第3話 えっちな絵は芸術です! 壁サー少女の本気プレゼン
白瀬もえの言う通り、学校では何も起きなかった。
少なくとも、表面上は。
天城玲司はいつも通りに登校し、いつも通りに挨拶を受け、いつも通りに授業を受け、いつも通りに昼休みをやり過ごした。完璧王子と呼ばれる自分の立場は、一日や二日で揺らぐものではない。
だが、ただ一つだけ変わったことがある。
教室のどこかに白瀬もえがいると、意識がそちらに向くようになった。
窓際の席で小さくノートを取っている姿。休み時間に女子同士で控えめに笑う横顔。美術の課題が配られた時だけ、ほんの少しだけ目が生き生きする瞬間。今までもそこにいたはずなのに、いったん気になり始めると、妙に目に入る。
それはおそらく、秘密を知ってしまったからだ。
同じ教室の中に、学校では目立たずに過ごす少女と、コミケで長い列を作る人気絵師が同時に存在している。その奇妙な重なりが、玲司の中でまだうまく整理できていなかった。
昼休み、男子数人と軽い会話をしている最中にも、ふと視界の端に白瀬が入る。彼女は弁当箱の蓋を閉じながら、ちらりとこちらを見て――目が合いそうになった瞬間、露骨ではないが明確に視線を逸らした。
学校では普通に。
それが彼女の望みだった。
だから玲司も、追いかけるような真似はしない。
しかし、放課後になると話は別だった。
「……天城くん」
その日も帰り支度をしていると、やや低めの、小さいが聞き取りやすい声で呼ばれた。振り向けば、白瀬もえが鞄を抱えたまま立っている。
昨日カフェで見せたような“覚悟を決めた顔”ではない。今日はもっと単純に、落ち着きなくそわそわしていた。
「少し時間ある?」
「ある」
「……また、ちょっとだけ」
「わかった」
返事が早すぎたのか、白瀬は一瞬きょとんとした。
「断らないんだ」
「断る理由があるか?」
「いや、ないけど……」
「今日はどこへ行く」
「ちょっとだけ寄り道。近いところ」
そう言って、白瀬は先に廊下へ出た。
玲司はその背中を追いながら考える。彼女の方からこうして声をかけてくるということは、何か話したいことがあるのだろう。それが秘密の補足なのか、ただの確認なのかはわからない。
だが、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、少しだけ楽しみにしている自分がいる。
◇
白瀬が玲司を連れてきたのは、駅から少し離れた住宅街の一角にある小さなファミレスだった。昨日のカフェよりも気楽な雰囲気で、学生同士がいても目立たない。
二人は窓際の席に向かい合って座る。
「昨日の今日で、また話があるのか」
「あるよ。あるに決まってるでしょ」
「そんなに重要か」
「重要。かなり重要」
白瀬はドリンクバーのコップを両手で包みながら、ちらりと周囲を見た。念入りに人目を気にしているあたり、本当に秘密に関わる話なのだろう。
「天城くん、昨日“少し興味ある”って言ったよね」
「言った」
「ほんとに?」
「疑っているのか」
「ちょっと」
白瀬は唇を尖らせた。
「だって、あの感じだと、たぶんまだ“へえ、珍しい趣味なんだね”くらいの認識でしょ」
「否定はできない」
「やっぱり!」
玲司はそこで少しだけ首を傾げる。
「それが何か問題か?」
「問題っていうか……その認識のままだと困る」
「困る?」
「うん。すごく困る」
白瀬はストローをくるくる回しながら、しばらく逡巡したあと、ついに決心したように顔を上げた。
「はっきり言うね」
「聞こう」
「私が描いてるのは、ただの“ちょっと際どい絵”じゃないの」
「そうなのか」
「そうなの!」
そして、そこでスイッチが入った。
玲司はそれを、見てすぐに理解した。
白瀬もえという少女には、明らかに“熱が入る瞬間”がある。普段の彼女は静かで控えめだ。だが、自分の絵や、その周辺にあるものの話になった途端、目の奥に火が灯る。
今が、まさにそれだった。
「まず前提として、えっちな絵って、ただ露出が多ければいいわけじゃないから」
「……なるほど」
「“なるほど”じゃないの。ここ重要なの」
「失礼。続けてくれ」
「うん」
白瀬は真剣な顔で頷くと、そのまま身を乗り出した。
「たとえばね、同じ水着でも、布面積だけで決まるわけじゃないの。どこが見えてるか、じゃなくて、“どう見えるか”の方がずっと大事なの」
「どう見えるか」
「そう。表情、姿勢、目線、肩の力の抜け方、髪の流れ、光の入り方。あと指先」
「指先?」
「指先」
断言された。
「指先がちょっと緊張してるだけで、“恥ずかしいけど頑張ってる感じ”が出るの。逆に、手の力が抜けてると“見せ慣れてる余裕”になる」
「そこまで違うものなのか」
「違うよ! 全然違う!」
白瀬はテーブルを叩きかけて寸前で止めた。
「太もももそう。太いとか細いとかじゃなくて、どこに重心がかかってるかで印象が変わるし、鎖骨の出し方ひとつで色気も変わるし、服のシワも重要だし、布の張り方も大事だし……」
「布の張り」
「そこ繰り返さなくていいから! いや大事だけど!」
玲司は少し黙った。
白瀬は恥ずかしがるかと思ったが、まったくそんな気配はない。いや、顔は少し赤いのだが、それ以上に“伝えたい”が勝っている。
つまり彼女は今、自分の好きなものを語ることに夢中なのだ。
「君は、そういうところを考えながら描いているのか」
「当たり前でしょ」
「いや、すまない。そこまで一つひとつ意図があるとは思っていなかった」
「あるよ。むしろ、そこが命」
「命」
「命」
玲司は思わず笑いそうになったが、真剣に話している相手の前でそれは控えた。
「じゃあ聞くが」
「なに」
「君が一番大事にしているのは何だ」
「え」
「可愛さか。色気か。それとも、もっと別の何かか」
白瀬は、ぴたりと動きを止めた。
その質問は彼女にとって予想外だったのだろう。少しだけ目を丸くして、それからゆっくり視線を落とす。
「……どっちも大事」
「どっちも」
「でも、順番で言うなら、最初は可愛さ」
「それは意外だな」
「なんで」
「君の絵は、まずどきりとする印象が強かったから」
「それは成功してるってことだけど、違うの。私は最初から“えっち”を描きたいわけじゃない」
白瀬は自分の胸の前で、手をひらひら動かしながら言葉を探す。
「まず、“この子かわいいな”って思ってほしいの。見た瞬間に、好きになってほしい。笑った顔とか、照れた顔とか、ちょっと生意気そうな感じとか。そういう“可愛い”が先にあって、その延長線上に“どきどき”が生まれるのが理想」
「……なるほど」
「ただ脱がせればいいわけじゃないの。可愛いが先、どきどきが後。そこが逆だと、私の絵じゃなくなる」
玲司はその言葉を、静かに反芻した。
可愛いが先、どきどきが後。
昨日と今日で見た彼女の絵を思い返すと、たしかにその通りだった。目を引くのは露出やポーズだけではない。まずキャラクター自体に愛嬌があって、魅力があって、その上で少しずつ心拍数を上げてくるような絵だった。
だから、目に焼きついたのか。
「君は、自分の絵をよく理解しているんだな」
「そりゃするよ。しないと描けないし」
「誰かに教わったのか」
「半分は独学。半分は、好きな作家さんとか絵師さんの絵を見て、研究して、真似して、考えて、自分の好きに落とし込んで……って感じ」
「研究」
「うん。かなりする」
白瀬は言いながら、鞄から小さなメモ帳を出した。
玲司は何気なく覗いて、それが見た目に反してかなり細かい内容で埋まっていることに驚いた。
表情メモ。構図メモ。フェチ要素。服飾資料。色味の組み合わせ。シチュエーション別の印象。さらには“照れ80%/誘い20%”“無防備感優先”“見せつけ感はNG”など、細かすぎるほど具体的な書き込みまである。
「……これは」
「研究ノート」
「本気だな」
「本気だよ!」
白瀬は少し誇らしげだった。
「私、好きなものには本気だから」
その一言は、妙にまっすぐだった。
玲司はそこで、なぜ自分が彼女を気にしているのかを少しだけ理解した気がした。白瀬もえは、ただ秘密めいた二面性を持つ少女だから気になるわけではない。
彼女は、自分の好きなものに対して、驚くほど誠実なのだ。
誰に見せるでもなく研究し、磨き、恥ずかしがりながらも譲れないものを持っている。その在り方が、玲司にはひどく眩しい。
「……何」
「いや」
「なんか今、すごい見られてる気がする」
「見ていた」
「否定してよ」
「無理だな」
「なんでそんな正直なの……」
白瀬は視線を泳がせたあと、コップを持ってごまかすようにひと口飲んだ。
だが、いったん火がついた熱は簡単には消えないらしい。彼女はすぐにまた語り始めた。
「あとね、よく勘違いされるんだけど、“えっちな絵”って下品である必要はないの」
「下品である必要はない」
「うん。むしろ、私は下品にはしたくない」
「それは君の美学か」
「そう。たとえば、露骨すぎる表情より、ちょっと目を逸らした瞬間の方がどきっとすることもあるし、全部見えてるより、見えそうで見えない方がいいこともある。想像の余地がある方が可愛い時もあるし」
「難しいな」
「難しいよ。だから楽しいの」
玲司はその言葉に、少し息を飲んだ。
だから楽しい。
白瀬はきっと、悩んだり、迷ったり、試行錯誤したりすること自体も含めて、この創作が好きなのだ。
それはたぶん、単なる趣味という言葉だけでは収まらない。
「君にとって、絵を描くことはどういうものなんだ」
「……どういうもの、か」
白瀬は今度こそ本気で考え込んだ。
窓の外を一瞬だけ見て、指先でコップの縁を撫でる。それから、ぽつりと答えた。
「逃げ場、でもあるし」
「逃げ場」
「武器でもある」
「武器」
「あと……好きって言える場所」
最後の一言は、少しだけ小さかった。
だが玲司には、はっきり聞こえた。
「学校だと、あんまりそういう話ってしないし」
「しないだろうな」
「うん。別に学校が嫌いなわけじゃない。でも、みんなの前で“私は可愛い女の子とちょっとえっちな萌えが大好きです!”って堂々と言えるほど強くはないし」
「それはそうだろう」
「でしょ? でも、mocoとして描いてる時は、それを好きって言っていいの。誰に遠慮もしないで、“私はこれが好き”って絵にできる」
玲司は黙っていた。
白瀬もまた、自分でそこまで言ったのが少し気恥ずかしかったのか、目を伏せて笑った。
「なんか恥ずかしいこと言ったかも」
「いや」
「引いてない?」
「引いていない」
「ほんとに?」
「ああ」
玲司は迷わず言った。
「むしろ、きれいだと思った」
「……は?」
「君の話だ」
白瀬の動きが止まる。
「なにそれ」
「率直な感想だ」
「その感想をその温度で言えるの、ほんとすごいよ」
「褒められているのか?」
「わかんない。少なくとも心臓には悪い」
白瀬は両手で顔を隠した。
「だって普通、こんな話したらもっとこう……うわって顔されたり、微妙に距離置かれたりするかなって思うじゃん」
「君は、そんな反応をされたことがあるのか」
「……あるよ、少しは」
その言葉に、玲司は自然と眉を寄せた。
白瀬はしまった、という顔をしたが、もう取り消せないと思ったのか、苦笑いで続ける。
「中学の時にちょっと。今より全然下手だったし、隠し方も甘くて、描いてたの見られて、引かれて。まあ、大騒ぎになるほどじゃなかったけど、それ以来ちょっと慎重になった」
「そうか」
「だから学校と活動は分けたいの。好きなものを好きって言える場所、ちゃんと自分で選びたいから」
玲司は静かに頷いた。
その考え方は、とてもよくわかった。
自分の大切なものを、雑に踏み荒らされたくない。理解できない相手に無理に差し出したくない。そう思うのは当然だ。
そしてそれを“臆病”ではなく、“守るための選択”として彼女が実行していることも。
「白瀬」
「なに」
「昨日と今日で、少し印象が変わった」
「えっ」
白瀬は目をぱちくりさせた。
「それ、いい意味?」
「もちろんだ」
「……どんなふうに?」
玲司は少しだけ考えた。
どう言葉にすれば、今のこの気持ちに一番近いのか。
「君は、思っていたよりずっと強い人間だ」
「……え」
「静かなだけで、弱いわけじゃない。むしろ、自分の好きなものに対しては、かなり頑固で、負けず嫌いで、譲らないだろう」
「……」
「そして、たぶんすごく努力している」
白瀬は、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が不安だったのか、玲司は少しだけ言葉を足す。
「違ったか?」
「……違わない」
「そうか」
「だから困るの」
「何がだ」
「なんでそんなに、ちゃんと見抜くの……」
白瀬の声は、もうさっきまでの勢いある調子ではなかった。
ほんの少しだけ、震えているように聞こえた。
「私は別に、そんな大した人じゃないのに」
「大した人だろう」
「いやいやいや! 壁サーとか活動とかはそれなりに頑張ってるけど、人間としては全然だし、部屋汚いし、締切前は荒れるし、食生活終わるし、急に泣くし」
「後半は初耳だな」
「今言ったからね!」
その一言で、さっきまでの妙に繊細な空気が少しだけ崩れた。
玲司は内心ほっとしつつ、小さく笑う。
「だが、そのどれも、絵に本気だからこそだろう」
「……そうだけど」
「なら、少なくとも僕は軽く見る気にはならない」
「……っ」
白瀬はまた、耳まで赤くなった。
そしてしばらく黙り込んだあと、ぼそりと呟く。
「……天城くんって、地味にずるい」
「最近よく言われるな」
「だって、欲しい言葉を欲しいタイミングで出してくるから」
「意図はしていない」
「してないのがずるいんだってば……」
彼女は視線を逸らしたまま、ドリンクバーの氷をからんと鳴らした。
玲司はその横顔を見ながら、奇妙な感覚を覚えていた。
彼女の秘密を知ったのは偶然だ。
だが、その偶然の先に、こうして彼女の好きなものの話を聞いている。昨日までは“静かなクラスメイト”でしかなかった少女が、今はこんなにも生き生きと、自分の世界を語っている。
そして自分は、その話をもっと聞きたいと思っている。
「……あ」
不意に白瀬が声を漏らした。
「どうした」
「やば、時間」
スマホの画面を見て、彼女は顔色を変える。
「今日、家帰ったらラフ仕上げる予定だったのに」
「予定があるなら、もう出た方がいいか」
「うん。でも、ちょっと待って」
白瀬は立ち上がりかけて、また座り直した。少し迷ってから、玲司の方を見た。
「今日、話してよかった」
「そうか」
「うん。昨日は“秘密がバレた最悪”って感じだったけど、今日はちょっと違う」
「違う?」
「……ちゃんと、わかろうとしてくれてる感じがしたから」
その言い方は、少しだけ照れくさそうで、でも真剣だった。
玲司は一拍おいてから頷く。
「君が本気で好きなものなら、知りたいと思うのは自然だろう」
「だから、そういうの……」
「何だ」
「いや、もういい」
白瀬は頬を押さえ、立ち上がった。
「帰る! 今日はもう帰る!」
「急だな」
「急じゃないと無理!」
「何がだ」
「いろいろ!」
勢いのまま会計へ向かおうとして、白瀬は一度ぴたりと止まった。
そして、背中越しに言う。
「……あとね」
「何だ」
「えっちな絵は芸術だから」
「わかった」
「いや、わかってない顔してる」
「では、勉強する」
「その返しもなんか危ない!」
最後にそう言って、白瀬は本当に立ち去っていった。
玲司はしばらくその背中を見送ってから、静かに息を吐く。
窓の外は、夕方から夜へと変わりかけていた。店内には学生や仕事帰りの客の声が混じり始めている。さっきまで二人だけの話のように感じられた時間が、少しずつ日常に溶けていく。
だが玲司の中には、確かに何かが残っていた。
可愛いが先、どきどきが後。
好きって言える場所。
下品ではなく、ちゃんと美しいものとして描きたいというこだわり。
そこには、玲司が想像していた以上に明確な思想と、美学と、誠実さがあった。
「……芸術、か」
小さく呟いてみる。
少し前の自分なら、こんな言葉を真面目に受け止めはしなかったかもしれない。だが今は、不思議と笑う気になれなかった。
白瀬もえは、笑い話としてそれを言っていない。
彼女は本気で、自分の好きなものを美しく、可愛く、心を動かすものとして描こうとしている。
そう思うと、昨日教室で偶然見たあの一枚が、ただ刺激的なラフだったとは到底思えなくなった。
あれはたぶん、彼女が積み上げてきたものの一端だったのだ。
玲司は会計を済ませ、店を出る。
春の終わりを思わせる夕風が、頬を撫でた。
駅までの道を歩きながら、ふと考える。
これまで自分は、誰かの“好き”にここまで正面から触れたことがあっただろうか。
たぶん、ない。
何かに本気な人間は周囲にもいたのだろう。だが自分は、そこまで近づこうとしたことがなかった。必要以上に踏み込まず、礼儀正しい距離を保ってきた。
けれど白瀬もえの話は、その距離を少しだけ壊した。
もっと知りたいと思ってしまった。
彼女がこれから何を描くのか。どんなこだわりを持っているのか。どうしてそこまで本気になれるのか。
そして、そんな彼女が、次はどんな顔で笑うのか。
「……危ない発言、か」
駅の改札が見えたところで、玲司は小さく笑った。
たしかに危ないのかもしれない。
少し興味がある、というだけのはずだった。だが、その“少し”はもう、昨日より確実に大きくなっている。
白瀬が言っていた。
オタク文化は沼だ、と。
ならば、その沼のほとりに、自分はもう立っているのかもしれない。




