第2話 クラスの地味女子、実はコミケで壁サーでした
翌日、天城玲司は少しだけ寝不足だった。
原因は明確だ。
昨夜、帰宅してから何度か思い出してしまったのである。放課後の教室で見た、あのスケッチブックの一ページを。
頬を染めた女の子。やわらかな線。意図を持って描かれた視線。あざといのに、どこか品があった。あの絵が玲司の頭に残って離れないのは、刺激が強かったからだけではない。純粋に、魅力があったのだ。
そして何より、その絵を描いた白瀬もえ本人の反応が強烈だった。
普段は静かで、声を荒げる印象もない彼女が、半泣きで「学校生活が終わる」と訴える。あそこまで取り乱されると、こちらとしても簡単に忘れられる話ではない。
もっとも、玲司は一晩眠って冷静になった結果、余計な詮索をすべきではないという結論も出していた。
秘密は秘密だ。
知られて困ることなら、守るべきだろう。
そう思って、いつも通りに登校したのだが――。
「お、おはようございます……」
「おはよう」
一限前の教室で、白瀬もえはいつも以上にぎこちなかった。
目が合うなり、ぴくっと肩を揺らしてから、小さく挨拶をする。いつもならもう少し自然なはずなのに、今日は目が泳いでいる。玲司も余計なことは言わず、ごく普通に返した。すると彼女は逆に戸惑ったような顔をして、自分の席へ逃げるように座った。
どうやら本気で気まずいらしい。
その様子を見て、玲司は少しだけ可笑しかったが、口には出さなかった。
昼休みも、放課後のホームルームでも、白瀬は意識的に玲司を避けているようだった。露骨すぎるわけではない。だが、近くに来ない。目を合わせない。必要以上に距離を取る。
昨日の今日では無理もない。
玲司はそう思っていたが、放課後、帰宅の準備をしていると、後ろから低い声が飛んできた。
「……天城くん」
「白瀬」
振り向くと、白瀬もえが机の横に立っていた。
昨日ほど動揺した様子ではないが、代わりに妙な覚悟を決めたような顔をしている。緊張と諦めが半々、という表情だ。
「ちょっと、話したい」
「わかった」
「ここじゃなくて」
「どこがいい」
「外。できれば人が少ないところ」
「了解した」
玲司が特に驚いた様子もなく立ち上がると、白瀬は少しだけ拍子抜けしたようにまばたきをした。それから、こほんと咳払いをひとつして先に教室を出る。
玲司はその背中を追った。
◇
二人が入ったのは、学校から少し離れた裏通りにある小さなカフェだった。
駅前の華やかな店ではなく、学生が長居しやすそうな落ち着いた雰囲気の場所だ。木目調のテーブルに、やわらかな照明。夕方の時間帯で客は少なく、隅の席なら他人の会話も気にならない。
白瀬は店に入るなり、周囲を確認してから一番奥の席を選んだ。よほど慎重に話したいらしい。
「何か頼むか」
「……あ、うん」
「甘いものは?」
「え?」
「メニューを見ていたから」
「いや、見てたけど、そんな気分じゃ……いや、でもこのキャラメルラテ美味しそう……」
「ではそれにしよう。僕はコーヒーでいい」
「勝手に決めるの、ちょっと慣れてる感じあるね……」
「悪かったか」
「悪くない。むしろなんか……育ちの違いを感じる」
注文を済ませてから、二人の間に沈黙が落ちた。
白瀬は運ばれてきた水のグラスを両手で持ち、しばらくそれを見つめていた。まるで、どう切り出すか決めかねているようだった。
玲司は急かさず待つ。
やがて彼女は、小さく息を吸って口を開いた。
「昨日は……その……取り乱して、ごめん」
「気にしていない」
「気にしてないの?」
「かなり驚いたが」
「それはそうだよね……」
白瀬は肩を落とした。
「でも、先に言っとくと、昨日のことは本当に誰にも言わないでほしい」
「約束した」
「うん。それは信じてる」
「それならいい」
「よくないの。よくないから、今日ちゃんと説明しようと思って」
「説明?」
「中途半端に知られてる方が危ないから……」
そこで店員が飲み物を置いていった。白瀬はそのタイミングを見計らったかのように、ストローをくるくると指で回す。視線はコップの中のキャラメル色の液体に落ちたままだ。
「天城くんって、コミケ知ってる?」
「名称だけなら」
「壁サーは?」
「いや」
「同人イベントは?」
「詳しくはない」
「だよね……」
白瀬はそう言ってから、ほんの少しだけ救われたような顔をした。玲司が詳しいオタクではないことに安堵したのかもしれない。だが次の瞬間、その顔はまたすぐ複雑なものに変わる。
「じゃあ、順番に言うね」
「聞こう」
「途中で引かないで」
「保証はできないが、努力はする」
「そこは“引かない”って言って!?」
「では引かない」
「……なんか今の、ちょっと怪しい」
白瀬はむっとしたが、そのやり取りで少し緊張がほぐれたのか、ようやく玲司の目を見た。
「私、絵を描いてるの」
「それは知っている」
「うん。で、その、趣味レベルっていうか、学校の美術部の延長とかじゃなくて……もっとちゃんと、外に出してる」
「外?」
「ネットとか、イベントとか」
「なるほど」
玲司は頷く。
昨日見た絵の完成度を思えば、それは納得できる話だった。あれほど描けるなら、ただノートの隅に落書きをして満足するようなレベルではないのだろう。
「私は“moco”って名前で活動してる」
「moco」
「うん。ペンネーム」
「かわいい名前だな」
「っ……!」
白瀬は一瞬、言葉を詰まらせた。
「い、いきなりそういうこと言うのやめて」
「そういうこと?」
「褒められると調子狂う」
「本音なんだが」
「本音なのが困るの!」
また少し赤くなって視線を逸らす。玲司は自分が何かおかしなことを言ったのかと考えたが、よくわからないまま話の続きを待った。
「mocoとして、イラストを上げたり、本を作ったりしてる」
「本を?」
「うん。同人誌。イベントで頒布する本」
「つまり、自分の描いたものを冊子にして売るのか」
「売るっていうか、頒布っていうか……いや、まあ、お金はいただくんだけど」
白瀬はここで少しだけ胸を張った。
「それで、その……ありがたいことに、それなりに見てもらえてて」
「それなりに?」
「…………」
「白瀬」
「ちょっと」
「何だ」
「そんな真顔で圧をかけないで」
「圧をかけているつもりはない」
「あるよ。天城くん、無自覚で圧あるよ」
ぶつぶつ言いながら、白瀬はスマホを取り出した。
「見るなら、これ」
「構わないのか」
「今さらだし……中途半端に隠しててもややこしいから」
そう言って差し出されたスマホ画面を、玲司は慎重に受け取る。
表示されていたのは、イラスト投稿用のアカウントらしきページだった。アイコンにはデフォルメされた可愛い女の子。名前はたしかに「moco」。そして玲司は、すぐに眉を上げた。
「……白瀬」
「何」
「数字が多い」
「見ないで! 見ていいけどそこから入らないで!」
「いや、視界に入る」
「うう……」
フォロワー数が桁違いだったのだ。
玲司はSNSに詳しいわけではないが、それでもわかる。これは“それなり”ではない。十分に人気がある数字だ。投稿されているイラストにも、膨大な反応がついている。称賛、感想、次の新刊への期待。どれを見ても、mocoという名前が多くの人に認知されていることが伝わってきた。
「すごいな」
「…………」
「白瀬?」
「その反応、ずるい」
「またか」
「だって普通、もっと驚くとか、引くとか、そういうのあるでしょ」
「驚いてはいる」
「顔に出てない」
「訓練の成果だな」
「そんな訓練やだよ……」
白瀬は両手で顔を覆った。
玲司はさらに画面をスクロールする。色鮮やかなイラストがいくつも並んでいた。どれも可愛い。そして、たしかに少し際どい。だが、ただ露骨なだけではない。表情や仕草が魅力的で、見る側の視線を意識した構図になっている。
昨日教室で見たラフの空気が、ここには完成形として並んでいた。
「君らしい絵だ」
「え?」
「……いや、昨日の絵と同じ空気を感じる」
「そ、それはまあ、同じ人が描いてるから当然なんだけど……」
白瀬は照れたのか、ストローを噛みそうな勢いで口元に持っていった。
「それだけじゃない」
玲司は画面を見たまま言う。
「どれも、“見せたいもの”がはっきりしている」
「……」
「線も、色も、表情も。どういうふうに見てほしいのかが伝わる。だから印象に残る」
「……天城くんって、絵のことわかる人?」
「いや」
「じゃあなんでそんなにそれっぽい感想言えるの……?」
「感じたことを言っただけだ」
「そっか……」
白瀬の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
それから彼女は、スマホを玲司の前に少し寄せて、別の写真を開いた。
「で、こっちがイベントの写真」
「……列か?」
「列」
「かなり長いな」
「ありがたいことに」
「これは何人くらい並んでいる」
「数えたことはないけど、開場直後はいつもけっこう……」
「いつも?」
「う」
また墓穴を掘った、とでも言いたげな顔をする。
玲司は写真を見つめた。会場の広いホール、びっしり並ぶ机、人、人、人。その一角に、明らかに長い列ができている。机の後ろには顔を隠した人物が立っているが、おそらく白瀬なのだろう。
「これがコミケか」
「コミケだけじゃないけど、一番大きいのがコミケ」
「そして、君の列はあの中でも長い方なのか」
「…………」
「白瀬」
「はい」
「君、かなりすごいんじゃないか」
「ひぃ……」
なぜか白瀬は小さく悲鳴を上げた。
「なんで怯える」
「だって真正面から言われると無理! 自分でもそんなふうに言わないようにしてるのに!」
「事実だろう」
「そういうのはこう、濁すのが日本人の美徳なんだよ!」
「便利な言葉だな」
「便利だよ!」
玲司は思わず口元を緩めた。
白瀬もえはやはり面白い。いや、面白いという言い方は違うかもしれない。見ていて飽きない。普段の静かな顔の下に、こんなにも賑やかな感情が詰まっているのだ。
それにしても――。
「昨日言っていた“学校生活が終わる”というのは、こういうことか」
「そう! そういうこと!」
白瀬は勢いよく前のめりになった。
「私、学校では普通にしていたいの。絵を描いてるのは別に隠したいわけじゃないけど、描いてる内容とか、イベントでの活動とか、壁だとか何だとか、そういうの全部知られたら絶対変な空気になるし!」
「変な空気、か」
「なるよ! たぶん今よりもっと話しかけづらくなるか、逆に変に興味持たれるか、最悪“あの手の絵を描いてる子”って目で見られるし!」
白瀬はここまで一気に言って、はっと我に返ったように口をつぐんだ。
「……ごめん、ちょっと熱くなった」
「いや」
「笑わないの?」
「なぜ笑う」
「……それもそうか」
彼女は少しだけ息を吐き、今度は落ち着いた声で続けた。
「私にとって、学校は学校なの。絵を描く場所じゃない。mocoとしての私と、白瀬もえとしての私は、分けたい」
「どうして」
「どうしてって……」
「分けない方が楽なこともあるだろう」
「ないよ。私にはない」
その言い方は意外なほどきっぱりしていた。
玲司はそこで初めて、彼女がこの線引きに本気なのだと理解する。ただの恥ずかしがりではない。自分の生活を守るための、はっきりした意思だ。
「学校では、普通の高校生でいたいの」
「普通、か」
「うん。目立たず、騒がれず、必要以上にいじられず、平和に」
「君はだいぶ本気でそれを望んでいるな」
「本気だよ。天城くんにはわからないかもしれないけど」
「……そうだな」
玲司は素直に認めた。
彼には“普通でいたい”という願いが、ひどく遠いものに思えたからだ。天城家の名を背負った時点で、普通という選択肢は半ば失われている。
だがだからこそ、白瀬の言葉は不思議と耳に残った。
学校では普通にしていたい。
その願いは、羨ましいほど単純で、同時にとても切実だった。
「天城くん?」
いつの間にか黙っていた玲司を見て、白瀬が首を傾げる。
玲司は小さく首を振った。
「いや。君の言いたいことはわかった」
「ほんと?」
「ああ。君は君の世界を守りたいんだな」
「……うん」
白瀬は少しだけ驚いたように目を見開いた。
それから、ほんのかすかに笑う。
「そうかも」
「なら守るべきだ」
「……え」
「秘密にしたいなら、秘密にしておけばいい。誰にでも見せる必要はないだろう」
玲司がそう言うと、白瀬はしばらく黙っていた。
手元のキャラメルラテに視線を落とし、ストローを指先でいじる。その横顔は、昨日のように真っ赤でも真っ青でもなく、ただ静かに何かを噛みしめているように見えた。
「……天城くんって、変」
「そうか?」
「うん。もっとこう……」
「もっと?」
「財閥御曹司っぽい反応するかと思った」
「財閥御曹司っぽい反応とは何だ」
「“それは品位に欠ける趣味だね”とか?」
「僕はそんな人間に見えるのか」
「そこまでは思ってないけど、でも……偏見とか、あるかなって」
玲司は少し考え、それから率直に答えた。
「驚きはした。だが、君が本気でやっているなら、それを笑う気にはならない」
「……」
「昨日も言ったが、絵は上手い。人気があるのも理解できる」
「……うわぁ」
「何だ」
「真正面から言われると、ほんとに無理」
「君は褒められ慣れていないのか」
「ネットだと平気なの! 顔見えないから!」
「なるほど」
「なるほどじゃないよ……」
顔を伏せる白瀬の耳が、また赤い。
玲司はそこで、昨日から抱いていた疑問を口にした。
「一つ聞いてもいいか」
「なに」
「昨日の絵のようなものを、君はずっと描いているのか」
「……その聞き方、ちょっとやだ」
「言葉の選び方を誤った」
「まあ、いいけど……うん、そうだよ。可愛くて、ちょっとどきどきする女の子を描くのが好き」
「なぜだ」
「えっ」
「そういうものを描く理由だ」
白瀬は意外そうに玲司を見た。
たぶん彼女は、そこを真面目に聞かれると思っていなかったのだろう。普通なら、際どいとか、恥ずかしくないのか、とか、そういう方向の質問が先に来るのかもしれない。
だが玲司が知りたかったのは、もっと単純なことだった。
どうして彼女は、それに心を動かされるのか。
白瀬はしばらく悩むように視線を彷徨わせ、それから小さく息を吐いた。
「……可愛いから」
「可愛いから」
「うん。女の子が可愛いの好き。服とか髪型とか表情とか、全部」
「それはわかる」
「えっ」
「何だ」
「今さらっと“わかる”って言った?」
「君の絵を見れば、そこに可愛さへの執着があるのは伝わる」
「執着って言い方!」
白瀬は抗議したものの、少し嬉しそうでもあった。
「でも、そうだよ。可愛いのが好き。あと、ちょっとどきっとするのも好き。ただ露出が多いとかじゃなくて……なんていうか、可愛さの延長にある色気、みたいなの」
「……」
「何その顔」
「いや、興味深いと思って」
「そんな真面目に聞かれると急に恥ずかしいんだけど……」
彼女は両手でカップを包み込み、そこに頬がつきそうなほど俯いた。
「でも、誰かにちゃんとそういう話したこと、あんまりないかも」
「そうなのか」
「同じ趣味の人とはするけど、こういう真正面からじゃないし。学校の人には絶対言えないし」
玲司はふと、自分が今かなり特別な話を聞いているのだと気づいた。
秘密の正体だけではない。彼女が何に心を動かされて、何を大切にしているのか。その根っこの部分に触れている。
そう思うと、不思議と胸の奥が静かに熱を持つ。
そこへ、不意に白瀬が顔を上げた。
「……で、話を戻すけど」
「戻す?」
「秘密を知っちゃった以上、天城くんにはお願いがある」
「何だ」
「今後も学校では普通にしてて」
「それは構わない」
「あと、できれば変に気を遣わないで」
「難しい注文だな」
「え」
「秘密を知った相手に、今まで通り完璧に接しろと言われても」
「そこはほら、御曹司のスペックでなんとか」
「便利に使うな」
「使えるものは使うの!」
玲司は少し笑った。
「努力しよう」
「うん……ありがとう」
白瀬はようやく、少し安心したように肩を下ろした。
その時、スマホの通知音が鳴る。彼女は画面を見た途端、表情を強張らせた。
「どうした」
「……やば」
「何が」
「印刷所から」
「印刷所?」
「いや、今のは気にしないで」
「気になるだろう」
「気にしないでって言ったのに……!」
白瀬は慌ててスマホを伏せたが、その一連の動作があまりにも挙動不審で、逆に玲司の興味を引いてしまう。
「“印刷所”というのは、本を刷る場所か」
「そうだけど」
「何か問題があったのか」
「いや、問題っていうか、その……次のイベント用の本の入稿確認で」
「次のイベント?」
「うっ」
また墓穴を掘ったらしい。
玲司が黙っていると、白瀬は数秒葛藤してから、観念したように肩を落とした。
「……今度、イベントあるの」
「なるほど」
「で、その準備をしてる」
「かなり忙しいのか」
「かなり忙しい」
「では、昨日あの時間まで教室に残っていたのは」
「ラフ詰めてた」
「そうか」
玲司は頷いた。
すると白瀬は、なぜかじっとこちらを見る。
「……引かないの?」
「まだその確認をするのか」
「だって天城くん、普通に受け入れすぎなんだもん」
「君の中で僕はどれほど狭量なんだ」
「そういう意味じゃないってば。ただ……」
彼女は言葉を探すように口を閉じ、それから小さく呟いた。
「ちょっと安心しただけ」
玲司は何も言わなかった。
代わりに、テーブルの上の伝票を取る。白瀬が慌てて手を伸ばした。
「待って、私も出す!」
「いや」
「いやじゃないよ。呼び出したの私だし」
「なら、次にしてくれ」
「次?」
「またこういう話をすることがあるなら」
「……ある前提なんだ」
「違うか」
「……違わない、かも」
白瀬は小さく視線を逸らした。
その仕草に、玲司は少しだけ心が和らぐのを感じた。昨日までただのクラスメイトだった彼女が、ほんの少しだけ近くなった気がしたのだ。
秘密を共有したからかもしれない。
あるいは、彼女の“好き”の輪郭を少し知ったからかもしれない。
会計を済ませて店を出る頃には、外はすっかり夕暮れだった。駅前の光が灯り始め、人の流れも増えている。
白瀬は鞄の持ち手を両手で握りながら、隣を歩く玲司にぽつりと言った。
「……今日のこと、ちょっと言えてよかった」
「それは何よりだ」
「でも、まだ全部は話してないから」
「全部?」
「うん。コミケとか、壁とか、サークルとか、そういうの」
「まだあるのか」
「いっぱいあるよ」
「異文化だな」
「でしょ」
「だが、少し興味はある」
「……え?」
白瀬が足を止める。
玲司も立ち止まり、彼女を見る。
「昨日の絵と、今日見せてもらったものを見て思っただけだ。君がそこまで本気になる世界が、どんなものなのか」
「それ、危ない発言だよ」
「危ない?」
「天城くんみたいな人がそうやって一歩踏み込むと、戻れない可能性あるから」
「大げさだな」
「大げさじゃないの。オタク文化は沼なの」
真顔で言う白瀬に、玲司は少しだけ笑ってしまう。
「では、気をつけよう」
「絶対気をつけないやつの顔してる……」
そう言って白瀬は小さくため息をついたが、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
駅の分かれ道で立ち止まる。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
「学校では普通にね」
「努力する」
「ほんとにお願いだから!」
念押ししてから、白瀬もえはくるりと背を向けた。
少し早足で歩いていくその背中を見送りながら、玲司は胸の奥に小さな感覚を覚えていた。
昨日はただ、秘密を知っただけだった。
だが今日は、その秘密がどれほど大きなものなのかを知った。
白瀬もえは、ただ絵が上手い地味な女子ではない。大勢の人間を惹きつける世界を持っている。そしてその世界を、誰にも雑に触れられたくないと本気で守っている。
その在り方が、玲司には少し眩しかった。
自分にはまだ、あそこまで本気で守りたい“好き”がない。
だからこそ、惹かれるのかもしれない。
玲司はふと、彼女が言った言葉を思い出す。
――オタク文化は沼なの。
「……なるほど」
小さく呟いてから、玲司は歩き出した。
少なくとも今の時点では、自分がその沼に足を踏み入れかけているなどとは、まだ思っていなかった。




