第6話 締切前のヒロインは、恋より原稿を選ぶ
締切前の人間は、たぶん少しだけ世界の見え方が違う。
天城玲司がそう確信したのは、土曜の夕方、白瀬もえの部屋を目の当たりにした瞬間だった。
「……失礼する」
「うん……散らかってるけど、今さら帰れとか言わないでね……」
「帰れとは言わないが」
「が?」
「これは想像以上だ」
玄関先でそう言うと、白瀬もえは床に座り込んだまま、かすれた声で「だよね……」と答えた。
その日の午後、玲司のもとに白瀬から短いメッセージが届いた。
ごめん、ちょっと本気でやばいかも
もし時間あるなら、買い出しだけお願いしたい
あと、お品書きの最終確認、誰かに見てほしい
玲司はその文面を読んだ瞬間、返信より先に立ち上がっていた。
必要なものを聞き、近くの店で飲み物、軽食、栄養補助食品、目薬、のど飴、そして頼まれたコピー用紙や透明の袋などを揃える。自分でも少し過剰だと思ったが、あの白瀬が“本気でやばい”と書く時点で、遠慮している場合ではない気がした。
そうして訪れた白瀬の自宅は、ごく普通のマンションの一室だった。
もちろん部屋そのものは普通だ。
ただ、その内部が――まるで戦場だった。
机の上には液晶タブレットとノートパソコン、資料本、スケッチブック、ラフ用紙、色見本、筆記具、メモ、飲みかけのペットボトル。床には紙袋、印刷した見本、お菓子の空袋、コード類、参考資料の山。椅子の背にはカーディガンが引っかかり、ベッドの上には服とクッションと資料集が共存している。
明らかに、人が“生活”するための部屋ではなく、“締切を乗り切るための拠点”になっていた。
「片付ける時間がなくて……」
「いや、時間があっても片付かない部屋ではないか?」
「ちょっと待って、その分析やめて。今の私は傷つきやすい」
「すまない」
玲司はとりあえず買い出し袋をテーブルの空いている部分へ置こうとして、空いている部分がほぼ存在しないことに気づいた。やむなく床の比較的ましな場所へ置く。
白瀬は椅子にもたれたまま、タブレットペンを指でいじっていた。髪は少し乱れ、部屋着らしい大きめのパーカーの袖が手の甲まで隠れている。目の下の隈は昨日より濃い。だが瞳だけは、妙に冴えていた。
疲れているのに、脳だけが熱を持っている。
そんな顔だった。
「寝たか」
「二時間」
「昨日より増えたな」
「褒められるラインが低すぎる」
玲司は小さくため息をついた。
「原稿はどこまで進んでいる」
「表紙はほぼ確。本文ページもメインはだいたい終わった。差分調整がまだ残ってるのと、奥付と告知文と、おまけのラフが途中」
「かなりあるな」
「あるよ。だから死にそうって言ったでしょ……」
白瀬は言いながらも、机上のタブレットへ視線をやる。その目は完全に仕事の目だった。
玲司はそこで理解する。
彼女は今、極限まで疲れている。だが、それでも絵の前から離れられない。それどころか、離れること自体が不安なのだ。
「買ってきたものを置く」
「ありがと……。飲み物そこ、食べ物は適当に……あ、でもパソコンの横には置かないで」
「壊れるからか」
「こぼしたら私が死ぬ」
「了解した」
玲司は指示通りに物を分けながら、部屋の中を改めて見渡す。
壁際にはキャラクターイラストのラフが何枚も貼られていた。表情違い、ポーズ違い、衣装のディテール。どれもまだ途中の線なのに、すでに魅力がある。床に散ったメモにも、「照れ強め」「目線右上」「布の食い込み控えめ」「無防備感優先」など、白瀬らしい細かいこだわりが並んでいた。
ここは、彼女の頭の中がそのまま外へ溢れ出した空間なのかもしれない。
「……何」
白瀬がじっと見られていることに気づいたのか、視線だけこちらへ寄越す。
「いや」
「今、“こいつ本当にこの部屋で生きてるのか”って思ったでしょ」
「少し」
「そこ否定してよ!」
「だが、これで作品を仕上げているなら、ある意味合理的ではある」
「慰め方が独特すぎる」
白瀬は顔をしかめたが、少しだけ笑った。
玲司はその隙に、お品書きとやらの最終版を見せてもらう。白瀬がパソコン画面を開き、横から説明する。
「これが新刊。こっちが既刊。で、セット価格はこっち。会場限定のおまけつけるなら、この文言入れたい」
「待て」
「なに」
「情報量が多い」
「えっ」
「優先順位を整理しよう。初見の相手が一番先に知りたいのは何だ」
「……新刊?」
「おそらく」
「うん」
「では新刊情報を最上段に。価格も隣でいい。既刊はその下。セット価格は視認性の高い場所へ。文言は短く」
「……」
「白瀬?」
「なんでそんなに自然に修正点出してくるの」
「見やすい方がいいだろう」
「いいけど! いいけどさ!」
白瀬はパソコン画面と玲司の顔を交互に見て、数秒固まった。
「ちょっと待って」
「何だ」
「天城くん、もしかして適性ある?」
「何の」
「イベント設営側とか、運営補佐とか、売り子とか」
「売り子」
玲司はその単語を反復した。
白瀬が、はっとしたように口を押さえる。
「あ」
「それは、前に言っていた役割か」
「う、うん……サークルで頒布の手伝いする人」
「つまり、君のところで本を渡したり会計したりする者」
「そう」
「必要なのか」
「必要っていうか、いると助かる。かなり助かる。めちゃくちゃ助かる」
「今はいないのか」
「今回は、いつもの子が来られる予定だったんだけど……まだ確定じゃなくて」
そこで白瀬の顔が曇った。
スマホを取り、メッセージ画面を確認する。既読はついていないらしい。
「どうした」
「売り子お願いしてた子、家の都合で来られないかもって昨日連絡あって。まだ確定じゃないけど、かなり怪しい」
「代わりはいないのか」
「簡単にはいないよ……。イベント慣れしてないと厳しいし、私の頒布物の内容知ってても平気で、しかも学校関係じゃなくて、できれば信頼できる人なんて、そんな都合よく……」
そこまで言ってから、白瀬はぴたりと止まった。
部屋の中に妙な沈黙が落ちる。
玲司はその意味に気づいた。
「僕を見るな」
「だ、だって……」
「今、かなり視線を感じる」
「いや、でも、天城くんはないから! さすがにない!」
「なぜだ」
「なぜだじゃないよ!」
白瀬は半分立ち上がりかけて、疲れでよろけ、また座り直した。
「天城くんが売り子って! 字面の破壊力やばいんだって!」
「そんなにおかしいか」
「おかしいよ! 財閥の御曹司が壁サー女子の売り子って、何そのラブコメみたいな展開!」
「……今、ラブコメと言ったか」
「言ってない! 忘れて!」
白瀬は真っ赤になった。
玲司は一拍だけ黙ったが、それ以上追及はしなかった。
代わりに、冷静に問う。
「売り子の仕事は、事前に覚えれば僕にも可能か」
「いや、可能とか不可能とかの前に……」
「必要かどうかを聞いている」
「……必要、ではある」
「なら、候補として考えればいい」
「軽く言うなあ……!」
白瀬は頭を抱えた。
「だって、天城くんだよ? 学校で“完璧王子”とか言われてる人が、私のスペースでお釣り渡すの?」
「仕事なら問題ないだろう」
「仕事って言い方! いや、仕事だけど!」
玲司はそこで少しだけ考える。
正直、自分に務まるかはわからない。だが、必要なことを覚え、準備すれば不可能とも思えない。少なくとも、今目の前で一人で全部抱え込んでいる白瀬よりは、冷静に処理できる部分もあるはずだ。
「白瀬」
「な、なに」
「仮にだが、本当に他にいないなら、僕がやる」
「……は?」
「君が困るなら、その方が合理的だ」
「合理的って」
白瀬は笑うでもなく、怒るでもなく、ただ呆然と玲司を見た。
「天城くん、自分が何言ってるかわかってる?」
「わかっているつもりだ」
「壁サーの売り子だよ?」
「聞いている」
「えっちな萌え絵が並ぶスペースだよ?」
「それも知っている」
「会場めちゃくちゃ人いるよ?」
「君の説明で理解した」
「始発とかになる可能性あるよ?」
「構わない」
「なんで!?」
ついに白瀬は叫んだ。
だが部屋の中なので誰に聞かれることもない。叫んだ本人だけが、直後に両手で顔を覆ってうめいた。
「もうやだ……なんでそんなに迷いがないの……」
「君が本気で困っているように見えるからだ」
「そういう言い方……」
「嫌か?」
「嫌じゃないけど困る!」
白瀬は本当に困っていた。
それは玲司にもわかった。単純に助かる、で飛びつけない理由がいくつもあるのだろう。玲司の立場。学校での距離感。自分の趣味の内容。イベントの独特な空気。どれも軽い話ではない。
だから玲司は、それ以上押さなかった。
「すぐに決めなくていい」
「……え」
「まずは原稿だろう」
「う」
「今の君は、悩む対象を増やさない方がいい」
「正論で殴るの、ほんとやめて……」
白瀬は弱々しく机に突っ伏した。
その姿を見て、玲司は買ってきた栄養補助食品を机の端に置く。
「食べろ」
「いま?」
「今だ」
「食欲……」
「なくても食べろ」
「お母さんみたいなこと言う……」
「君があまりにも危ういからだ」
「……はい」
白瀬は観念して包装を開け、もそもそと口に入れた。
その間に玲司は、机上のメモや見本紙を整理し、必要そうなものとそうでないものを分ける。すると白瀬が半眼でそれを見た。
「なんでそんなに自然に片付けられるの」
「探しやすい方がいい」
「そうなんだけど。そうなんだけどさ……」
食べ終えた白瀬は少しだけ人心地ついたのか、椅子へ座り直してタブレットを手前に引いた。
「……描く」
「寝ないのか」
「あと少しだけ。ほんとに少しだけ」
「その“少し”は信用できない」
「信用して」
「無理だ」
「即答!」
だが、白瀬はもうペンを持っていた。
その動きはさっきまでの眠気を感じさせない。液晶画面の上を走るペン先は迷いなく、必要な線だけを選び取るように動く。ときどき眉を寄せ、画面を拡大し、消して、また引く。完全に集中の世界だ。
玲司は部屋の隅に立ったまま、その様子をしばらく見ていた。
普段の彼女は、静かだ。
学校では目立たず、少し控えめで、無難な距離感を大事にしている。
だが、絵を描いている今の白瀬もえは、そのどれでもない。
誰よりもわがままで、誰よりも真剣で、妥協を嫌い、自分の理想へ手を伸ばし続けている。
その姿は、奇妙なほど綺麗だった。
「……あー、違う」
白瀬が小さく唸る。
「どうした」
「目線。ここ、もうちょっとだけ逸らしたい」
「そうすると何が変わる」
「今だと“見せてる感”が強いの。もう少し無防備にしたい」
「なるほど」
「うん……いや、なるほどって言われても困るけど」
そう言いつつも、白瀬は少し嬉しそうだった。
「でも、天城くん相手だと説明しがいある」
「それは何よりだ」
「なんでも真面目に受け止めるから」
「悪いか」
「悪くない。むしろ危ない」
「また危ないのか」
「危ないよ。だって、創作の話しててこんなにちゃんと聞いてくれる人、そうそういないし……」
白瀬はそこで、ふとペンを止めた。
玲司を見る。
その視線は、少しだけ熱を含んでいた。
「……天城くん」
「何だ」
「さっきの話」
「売り子のことか」
「うん。本気?」
玲司は迷わなかった。
「ああ」
「……なんで」
「君の世界を、少し見てみたいと思った」
「っ……」
白瀬の呼吸が、ほんの少し止まったように見えた。
玲司は続ける。
「それに、君がそこまで本気で守っている場所なら、軽い気持ちで踏み込むつもりはない」
「……」
「だが、必要とされるなら手伝いたい」
白瀬は何も言わなかった。
代わりに、ペンを持ったまま視線を伏せる。耳が少し赤い。
しばらくしてから、彼女は小さな声で言った。
「……ほんと、そういうの反則」
「何がだ」
「今の全部」
「本音だ」
「だから反則なんだってば……」
その声は、少しかすれていた。
だが次の瞬間、白瀬はぱちんと自分の頬を軽く叩く。
「だめ」
「何がだ」
「今そっちに意識持ってかれると終わる」
「そっち?」
「恋とか、そういうの!」
言ってから、部屋の空気が凍った。
白瀬は目を見開き、自分の口を押さえる。
玲司も一瞬、何も言えなかった。
「……今の忘れて!」
「無理だな」
「無理って言わないでぇぇ……!」
白瀬は机に突っ伏したまま、ばたばたと足を動かした。玲司はその様子を見ながら、なぜか少しだけ安堵した。
締切前でも、こうして慌てられる元気があるなら、完全には折れていない。
「白瀬」
「なに……」
「少なくとも今は、恋より原稿を選べ」
「うっ……」
図星だったのか、白瀬は低くうめいた。
「……選ぶよ。選ぶに決まってるでしょ……」
「なら描け」
「言われなくても描く……」
そう言って、彼女は再びペンを握り直した。
だがその横顔は、ほんの少しだけさっきまでと違って見えた。疲れているのに、どこか柔らかい。追い詰められているのに、少しだけ救われたような顔。
玲司は買ってきた飲み物の蓋を開け、彼女の手の届く位置へ置いた。
「倒れる前に飲め」
「はい……」
白瀬は素直に頷く。
その返事がなんだか可笑しくて、玲司は小さく笑った。
部屋の中には、ペンの走る音と、パソコンのファンの音と、たまに白瀬の小さな唸り声だけが響く。
玲司はその空間に立ちながら、ひとつのことをはっきり認め始めていた。
自分はもう、ただの協力者ではいられないのかもしれない。
白瀬もえが絵に向かう時の顔を見ていると、胸の奥が静かに熱を持つ。
助けたいと思う。
支えたいと思う。
そして、その熱の名前を、そろそろ誤魔化しきれなくなりつつある。
だが今は――。
今だけは、彼女の言う通りだ。
恋より原稿。
その優先順位だけは、きっと間違っていない。




