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財閥御曹司の俺が恋したのは、コミケで壁サーを張る“えっちなお絵描き女子”でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第7話 完璧王子、オタク文化の入口に立つ

日曜日の午前九時十二分。


 天城玲司は、自室の机にノートを開き、真剣な顔で書き込んでいた。


 ページの上部には、整った字でこうある。


 同人イベント売り子業務 確認事項


 その下には箇条書きで、


 ・頒布物一覧

 ・価格確認

 ・釣り銭管理

 ・列形成

 ・最後尾対応

 ・差し入れ受け取り

 ・在庫把握

 ・スケブ対応可否

 ・体調不良時の判断


 と並んでいる。


 側から見れば、企業の新人研修メモか、イベント運営マニュアルの下書きにしか見えないだろう。だがその実態は、壁サー女子高生のための即席売り子講習ノートだった。


「……僕は何をしているんだろうな」


 玲司は小さく呟いた。


 だが、その声に自嘲はあまり含まれていない。


 むしろ、妙な高揚に近いものがあった。


 昨日の夜、白瀬もえの部屋で原稿修羅場の一端を見たあと、玲司は帰宅してからも妙に頭が冴えていた。売り子の件はまだ仮の話だ。本決まりではない。だが、“必要になった時に動けない”という状況は好ましくない。


 だから調べた。


 同人イベントの売り子とは何か。

 列形成とは。

 釣り銭はいくら用意するべきか。

 お品書きはどこに置けば見やすいのか。

 差し入れを受け取る際の注意は。

 混雑時に避けるべきことは何か。


 調べれば調べるほど、玲司はこの世界が単なる趣味の集まりではないと理解していった。


 熱量がある。

 ローカルルールがある。

 暗黙の配慮がある。

 そして何より、“好き”を持ち寄る場であるからこそ、秩序を守らなければならない。


「なるほど……」


 前夜も何度かそう呟いたが、今日もまた自然と口に出る。


 白瀬が大切にしている世界は、思った以上に繊細で、同時に思った以上に理にかなっていた。


 そこへ、机の上のスマホが震えた。


 白瀬もえからだ。


 ごめん、売り子の子、やっぱり来られなくなった

 本当に無理なら断っていいから

 でも、もし昨日の話まだ生きてるなら、お願いしたいです


 玲司は一拍も置かずに返信した。


 了解した

 必要事項を整理しておいてくれ

 今日中に全部覚える


 送信したあと、自分で少しだけ笑う。


 全部覚える、とはずいぶん大きく出たものだ。だが不思議と、できないとは思わなかった。


     ◇


 その日の午後、玲司は白瀬と再び会っていた。


 場所は学校の近くではなく、駅前のやや大きなカフェ。日曜の昼過ぎで人は多いが、学生同士が話していても不自然ではない。


 テーブルの上には、白瀬が持ってきたクリアファイル、メモ帳、印刷したお品書き見本、価格表、会場レイアウトの簡易図。そして玲司のノート。


 それを見た瞬間、白瀬は本気で固まった。


「……え」

「何だ」

「天城くん、それ何」

「確認用だ」

「確認用って」

「売り子業務の要点をまとめた」

「一晩で!?」

「調べれば出る」

「出るけど! 普通そこまでやる!?」


 白瀬はノートを覗き込み、目を見開く。


「最後尾対応……在庫把握……差し入れ受け取り……スケブ可否……」

「不足があるなら言ってくれ」

「不足というか、なんで初参加前提の人がこんなに予習してるの……」

「必要だろう」

「必要だけど!」


 白瀬は両手で顔を覆った。


「どうしよう、私が思ってた以上に本気だ……」

「仮に引き受けるなら、本気でやるのは当然だ」

「だからそういうとこが怖いんだって……」


 だが、その声には少しだけ安心も混じっていた。


 玲司にはそれがわかった。


「では、改めて教えてくれ」

「う、うん……」

「まず、当日の最優先事項は何だ」

「えっ、いきなり口頭試験みたいに始まるの!?」

「重要だろう」

「重要だけど、なんか先生っぽいんだよなあ……」


 白瀬はぶつぶつ言いながらも、すぐに気持ちを切り替えた。


「最優先は、混乱を起こさないこと。私のスペースだけじゃなくて、周りにも迷惑かけない」

「つまり売ることより、安定運営が先か」

「そう。もちろん頒布は大事だけど、列が崩れたり、お釣りでもたついたり、在庫把握ミスったりすると全部に影響するから」

「わかった」


 玲司は書き込む。


 白瀬はその筆記速度を見て、また少し引いたような顔になった。


「天城くんって、ほんと仕事できそう」

「それは褒められているのか」

「今は褒めてる。たぶん天職はイベント現場じゃないけど」


 玲司は小さく笑い、次を問う。


「列ができた場合、僕はどこを見るべきだ」

「まず最後尾。最後尾札を持つ人がいなかったら、口頭でもいいから明確にする。あと横にはみ出さないように気をつける」

「会計は」

「私が基本やる。でも忙しくなったら、玲司くん――あ」


 白瀬が止まった。


「今、名前で呼んだな」

「ち、違、事故! 事故だから!」

「そうか」

「そこ嬉しそうな顔しないで!」

「していない」

「してる!」


 白瀬は赤くなったまま、慌てて話を戻す。


「と、とにかく! 忙しくなったら天城くんが本渡して、お金受け取って、私はサインとか質問対応とかに回るかもしれない」

「釣り銭は分けて持つべきか」

「うん。千円札、五百円、百円。できればすぐ出せるように」

「了解」

「あと、差し入れもあるかも」

「差し入れ」

「お菓子とか飲み物とか、お手紙とか。ありがたいんだけど、その場で全部確認はできないことが多いから、丁寧に受け取って後でまとめる」

「食べ物はどうする」

「基本はありがたく受け取る。でもその場で開けたりはしない」

「なるほど」


 玲司はすでに頭の中で手順を組み立て始めていた。


 人の流れ。対応の優先順位。受け渡しの導線。釣り銭の配置。搬入箱の置き方。お品書きの掲示位置。


 ここまでくると、彼の中の“段取り脳”が勝手に働き始める。


「白瀬」

「なに」

「このお品書き、卓上に置くだけでは見づらくないか」

「え?」

「視線の高さに一つ、机上に一つ、二段で見せた方がいい」

「……」

「価格も、一目でわかるように太字へ寄せた方がいい。既刊と新刊の区別も色でつけた方が混乱が少ない」

「……」

「白瀬?」

「だめだ」

「何がだ」

「ほんとに適性ある」

「またそれか」

「またじゃないよ! 今の完全に現場の人の発想だもん!」


 白瀬は半分笑い、半分本気で呆れていた。


「どうしよう、私より冷静かもしれない」

「君は当日、描き手本人として別の負荷があるだろう」

「それはそうだけど……」


 白瀬は少しだけ真面目な顔になる。


「でも、ありがと」

「何が」

「ちゃんと、自分ごととして考えてくれてる感じがするから」

「引き受けた以上、当然だ」

「それを当然って言えるのが、ほんとすごいんだよなあ……」


 玲司はそれ以上何も言わず、次の項目へ進む。


「“スケブ不可”とは?」

「あ、スケッチブック」

「その場で絵を描いてほしいという依頼か」

「そうそう。今は受けない人も多いし、今回は修羅場明けで体力もないから私は不可」

「なら掲示が必要だな」

「うん。“スケブ受付ありません”って書いておく」

「わかった」


 ここまで一通り確認したあと、玲司は一度ノートを閉じた。


「他に想定外はあるか」

「想定外?」

「マニュアルに落ちないトラブル」

「うーん……」


 白瀬は少し考え込む。


「たまに、妙にテンション高い人がいる」

「テンション高い」

「悪い人じゃないんだけど、好きが爆発して早口になってるタイプ」

「対応は?」

「笑顔で受け止める。でも列ができてたら長話はしすぎない」

「なるほど」

「あと、まれに知り合いが来る」

「学校関係か」

「それが一番怖い」


 白瀬は真顔だった。


「学校の子に見られたら、たぶんその場では平静装うけど、あとで死ぬ」

「物理ではないな」

「精神的に!」


 玲司は頷いた。


「では、仮に学校関係者らしき人物が来たら、どうする」

「えっ」

「対応を決めておいた方がいい」

「そこまで考えるの?」

「君が死ぬのだろう。精神的に」

「そうだけどさ……」


 白瀬は口元を押さえ、少し考えたあと言った。


「……その時は、できれば天城くんが前に出て」

「僕が」

「うん。会計とか受け渡しでちょっと間を作ってくれたら、その間に私が顔の角度とか声のトーンとか整える」

「隠す前提だな」

「隠すよ!」

「了解した」


 玲司はそれもメモする。


 白瀬はそのノートを見て、ついに笑ってしまった。


「なんかもう、ここまでくると変な安心感ある」

「それはよかった」

「うん……ほんと、助かる」


 その声は、かなり柔らかかった。


     ◇


 確認作業が一段落したあと、白瀬は紙コップのアイスティーを飲みながら、少しぼんやり窓の外を見ていた。


「まだ何かあるか」

 玲司が尋ねる。

「んー……あ、ある」

「聞こう」

「おすすめされたアニメ、見た?」


 玲司はわずかに目を逸らした。


 その反応だけで、白瀬はすべてを察したらしい。


「見たんだ」

「少し」

「少し?」

「三話まで」

「三話まで見たら十分“見た”だよ! どうだった!?」


 急に食いついてくる。


 玲司はそこで、自分が昨夜の空き時間に、白瀬から以前“参考になるよ”と軽く勧められていた学園ラブコメ系アニメを再生してしまったことを思い出す。


 最初は文化理解の一環のつもりだった。


 だが気づけば、二話、三話と進んでいた。


「……想像より、面白かった」

「でしょ!?」

「キャラクターの視線や間の取り方が巧い。たしかに、君が言っていた“可愛いが先に来る”感じがわかった気がする」

「ちょっと待って」

「何だ」

「感想がガチすぎる」

「そうか?」

「そうだよ! 普通、“かわいかった”とか“面白かった”から入るの! なんでそこで演出分析するの!?」

「感じたことを言っただけだ」

「こわ……」


 白瀬はそう言いながらも、明らかに嬉しそうだった。


「じゃあ、推しは?」

「推し?」

「一番好きなキャラ」

「まだそこまでは」

「まだ、って言った」

「言葉尻を取るな」

「取るよ。だって今、完全に入口に立ってる人の言い方だったもん」


 玲司は返答に詰まり、白瀬はにやにやした。


「どうしよう。自分で沼に引きずり込んでる感じしてきた」

「まだ足首を掴まれた程度だ」

「その例えがもうだいぶ危ないんだってば」


 白瀬は楽しそうに笑う。


 玲司はその笑顔を見ながら、ふと思う。


 昨日の修羅場顔も本物なら、今こうして少し肩の力を抜いて笑っている顔も本物だ。そして、その両方を知っている自分は、もう完全に“ただのクラスメイト”ではない位置にいるのかもしれない。


「……天城くん」

「何だ」

「今日、ほんとにありがとう」

「売り子講習のことか」

「それもあるし、アニメ見てくれたのも」

「文化理解の一環だ」

「そういう言い方するところ、ほんと好き」


 白瀬はそこまで言って、固まった。


 玲司も一瞬、動きを止める。


「……今の」

「忘れて!」

「無理だな」

「なんで毎回そうなの!?」


 白瀬は耳まで真っ赤になって、両手で顔を覆った。


「違うの! そういう意味じゃなくて、なんていうか、会話のテンポというか、ノリというか!」

「なるほど」

「その“なるほど”絶対わかってない!」

「いや、よくわかった」

「ほんとかなあ……!」


 玲司は少しだけ笑った。


 白瀬は数秒うめいたあと、気持ちを切り替えるように背筋を伸ばした。


「と、とにかく! これで当日の最低限は大丈夫だと思う」

「わかった」

「朝は集合時間、あとで送る。服装は目立たない方がいい。できれば動きやすくて清潔感ある感じ」

「難しい注文ではない」

「そこはさすがだね……」


 白瀬は苦笑したあと、最後に真面目な目で玲司を見る。


「ほんとに、無理しないでね」

「僕がか」

「そう。私のイベントに巻き込まれて、“やっぱり無理だった”ってなったら嫌だから」

「その時はその時で対処する」

「うん……でも、たぶん天城くん、そういうとこ無理して平気な顔するじゃん」

「そうかもしれない」

「否定しないんだ」

「君も似たようなものだろう」

「……それは、そうかも」


 白瀬は小さく笑って、立ち上がった。


「じゃあ、今日は帰って最終調整する」

「寝ろ」

「う」

「最低でも少しは」

「努力する」

「信用できない」

「最近そればっかりだね」


 二人でカフェを出る。


 夕方の駅前は人が多く、ざわめきの中に飲食店の匂いやアナウンスが混じっていた。


 別れ際、白瀬は一度振り返る。


「天城くん」

「何だ」

「たぶん、もう入口には立ってるよ」

「何の」

「オタク文化の」

「まだ否定しておく」

「無理だと思う」

「なぜだ」

「だって昨日まで“供給”の意味知らなかった人が、今日はおすすめアニメ三話まで見て、売り子業務ノート作ってるんだよ?」

「……たしかに、少し変化はあるかもしれない」

「少しじゃないんだよなあ」


 白瀬はくすくす笑ってから、ほんの少しだけ柔らかい声で続けた。


「でも、悪い気はしないでしょ?」

「……ああ」


 その返事は、自分でも驚くほど自然に出た。


 悪い気はしない。


 むしろ――少し楽しい。


 そのことを認めた瞬間、白瀬は満足そうに笑った。


「じゃあ、また連絡する」

「ああ。また」


 白瀬もえは人波の向こうへ消えていく。


 玲司はその背を見送りながら、自分のノートを開いた。


 売り子業務、列形成、最後尾対応、差し入れ受け取り、在庫把握。そこにもう一つ、書き足す。


 事前履修:おすすめアニメ続き


「……これは、本当に困ったな」


 だがその呟きには、もうほとんど困惑はなかった。


 あるのは、知らない世界の扉を開けてしまった人間特有の、少しだけ甘い高揚感だった。

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