第4話 御曹司、知らない単語が多すぎる
天城玲司は、自分が比較的物覚えのいい人間だという自覚がある。
幼い頃から家庭教師がつき、複数言語、経済、歴史、礼法、音楽、スポーツと、それなりに多くのことを覚えてきた。必要なことを覚えるのは、彼にとって苦ではない。むしろ、平均より得意な方だろう。
だが、その玲司をしても、理解が追いつかない世界というものは存在する。
「だからね、“お品書き”は絶対いるの」
「料理店でも始めるのか」
「違うよ!」
放課後、学校近くの小さな公園のベンチで、白瀬もえはぷりぷりと頬を膨らませた。
夕方の風に黒髪がさらりと揺れる。制服姿のまま、膝の上にノートを広げ、何かを書き込みながら説明している。その姿だけ見れば、ごく普通の真面目な女子高生だ。
だが話している内容は、玲司にとっては異国語に近かった。
「同人イベントで出すものの一覧をまとめた案内だよ。新刊がこれ、既刊がこれ、グッズがこれ、値段はいくら、セットがあるならその説明、注意事項、場合によってはお釣りのお願いまで載せる」
「なるほど。販売品目一覧か」
「言い方が急に企業の資料っぽい」
「内容としてはそうだろう」
「まあ、そうだけど……」
白瀬は少しだけ悔しそうな、でも納得したような顔をした。
あれから三日ほどが過ぎていた。
玲司と白瀬の距離は、学校では依然として控えめなままだ。挨拶はするが、必要以上に目立つやりとりはしない。白瀬の望む“普通”を守るためだ。
だが放課後になると、こうして少しずつ話をする機会が増えていた。
最初は昨日の続きを少しだけ、というつもりだったのだろう。だが玲司がひとつ質問すれば白瀬が答え、その答えからまた新しい疑問が生まれる。そうしているうちに、玲司の知らない単語が次々に出てくるのだ。
お品書き。
頒布。
既刊。
新刊。
搬入。
入稿。
島中。
壁。
誕席。
アクスタ。
タペストリー。
解釈一致。
供給。
限界オタク。
玲司は内心、静かな敗北感を覚え始めていた。
「待て、ひとつずつ整理したい」
「うん?」
「まず“既刊”と“新刊”はわかる。すでに出した本と、新しく出す本だな」
「正解」
「“頒布”は、売るに近いが少しニュアンスが違う」
「そうそう。完全に商業の“販売”とはちょっと違う感じ」
「“入稿”は印刷所への原稿提出」
「正解」
「“搬入”は会場へ荷物を運び込むこと」
「正解」
「だが“島中”と“壁”がまだ曖昧だ」
「そこかあ」
白瀬はベンチに座り直し、ノートの端に簡単な見取り図を描き始めた。
「イベント会場って、机がずらーって並んでるのね」
「うん」
「で、通路に面した端っこの配置とか、外周とか、いろいろ場所に違いがあるの」
「場所が違うと何が変わる」
「人の流れ」
「なるほど」
その一言で玲司の理解が一歩進んだらしいと見て、白瀬は少し嬉しそうに続ける。
「人がたくさん来るサークルほど、混雑しやすいでしょ。だから列ができる可能性が高いところは、対応しやすい位置に配置されることがある」
「それが壁か」
「ざっくり言うとそう。外周とか壁際とか、列形成しやすいところ」
「そして島中は?」
「机の並びの中の方。普通の通路の間にあるブロックの中って感じ」
玲司はノートの図を見つめる。
確かに、会場全体の動線を考えれば合理的だ。人気のあるサークルほど、列を処理しやすい場所にいた方が周囲へ与える影響が少ない。
「では、君は」
「そこ聞くの?」
「気になる」
「……壁のことが多い」
「多い、か」
玲司は表情を変えずに頷いた。
「つまり君は、会場運営側が“列ができる”と見込む程度には人気がある」
「ストレートに言わないで!」
「事実の確認だ」
「そういう確認で人は死ねるんだよ……」
白瀬は両手で顔を覆った。
だが数秒後、指の隙間からこちらを見てくる。
「……引いてない?」
「まだ確認するのか」
「だって、天城くん、反応が毎回真っすぐすぎるんだもん」
「嘘を言う必要はないだろう」
「必要なくても、もうちょっとこう……オブラートとか……」
「包んだつもりだ」
「どこが!?」
玲司は少し笑った。
白瀬もえは本当に、感情が表に出るとくるくる表情が変わる。学校で見せる静かな顔しか知らなかった頃が、もう少し遠く感じられた。
「では次だ」
「まだあるの?」
「わからない単語が多すぎる」
「それはまあ、そうかもだけど」
白瀬は諦めたように肩を落とした。
「じゃあ次。“アクスタ”は?」
「アクリルスタンド」
「え、そこはわかるんだ」
「単語そのものは推測できる」
「そうなんだ……。じゃあ、“供給”は?」
「供給とは、通常は需要に対して商品や資源を提供することだが」
「違う。オタク文脈だと違う」
「……聞こう」
「推しの新しいイラストとか、新情報とか、新規ボイスとか、新作とか、そういう“生きる糧”が投下されること」
「生きる糧」
「うん」
「そこまでか」
「そこまでだよ」
白瀬は真顔だった。
玲司は少し考える。
「つまり、好意を持つ作品やキャラクターに関する新しい公式情報が出ることを、喜びを込めてそう表現するのか」
「そう!」
「なるほど。情緒的な比喩表現だな」
「言い方が賢すぎる!」
白瀬はベンチの背にもたれ、空を仰いだ。
「なんでそんなに無駄に吸収いいの」
「無駄ではないだろう」
「いや、たぶん天城くんの人生で今すぐ必要な知識ではない」
「君の話を理解するためには必要だ」
「っ……」
白瀬がぴたりと止まる。
「……それ、ずるい」
「またか」
「最近そればっか言ってる気がする」
「否定はしないのか」
「しない。だってずるいもん」
頬を押さえながらそっぽを向く。だが、口元は少しだけ緩んでいるように見えた。
玲司はそれ以上追及せず、ノートへ視線を戻す。
「では“解釈一致”」
「きた」
「君が以前言っていたな」
「うん。これもかなり大事な単語」
「定義を頼む」
「自分の思う“そのキャラらしさ”とか、“この作品はこうあってほしい”みたいな感覚と、出てきた描写やイラストや展開がぴったり合うこと」
「理想的な理解が作品に反映されている状態、か」
「そう、それ! っていうか前にも似たようなこと言ってたよね!?」
「覚えていた」
「覚えなくていいところで記憶力いいのなんなの……」
玲司はふと思いついて尋ねる。
「では逆に、理想とずれていたら?」
「解釈違い」
「わかりやすいな」
「わかりやすいでしょ」
「しかし、それほど主観的なものに対して強い単語を使うのか」
「使うよ。だってオタクってそういう生き物だし」
「君もか」
「もちろん」
白瀬はそこで、はっとしたように口をつぐんだ。
「……何だ」
「今、自分で“もちろん”って言ったの、なんか恥ずかしい」
「なぜだ」
「学校でそんな堂々と認めてないから!」
「今は学校の外だ」
「それはそうなんだけど……」
もごもごと小さく言い訳する姿が、少し可愛らしい。
玲司はそこで、別のことに気づいた。
「白瀬」
「なに」
「君は、僕がこうして聞くこと自体は嫌ではないのか」
「え?」
「その世界を大事にしているのなら、外の人間に軽々しく触れてほしくないと思ってもおかしくない」
「……ああ」
白瀬は一拍置いてから、少しだけ視線を落とした。
「それは、相手によるかな」
「僕はどう分類されている」
「……変な聞き方するね」
「気になった」
「うーん……」
白瀬はストローも何もない空のペットボトルを指先でいじるふりをして、しばらく考えたあと、ぽつりと答えた。
「天城くんは、笑わないから」
「笑わない?」
「うん。“そんなの変”とか、“キモい”とか、“わからないから適当に流しとこ”とか、そういう感じじゃないでしょ」
「そうだな」
「ちゃんと理解しようとしてくれるから、たぶん話せる」
その言葉は、思ったより静かに玲司の胸へ落ちた。
自分は今まで、誰かにそういうふうに言われたことがあっただろうか。礼儀正しい、誠実だ、信頼できる。そういう評価は何度も受けてきた。だが、“ちゃんと理解しようとしてくれるから話せる”というのは、少し違う響きだった。
「それは光栄だ」
「だからって調子に乗らないでよ」
「乗っていない」
「乗ってる顔してる」
「気のせいだ」
「ほんとかな……」
白瀬は疑わしそうにこちらを見るが、どこか楽しそうでもあった。
そこへ、学校から少し遅れて出てきたらしい数人の女子生徒が、公園の前を通りかかった。星ヶ峰の制服姿だ。
玲司は視界の端でそれを捉えた瞬間、自然にベンチへ深く座り直した。白瀬もほぼ同時にノートを閉じ、鞄の上に置く。
会話はぴたりと止まった。
女子生徒たちは少し離れたところを通り過ぎていく。こちらに気づいた様子はない。
十分ほど息を潜めていたわけではない。ただ数秒だ。だが、その数秒の沈黙は奇妙に濃かった。
「……すごいね」
「何が」
「今の、阿吽の呼吸だった」
「隠すべきと判断した」
「私もした」
「なら問題ない」
「いや、問題ないけど」
白瀬はふっと小さく笑った。
「なんか、共犯者っぽい」
「共犯者」
「秘密を共有してる、みたいな」
「実際そうだろう」
「そうなんだけど、天城くんが言うと急に重み出るんだよなあ……」
玲司はその言葉を聞きながら、少しだけ考える。
秘密を共有している。
それは事実だ。白瀬の学校では見せない顔を、自分は知っている。しかもその秘密は、彼女にとってかなり大事なものだ。
そのことが、妙に特別に思えた。
「さて」
玲司は話を戻すように言った。
「まだ聞きたいことがある」
「まだあるの!?」
「多い」
「まじめすぎる……」
白瀬は大げさに肩を落としたが、ノートはまた開いた。嫌ではないのだろう。
「“誕席”」
「うわ、そこ行く?」
「重要そうな顔をしたな」
「するよ……。まあ簡単に言うと、島中よりちょっと目立つ配置。お誕生日席って呼ばれるところ」
「なぜ誕生日」
「机の並びの形の呼び方みたいなもの。説明しにくいけど」
「君はそこにも配置されるのか」
「……たまに」
「なるほど」
「その“なるほど”が怖いんだよ!」
玲司は無意識に唇の端を上げていたらしい。白瀬はそれを見逃さなかった。
「ちょっと面白がってるでしょ」
「少し」
「ひど」
「だが、君の世界の仕組みが少しずつ見えてきた」
「それは……まあ、説明してるから当然だけど」
「人気や規模によって配置が変わる。列への対応力が求められる。搬入やお品書きは回転や導線に影響する。君の活動は思っていた以上に、きちんと計画が必要なものなんだな」
「え」
白瀬は一瞬、言葉を失ったようだった。
「……そう」
「何だ」
「そこ、わかってくれるんだって思って」
「ただ趣味で好きに描いて出して終わり、ではないんだろう?」
「うん。全然違う」
その声は、少しだけ嬉しそうだった。
「もちろん、好きでやってるよ。好きだからやってる。でも、イベントって本当に当日の動きとか準備とか大事だし、列ができたら周りに迷惑かけないようにしなきゃいけないし、在庫読みも外せないし、新刊落としたら落ち込むし……」
「在庫読み」
「部数の予測」
「それも難しそうだ」
「難しいよ。少なすぎても困るし、多すぎても泣く」
「商売に近いな」
「だから“頒布”って言い方するのに、結局かなり現実とも向き合うんだよね」
玲司はそこで、ふと思いつく。
「前回の部数と、SNSの反応、イベント規模、季節要因である程度予測できないか」
「……は?」
「データがあれば、だが」
「いやいやいやいや、何その急な経営目線」
「普通ではないのか」
「普通じゃないよ! 高校生の会話で“季節要因”とか出ないよ!」
「そうか」
「そうだよ!」
白瀬は両手で頭を抱えた。
「なんで初心者なのに、そっち方向の発想なの……」
「君が泣く未来を減らせるなら有益だろう」
「っ……!」
まただ。
白瀬は何かを言い返そうとして、結局うまく言えず、口をぱくぱくさせるだけになる。最後には観念したように息を吐いて、ベンチの背にもたれた。
「……天城くんって、ほんと厄介」
「褒め言葉か」
「知らない」
「そうか」
「でも……」
「でも?」
「ちょっと助かる」
玲司は返事をしなかった。
代わりに、ノートへ視線を落とす。そこには白瀬がさっき描いた簡単な机配置図と、イベント用語の走り書きが並んでいた。知らない単語ばかりだったはずなのに、こうして説明を受けていくと、不思議と少しずつ輪郭が見えてくる。
そして、その輪郭の向こうにいる白瀬もえの姿も。
「今日はここまで」
白瀬がぱたんとノートを閉じた。
「これ以上やると、私が疲れる」
「僕ではなく君がか」
「説明してるの私だからね!?」
「たしかに」
玲司は素直に認めた。
「では礼を言おう。かなり理解が進んだ」
「ほんと?」
「ああ。“壁サー”の意味も、君がどれだけすごいかも」
「最後の一言いらない!」
「重要だろう」
「重要だけど! 本人にそれを毎回言うのやめて!」
白瀬は真っ赤になりながら立ち上がった。
「帰る!」
「送ろうか」
「送らなくていい! っていうか、そんなことしたら学校の人に見つかった時に説明面倒!」
「それもそうか」
「そうだよ。学校では普通、忘れないで」
「努力する」
「最近その返し多いな……」
鞄を抱えたまま、白瀬は数歩進んでから、また振り返った。
「……でも」
「何だ」
「今日みたいなのは、ちょっと面白かった」
「用語講座がか」
「うん。天城くんがいちいち真面目に解釈してくるの」
「役に立ったなら何よりだ」
「役に立ったのはたぶん、私の方かも」
「どういう意味だ」
「秘密にしてたこと、こうやって整理して話すの、案外悪くないんだなって思ったの」
白瀬は少し照れたように笑う。
「だから……また、わかんない単語あったら聞いてもいいよ」
「許可をもらえるとは思わなかった」
「上から目線っぽく聞こえたらごめん」
「いや。嬉しい」
「うっ……」
また白瀬が固まった。
「だから、そういうの……」
「何だ」
「いや、もういい! じゃあね!」
今度こそ本当に駆けるように去っていく。
玲司はその背を見送りながら、ひとつ息をついた。
知らない単語が多すぎる。
たしかにその通りだった。だが、それをひとつずつ教わる時間は、不思議と退屈ではない。むしろ、少しずつ彼女の世界へ招き入れられているようで、妙に心地よかった。
壁。
島中。
供給。
解釈一致。
まだ自分の口には馴染まない言葉ばかりだ。けれど、その一つ一つの向こうに、白瀬もえが好きで、大切にして、守っている世界がある。
「……なるほど」
夕暮れの公園で、玲司は小さく呟いた。
これはたしかに、油断すると足を取られる類のものかもしれない。
沼という表現は、案外正しいのだろう。




