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財閥御曹司の俺が恋したのは、コミケで壁サーを張る“えっちなお絵描き女子”でした  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第5話 売り子を頼まれましたが、俺は財閥の跡取りです

 その週の金曜日、白瀬もえは朝から死にそうな顔をしていた。


 いや、正確に言うなら、死にそうな顔をしているのに、なぜか机にはきちんと教科書が揃っていて、提出物も忘れていないあたりが余計に危うかった。


 天城玲司は一限目の始業前、教室へ入ってすぐにそれに気づいた。


 白瀬は自席に座り、教科書を開いたまま微動だにしていない。視線はページの上にあるが、明らかに読んでいない。まばたきが遅い。頬杖をついているわけでもないのに、全身から「ねむい」という文字が見えるようだった。


 しかも、いつもの重ための前髪の隙間から覗く目の下には、うっすらと隈まであった。


「……おはよう」

 玲司が席に着く前、さりげなく声をかける。

「おはようございます……」

 返ってきた声が、すでに少し掠れていた。


 これは、かなりまずいのではないか。


 玲司がそう思っていると、前の席の女子が振り返った。


「白瀬さん、今日ほんと眠そうだね。大丈夫?」

「う、うん……ちょっと、寝不足で……」

「課題?」

「まあ、そんな感じ……」

「えら……私なら投げる」


 白瀬は曖昧に笑った。


 だがその笑みすら、どこか上の空だ。


 玲司は何も言わなかった。学校では普通に。余計な踏み込みはしない。そう決めているし、彼女もそれを望んでいる。


 しかし、その後の授業中も、白瀬の様子は明らかにおかしかった。


 ノートは取っている。だが、文字が少し揺れている。先生に当てられればきちんと答えるものの、答え終えた直後に魂が抜ける。休み時間に友人と話す時も、反応が半拍遅い。


 昼休み、玲司が廊下側の席からちらりと彼女を見れば、白瀬は購買のパンの袋を開けたまま、ぼんやりと一点を見つめていた。


 たぶん、寝ていない。


 かなり寝ていない。


 そして原因は、おそらく――。


「原稿、か」


 小さく呟いたところで、隣の男子に「何が?」と聞き返され、玲司は「独り言だ」とだけ返した。


     ◇


 放課後。


 ホームルームが終わった瞬間、白瀬は立ち上がりかけて、少しよろめいた。


 玲司はほとんど反射で立ち上がっていた。


「白瀬」

「へっ……あ、天城くん」


 名前を呼ばれた白瀬は、なんとか机に手をついて体勢を立て直す。だが、笑おうとして失敗したような顔になった。


「大丈夫か」

「……たぶん」

「“たぶん”は大丈夫ではない時の言い方だ」

「正論やめて……今ちょっと刺さる……」


 教室にはまだ何人か残っていた。玲司は一瞬だけ周囲を見たが、幸いこちらを気にしている者はいない。


「少し話せるか」

「うん……でも、ここはちょっと……」

「では外で」

「ありがと……」


 今日の白瀬は、断る元気すらないらしい。


 玲司は彼女の歩幅に合わせ、校舎を出て、校門近くの自販機前まで移動した。人通りはあるが、立ち話としては不自然ではない距離感だ。


「何か飲むか」

「……甘くないやつ」

「珍しいな」

「今、甘いの飲んだら逆に気持ち悪くなりそう」


 玲司はミネラルウォーターと、カフェインの入った無糖のボトル飲料を一本ずつ買った。白瀬は受け取る時に「ごめん」と言ったが、玲司は特に気にした様子を見せない。


 キャップを開ける手つきまで少し鈍い。


「何時間寝た」

「え」

「昨夜だ」

「……二時間くらい」

「少ない」

「自分でもわかってる」


 白瀬は観念したように空を見上げた。


「ラフが終わらなくて。終わったと思ったら今度は差分の直しが気になって。そこ直したら全体のバランスも見たくなって……」

「止まらなくなったのか」

「うん」

「締切はいつだ」

「明後日」

「かなり近いな」

「近いよ……だから死にそうなの……」


 言いながら、白瀬は無糖の飲み物をひと口飲んだ。それで少しだけ人心地ついたのか、ようやく肩の力を抜く。


「ごめん。今日はほんとは天城くんと話してる場合じゃないんだけど」

「なら帰って休むべきでは」

「それができたら苦労しないんだよ……」


 白瀬は遠い目をした。


「帰ったらまた描くし」

「寝ないのか」

「寝たい気持ちはある」

「寝る気は?」

「……薄い」

「だめだな」


 玲司がはっきり言うと、白瀬は少しだけ笑った。


「最近、天城くんに言われる“だめ”って、先生に言われるより効く」

「それは光栄というべきか迷うな」

「迷って」


 白瀬は笑ってから、すぐに真顔へ戻る。


「でも本当に、今回ちょっとまずいかも」

「何が」

「全部」


 その答えに、玲司は黙った。


 白瀬は言葉を探すように続ける。


「構図は気に入ってるの。キャラの表情も、たぶん悪くない。コンセプトも通ってると思う。でも、最後の最後で“もっと良くできるかも”って気持ちが消えない」

「それは悪いことなのか」

「場合による。余裕がある時ならいい。でも締切前にそれが出ると地獄」

「なるほど」


 玲司は納得した。


 突き詰める姿勢自体は長所なのだろう。だが、時間との戦いの中では、その長所が牙を剥く。


「しかも今回、会場限定の小さいおまけも作りたくて」

「おまけ」

「ポストカード的なやつ。あと、お品書きも最終版出してないし、SNS告知も今日中にしたいし」

「やることが多いな」

「多いよ。めちゃくちゃ多い」


 白瀬はしゃがみ込みたいのを我慢するみたいに、その場で少し膝を曲げた。


 玲司は彼女を見ながら思う。


 普段の静かな白瀬もえと、創作の前で追い詰められている白瀬もえは、やはり別の生き物のようだ。だがどちらも同じ彼女であり、そして今、目の前にいるのは明らかに限界が近い方だった。


「手伝えることはあるか」


 玲司は、ほとんど考えるより先にそう言っていた。


 白瀬が顔を上げる。


「……え?」

「僕にできることがあるなら、言ってくれ」

「いや、でも」

「データの修正や絵そのものは無理だろう。だが、他に事務的な作業や雑務があるなら」

「雑務って……」


 白瀬は一瞬、呆れたような顔をしてから、少しだけ困ったように笑った。


「天城くんって、ほんとそういうとこ真面目だよね」

「褒められているなら受け取る」

「褒めてる……たぶん」


 玲司は構わず言う。


「必要なら、荷物の整理でも、連絡確認でも、飲み物の買い出しでもやる」

「いやいやいや、天城くんにそんなこと頼めないって」

「なぜだ」

「なぜって……」


 白瀬はそこで、すごく当たり前のことを言う相手を見る顔になった。


「天城くん、財閥の御曹司でしょ」

「それはそうだ」

「それはそうだ、じゃないの! そんな人に原稿修羅場の雑務頼む高校生女子、存在していいと思う?」

「必要なら問題ないだろう」

「問題しかない!」


 今日一番大きな声が出た。


 白瀬ははっとして周囲を見回し、それから自分で自分の口を押さえる。


「……やば」

「人は見ていない」

「そういう問題じゃなくて……」


 彼女はしばらく目を閉じていたが、やがて観念したように息を吐いた。


「天城くんは、ほんとに手伝う気なの?」

「ああ」

「なんで」

「君が困っているから」

「そういう答え方するんだ……」

「他に必要か?」

「必要っていうか……普通、もう少し考えない?」

「何を」

「立場とか」

「君の前で、僕の立場が何か役に立つのか?」

「っ……」


 白瀬は一瞬、言葉を失った。


 玲司自身、少しだけ驚いていた。今の言葉は、かなり本音に近いところから出た気がしたからだ。


 天城家の名や、自分の肩書きは、世間ではたしかに意味を持つ。だが今この場で、目の前の白瀬もえの締切を救うのに、その立場は何の役に立つのか。


 たぶん、直接は役に立たない。


 必要なのは、もっと単純なものだ。


「僕は君の絵は描けない。だが、君が描く時間を少しでも増やす手伝いならできるかもしれない」

「……」

「それで足りるなら、そうしたい」


 白瀬は、しばらく本当に何も言わなかった。


 風が吹いて、彼女の髪が少し揺れる。


 やがて白瀬は、ぎゅっとペットボトルを握りしめたまま、小さな声で言った。


「……そういうこと、さらっと言わないでよ」

「何がだ」

「今の全部」

「本音だが」

「だから困るの!」


 顔が赤い。寝不足で血色が悪いはずなのに、そこだけは妙にはっきりしていた。


 玲司は少しだけ笑う。


「では、どうする」

「どうするって……」


 白瀬は迷っていた。


 たぶん、助けが欲しい気持ちはある。だが、天城玲司を自分の修羅場へ巻き込んでいいのか、理性の方が止めているのだろう。


 数秒の葛藤のあと、彼女はおずおずと口を開いた。


「……ひとつだけ、お願いしてもいい?」

「何だ」

「今日の夜、コンビニでコピーしたいものがあるの」

「コピー」

「会場用の注意書きとか、値札の仮出力とか、いろいろ。あと、前に言ったお品書きの確認もしたい」

「それなら僕でもできる」

「うん……。でも、もし途中で“やっぱ無理”ってなったら笑っていいから」

「笑わない」

「それ、今言われると逆に逃げ道なくなる」


 白瀬は苦笑しつつ、スマホを取り出した。


「じゃあ、後でデータ送る。コンビニは駅前のとこでいい?」

「構わない」

「ほんとにいいの?」

「ああ」

「……なんか、夢みたい」

「大げさだな」

「だって、壁サー修羅場に御曹司投入だよ? 字面がもうバグなんだって」


 玲司はその表現に少しだけ吹き出しそうになった。


 たしかに、おかしな構図ではある。だが、嫌ではない。むしろ、その“自分の知らない世界”に少しずつ足を踏み入れている感覚が、妙に新鮮だった。


     ◇


 その日の夜。


 玲司は駅前のコンビニ前で、白瀬を待っていた。


 天城家の車で帰宅したあと、「少し外出したい」と告げた時、使用人は一瞬だけ驚いた顔をしたが、玲司が軽く理由を濁すと、それ以上は問わなかった。


 本当の理由を言えば、もっと面倒だっただろう。


 クラスメイトの女子の同人イベント準備を手伝いに行く。


 さすがに、そのまま通る気はしない。


「お、お待たせ……!」


 少しして、白瀬が息を弾ませながら駆けてきた。私服ではなく、学校帰りそのままの制服姿だが、手には分厚いクリアファイルとタブレット端末が抱えられている。


「急がなくてよかった」

「ごめん、データの最終確認してたらギリギリで……」


 そう言ってから、彼女は玲司の姿をまじまじと見た。


「……ほんとに来てる」

「約束した」

「いや、したけど……なんかまだ実感なくて」

「僕は幻ではない」

「そういう意味じゃなくて!」


 白瀬は頭を抱えた。


「どうしよう。今さらだけど、天城くんがコンビニのマルチコピー機の前に立つの、絵面が強すぎる」

「初体験ではある」

「え、ほんとに?」

「ああ」

「そんなことある?」

「ある」

「そっか、財閥の御曹司だもんね……」

「関係あるのか」

「なんかもう、ある気がする」


 二人で店内へ入り、コピー機の前に立つ。


 白瀬はタブレット端末を操作しながら説明を始めた。


「これは価格表。こっちはサークル名札。で、これがお品書きの仮版」

「待て」

「うん?」

「“仮版”ということは本番ではないのか」

「まだ微修正したい」

「締切直前に?」

「する」

「君はそういう人間だな」

「はい……」


 白瀬は素直に頷いた。


 玲司は画面を見つめる。たしかに内容はシンプルだが、フォント、配置、文字サイズ、装飾のわずかな違いで印象が変わるのだろう。白瀬が迷うのも、今なら少しは理解できる。


「こっちとこっち、どっちが見やすいと思う?」

「こちらだな」

「え、即答?」

「情報の優先順位が明確だ」

「……なんでそんなに的確なの」


 白瀬はちょっと悔しそうだった。


「でも、うん……たしかにそうかも」


 そうして二人は、価格表を刷り、注意書きを出し、お品書きの見え方を確認した。玲司は想像以上に手際よく操作を覚え、紙の仕分けも整えていく。


 白瀬は途中から、いっそ笑っていた。


「すごい。コンビニコピー機の前でも無駄に優雅」

「褒めていないな」

「褒めてない」


 だが、その笑顔は明らかに昨日までより軽かった。


 少しだけ、肩の荷が下りている。


 それが玲司にはわかった。


「これで少しは楽になったか」

「……うん」


 白瀬は刷り上がった紙を抱えながら、静かに頷いた。


「まだ原稿終わってないし、おまけもあるし、全然安心ではないけど」

「だが」

「ちょっとだけ、“間に合うかも”って思えた」


 その言葉に、玲司は少しだけ安堵した。


 彼女が本当に欲しかったのは、劇的な解決ではないのだろう。全部を肩代わりしてくれる魔法の誰かではない。ただ、自分が描くためのわずかな余白を作ってくれる人。それだけで、少し呼吸がしやすくなる。


「よかった」

「……ほんとに、ありがとう」


 白瀬はそう言って、少しだけ目を逸らした。


「天城くんにこういうこと頼るの、まだ変な感じするけど」

「慣れればいい」

「慣れたらやばい気がする」

「なぜだ」

「私がダメ人間になる」

「元から締切前はだいぶ危うい」

「そこは否定してよ!」


 白瀬は抗議したが、その声はもうだいぶ元気だった。


 コピーを終えて店を出る頃には、夜風が少しだけ冷たくなっていた。玲司は紙が折れないようクリアファイルを持つ白瀬の手元を見てから、自然に言った。


「今日は帰ったら少しでも寝ろ」

「う」

「せめて一時間」

「……善処します」

「それは寝ないやつの返答だ」

「ばれてる」


 白瀬は苦笑したあと、少しだけ真面目な顔になる。


「でも、天城くん」

「何だ」

「今日のこと、たぶん忘れないと思う」

「コピー機の使い方か?」

「違うよ!」


 白瀬は思いきり言い返してから、ふっと小さく笑った。


「原稿で死にそうな日に、助けてくれたこと」


 玲司は一瞬、何も言えなかった。


 それは大げさな言葉ではない。だが、妙にまっすぐに響いた。


「……そうか」

「うん。だから、次に天城くんが困ってたら、私もたぶん助ける」

「それは頼もしいな」

「でしょ」

「だが僕は原稿は描かない」

「そこはわかってる」


 白瀬は笑って、少しだけ玲司を見上げた。


「でも、今の天城くん、前よりちょっとこっち側に来てる気がする」

「こっち側?」

「オタク沼の入口」

「まだ否定しておく」

「そのうち無理になるから覚悟しといて」


 そう言い残して、白瀬もえは駅の反対側へ歩いていった。


 玲司はその背中を見送りながら、少しだけ考える。


 たしかに、前なら知らなかったことばかりだ。


 お品書きの意味も、配置の違いも、原稿前の修羅場も、印刷所からの連絡ひとつで顔色が変わることも。知らないままでいれば、一生関わらなかったかもしれない。


 だが今、自分はその一部に触れている。


 しかも、それを嫌だとは思っていない。


 むしろ、彼女の役に立てたことが嬉しかった。


「……困ったな」


 小さく呟いてから、玲司は空を見上げる。


 それは本当に、困ったという意味ではなかった。


 ただ、自分がもう、白瀬もえという少女の世界を“他人事”としては見られなくなっていることを、薄々認め始めていただけだった。

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