにいるなら、少しだけ来てほしい
もし近くにいるなら。
その遠慮がちな言い方に、玲司は少しだけ苦笑した。
白瀬が本当に限界の時は、もっと言葉が乱れる。短くなるか、逆に必要以上にごまかす。そのどちらでもなく、“少しだけ来てほしい”と書いてきた時点で、彼女は今、一人で抱え込むには微妙に心細い状態なのだろう。
だから玲司は、迷わず来た。
コンビニで冷たい飲み物と温かいスープ、それから簡単につまめる軽食を買い、エレベーターで階を上がる。インターホンを押すより先に、玄関の鍵が開いた。
「……来るの早」
ドアの隙間から顔を出した白瀬もえは、疲れきっているのに少し笑っていた。
「近くにいた」
「それ絶対ちょっと盛ってるでしょ」
「否定はしない」
「だよね……」
そのまま中へ入る。
数日前に見た修羅場部屋は、相変わらず修羅場の名残を残していた。だが今日は、紙や資料の山の中に妙な静けさがある。ペン先が走る音も、キーボードの連打もない。
戦いが、ひとまず終わった空気だった。
「入稿は」
「終わった」
「無事にか」
「たぶん。いや、たぶんじゃ困るんだけど、一応データは通った。確認メールも来た」
「それはよかった」
玲司がそう言うと、白瀬は玄関のドアにもたれたまま、へなへなとその場にしゃがみ込みそうになった。
「おい」
「大丈夫。転んでないから大丈夫」
「基準が低い」
「今の私はそれで精一杯なの……」
玲司は買ってきた袋をテーブルの空いている場所へ置き、白瀬を促して椅子へ座らせた。彼女は抵抗せず、されるがままに椅子へ腰を下ろす。
パーカーのフードは机の角に引っかかり、髪は少し乱れ、目の下の隈はもはや隠しようもない。けれどその顔には、修羅場の最中にはなかった別の色が浮かんでいた。
終わった者の顔だ。
それでも、終わった瞬間に全部が軽くなるわけではない。張り詰めていた糸が急に切れて、逆に不安定になることもある。
「ほら」
玲司はスープのカップを差し出した。
「……神?」
「違う」
「でも今の私にはほぼ神」
「大げさだな」
「大げさじゃないもん。入稿後のあったかい汁物は、たぶん全創作者に効く……」
白瀬は両手でカップを持ち、ふう、と小さく息を吹きかける。それからひと口飲んで、目を閉じた。
「……生き返る」
「それは何よりだ」
「天城くんがいると、たまに人生のサポートキャラ感ある」
「メインではないのか」
「そこ主張するの?」
「少し気になった」
「今のはたとえ」
「そうか」
白瀬は、スープを飲みながらくすっと笑った。
その笑みを見て、玲司は少しだけ安堵する。メッセージの文面から想像していたほど、ひどくはないのかもしれない。いや、ひどかったからこそ、今こうして少し抜けているのだろうが。
「で、“ちょっと変”というのは何だ」
「……あー」
白瀬はスープのカップを見つめたまま、少し考え込んだ。
「終わった瞬間ってさ、いつも変になるの」
「達成感でか」
「達成感もある。あと解放感もある。でもそれだけじゃなくて、“本当にこれでよかったのかな”って不安も一気に来る」
「なるほど」
「締切前は走るしかないから考えないの。でも終わった途端、“あそこもっと直せたかも”“この表情、もう一段階いけたかも”って全部来る」
「今さら修正はできないな」
「できない。だから余計にぐるぐるする」
白瀬はそう言って、少しだけ肩をすくめた。
「それに、明日が本番でしょ」
「ああ」
「印刷所から届くまで、データのままだったものが本になる。人に見られる。手に取られる。感想をもらうかもしれない。買ってもらえないかもしれない。そう思うと、急に怖くなる」
その声は、とても静かだった。
普段の白瀬なら、“怖い”という言葉をそう簡単には口にしない気がする。だが今は、修羅場を越えた反動もあるのだろう。気持ちがむき出しになりやすくなっている。
玲司は少しだけ考え、それから率直に言った。
「怖いのは、本気だからだろう」
「……」
「君は、本気で描いた。だから本気で届いてほしいし、本気で評価が気になる」
「……うん」
「なら、それは自然なことだと思う」
白瀬は答えなかった。
ただ、スープのカップを持ったまま、じっと手元を見ている。しばらくしてから、小さく息を吐いた。
「天城くんって、なんでそういう時に欲しいこと言うの」
「欲しいこと?」
「欲しい言葉、って意味」
「意図はしていない」
「してないのがずるいんだって、何回も言ってるのに……」
頬が少し赤い。
眠気と疲れだけではない色だと、玲司にはわかった。
だが今は、そこへ踏み込む時ではない気がした。
「明日の流れを確認するか」
玲司は話題を切り替えるように言った。
「うん……あ、そうだ」
白瀬は机の端に置いてあったクリアファイルを引き寄せ、中から印刷した会場図とチェックリストを取り出した。
「朝はこの時間。一般入場よりかなり早い。私たちはサークル入場だから、先に入って設営する」
「了解」
「で、机の上はこんな感じにしたい。新刊ここ、既刊ここ、お品書きは高い位置にひとつ、卓上にひとつ。昨日、天城くんが言ってた配置でやってみる」
「わかった」
「あと、釣り銭。これ、金額ごとに小分けしたい」
「準備しておいた方がいいな」
「うん。私もやるけど、最終確認は一緒にしてほしい」
「任せろ」
白瀬はそれを聞いて、少しだけ笑った。
「ほんと、頼もしい」
「君がそう言うなら光栄だ」
「そういう真面目な返しすると、また変に意識するからやめて」
「難しい注文だな」
「今日は特に難しいの!」
白瀬は顔を覆った。
玲司は少しだけ首を傾げる。
「今日は特に?」
「……入稿明けだから」
「それで?」
「感情の防御力が低いの」
「なるほど」
「なるほどで流さないでよ……」
彼女はうめいたが、その様子すら少し可愛らしかった。
◇
設営確認がひと段落したあと、部屋の中には短い沈黙が落ちた。
パソコンは閉じられている。液タブもスリープ状態だ。こんなに“描いていない白瀬もえの部屋”を見るのは、玲司にとって初めてだった。
白瀬もそれを感じているのか、ぼんやりと椅子の背にもたれ、天井を見上げていた。
「……変な感じ」
「何が」
「締切がない夜」
「毎回そうなのか」
「うん。走ってる最中は“早く終われ”って思うのに、終わると急に落ち着かなくなる」
「なら、次の締切を作ればいい」
「鬼?」
「冗談だ」
「天城くんの冗談、たまに本気と区別つかないんだよなあ……」
白瀬はそう言って笑う。
その横顔を見ながら、玲司はふと尋ねた。
「明日、楽しみか」
「……怖いし、緊張してるし、逃げたい気持ちもちょっとある」
「うん」
「でも、楽しみ」
彼女は迷いなくそう言った。
「だって、私が描いたものを“待ってた”って言ってくれる人がいるかもしれないから」
「……」
「会場で並んでるの見ると、いつも信じられないの。ほんとに私の本のために来てくれたのかなって」
「来ているだろう」
「うん。でも、毎回ちょっとだけ信じられなくて、毎回ちょっとだけ嬉しい」
その時の白瀬の表情は、玲司がこれまで見てきたどの顔とも少し違っていた。
学校で見せる静かな顔でもない。創作中の鋭い顔でもない。修羅場で追い詰められている顔でもない。
自分の“好き”が誰かへ届くことを知っている人間の顔だった。
玲司は、胸の奥が静かに熱を持つのを感じる。
その顔を、もっと見たいと思った。
「明日、君の世界を見に行くのが楽しみだ」
気づけば、そう口にしていた。
白瀬が、ぴたりと止まる。
「……え」
「君が大事にしている場所だろう」
「う、うん」
「そこに実際に立っている君を見てみたい」
「……っ」
白瀬の耳が、一気に赤くなった。
「そういうの……」
「何だ」
「今みたいなの、平気な顔で言わないでよ……!」
彼女はクッションを抱えて顔を半分隠した。
だが玲司には、その隙間から覗く目が、単に照れているだけではないように見えた。少し驚いていて、少し嬉しくて、そして少しだけ信じられない、という顔だ。
「変なことを言ったか」
「変じゃない」
「ならいいだろう」
「よくないの! だって私、ずっとそこ、分けてたから」
白瀬はクッションを抱えたまま、ぽつぽつと続ける。
「学校の私と、mocoの私。ちゃんと分けたくて、混ざらないようにしてきたの。なのに今、天城くんがそこへ来るのが“楽しみ”って言うから、なんか……」
「なんだ」
「……変な感じする」
その“変”は、嫌だという意味ではなかった。
玲司にはそれがわかった。
だからこそ、次の言葉は慎重に選んだ。
「無理に混ぜるつもりはない」
「……うん」
「ただ、君が大切にしているものを、僕も大切に扱いたいと思っているだけだ」
「……」
白瀬は何も言わなかった。
けれど、その沈黙は拒絶ではない。
しばらくしてから、彼女はクッションに顔を半分埋めたまま、小さく言った。
「……ほんと、そういうとこ好き」
「また言ったな」
「今のはわざと」
「そうか」
「でも深い意味はない」
「そこまで言うと逆に怪しい」
「怪しくない!」
白瀬は今度こそ真っ赤になった。
玲司は少し笑い、それ以上は追わなかった。
◇
時刻が二十二時を回った頃、玲司は帰る支度を始めた。
「もう大丈夫か」
「うん。あとは荷物まとめて、シャワー浴びて、できればちょっと寝る」
「できれば、ではなく寝ろ」
「はい……」
白瀬は素直に頷いた。
さすがに今日は逆らう気力も少ないらしい。
玄関まで見送りに来た彼女は、ドアノブに手をかけたまま、少しだけ視線を彷徨わせた。
「……天城くん」
「何だ」
「明日、もし私、めちゃくちゃテンパってても引かないでね」
「引かない」
「列できて顔死んでても」
「引かない」
「売り切れたら泣くかも」
「その時はタオルを買う」
「そういう返し……」
白瀬はくしゃっと笑ってから、少しだけ真面目な顔になる。
「でも、本当にありがとう」
「何度目だ」
「何回でも言う」
「そうか」
「うん。だって、ここまで来るとは思ってなかったから」
玲司はその意味を、深くは聞かなかった。
ただ、頷く。
「僕も、ここまで来るとは思っていなかった」
「……でしょ」
「だが、悪くない」
「うん……私も、悪くない」
その言葉は、とても静かだった。
だが、玲司には十分だった。
玄関を出て、廊下を歩き、エレベーターに乗る。ドアが閉まる直前まで、白瀬もえはそこに立っていた。
そして一階へ着き、マンションを出たところで、玲司のスマホが震えた。
白瀬からのメッセージだ。
明日、よろしくお願いします
あと、さっきの“君の世界を見に行くのが楽しみ”ってやつ
しばらく思い出して死ねそうだから責任とって
玲司はそれを読んで、思わず小さく笑った。
責任とって。
そんな言葉を投げてくるくらいには、彼女も今夜の空気を特別なものとして受け取っているのだろう。
玲司は短く返す。
了解した
明日は君の世界を守る
送信したあと、自分で少し驚いた。
守る。
ずいぶん大きな言葉だ。だが、不思議としっくりきた。
白瀬もえがずっと隠して、磨いて、守ってきた場所。そこへ明日、自分は初めて足を踏み入れる。
ただの見学者ではない。
彼女の隣に立つ者として。
それを思うと、胸の奥が熱くなる。
恋かどうかを問われれば、もう答えはかなり近い場所にあるのだろう。だが今は、名前をつけるより先に確かな感情があった。
明日、彼女の世界をこの目で見る。
そして、その場所で笑う白瀬もえを見たい。
夜風の中、玲司はスマホをポケットへしまい、ゆっくりと歩き出した。
彼が向かう先は、もう“知らない世界”ではない。
まだ入口に立ったばかりかもしれない。だが確かに、自分の意志でその扉を開こうとしていた。




