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財閥御曹司の俺が恋したのは、コミケで壁サーを張る“えっちなお絵描き女子”でした  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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2/6

第2話 クラスの地味女子、実はコミケで壁サーでした

翌日、天城玲司は少しだけ寝不足だった。


 原因は明確だ。


 昨夜、帰宅してから何度か思い出してしまったのである。放課後の教室で見た、あのスケッチブックの一ページを。


 頬を染めた女の子。やわらかな線。意図を持って描かれた視線。あざといのに、どこか品があった。あの絵が玲司の頭に残って離れないのは、刺激が強かったからだけではない。純粋に、魅力があったのだ。


 そして何より、その絵を描いた白瀬もえ本人の反応が強烈だった。


 普段は静かで、声を荒げる印象もない彼女が、半泣きで「学校生活が終わる」と訴える。あそこまで取り乱されると、こちらとしても簡単に忘れられる話ではない。


 もっとも、玲司は一晩眠って冷静になった結果、余計な詮索をすべきではないという結論も出していた。


 秘密は秘密だ。


 知られて困ることなら、守るべきだろう。


 そう思って、いつも通りに登校したのだが――。


「お、おはようございます……」

「おはよう」


 一限前の教室で、白瀬もえはいつも以上にぎこちなかった。


 目が合うなり、ぴくっと肩を揺らしてから、小さく挨拶をする。いつもならもう少し自然なはずなのに、今日は目が泳いでいる。玲司も余計なことは言わず、ごく普通に返した。すると彼女は逆に戸惑ったような顔をして、自分の席へ逃げるように座った。


 どうやら本気で気まずいらしい。


 その様子を見て、玲司は少しだけ可笑しかったが、口には出さなかった。


 昼休みも、放課後のホームルームでも、白瀬は意識的に玲司を避けているようだった。露骨すぎるわけではない。だが、近くに来ない。目を合わせない。必要以上に距離を取る。


 昨日の今日では無理もない。


 玲司はそう思っていたが、放課後、帰宅の準備をしていると、後ろから低い声が飛んできた。


「……天城くん」

「白瀬」


 振り向くと、白瀬もえが机の横に立っていた。


 昨日ほど動揺した様子ではないが、代わりに妙な覚悟を決めたような顔をしている。緊張と諦めが半々、という表情だ。


「ちょっと、話したい」

「わかった」

「ここじゃなくて」

「どこがいい」

「外。できれば人が少ないところ」

「了解した」


 玲司が特に驚いた様子もなく立ち上がると、白瀬は少しだけ拍子抜けしたようにまばたきをした。それから、こほんと咳払いをひとつして先に教室を出る。


 玲司はその背中を追った。


     ◇


 二人が入ったのは、学校から少し離れた裏通りにある小さなカフェだった。


 駅前の華やかな店ではなく、学生が長居しやすそうな落ち着いた雰囲気の場所だ。木目調のテーブルに、やわらかな照明。夕方の時間帯で客は少なく、隅の席なら他人の会話も気にならない。


 白瀬は店に入るなり、周囲を確認してから一番奥の席を選んだ。よほど慎重に話したいらしい。


「何か頼むか」

「……あ、うん」

「甘いものは?」

「え?」

「メニューを見ていたから」

「いや、見てたけど、そんな気分じゃ……いや、でもこのキャラメルラテ美味しそう……」

「ではそれにしよう。僕はコーヒーでいい」

「勝手に決めるの、ちょっと慣れてる感じあるね……」

「悪かったか」

「悪くない。むしろなんか……育ちの違いを感じる」


 注文を済ませてから、二人の間に沈黙が落ちた。


 白瀬は運ばれてきた水のグラスを両手で持ち、しばらくそれを見つめていた。まるで、どう切り出すか決めかねているようだった。


 玲司は急かさず待つ。


 やがて彼女は、小さく息を吸って口を開いた。


「昨日は……その……取り乱して、ごめん」

「気にしていない」

「気にしてないの?」

「かなり驚いたが」

「それはそうだよね……」


 白瀬は肩を落とした。


「でも、先に言っとくと、昨日のことは本当に誰にも言わないでほしい」

「約束した」

「うん。それは信じてる」

「それならいい」

「よくないの。よくないから、今日ちゃんと説明しようと思って」

「説明?」

「中途半端に知られてる方が危ないから……」


 そこで店員が飲み物を置いていった。白瀬はそのタイミングを見計らったかのように、ストローをくるくると指で回す。視線はコップの中のキャラメル色の液体に落ちたままだ。


「天城くんって、コミケ知ってる?」

「名称だけなら」

「壁サーは?」

「いや」

「同人イベントは?」

「詳しくはない」

「だよね……」


 白瀬はそう言ってから、ほんの少しだけ救われたような顔をした。玲司が詳しいオタクではないことに安堵したのかもしれない。だが次の瞬間、その顔はまたすぐ複雑なものに変わる。


「じゃあ、順番に言うね」

「聞こう」

「途中で引かないで」

「保証はできないが、努力はする」

「そこは“引かない”って言って!?」

「では引かない」

「……なんか今の、ちょっと怪しい」


 白瀬はむっとしたが、そのやり取りで少し緊張がほぐれたのか、ようやく玲司の目を見た。


「私、絵を描いてるの」

「それは知っている」

「うん。で、その、趣味レベルっていうか、学校の美術部の延長とかじゃなくて……もっとちゃんと、外に出してる」

「外?」

「ネットとか、イベントとか」

「なるほど」


 玲司は頷く。


 昨日見た絵の完成度を思えば、それは納得できる話だった。あれほど描けるなら、ただノートの隅に落書きをして満足するようなレベルではないのだろう。


「私は“moco”って名前で活動してる」

「moco」

「うん。ペンネーム」

「かわいい名前だな」

「っ……!」


 白瀬は一瞬、言葉を詰まらせた。


「い、いきなりそういうこと言うのやめて」

「そういうこと?」

「褒められると調子狂う」

「本音なんだが」

「本音なのが困るの!」


 また少し赤くなって視線を逸らす。玲司は自分が何かおかしなことを言ったのかと考えたが、よくわからないまま話の続きを待った。


「mocoとして、イラストを上げたり、本を作ったりしてる」

「本を?」

「うん。同人誌。イベントで頒布する本」

「つまり、自分の描いたものを冊子にして売るのか」

「売るっていうか、頒布っていうか……いや、まあ、お金はいただくんだけど」


 白瀬はここで少しだけ胸を張った。


「それで、その……ありがたいことに、それなりに見てもらえてて」

「それなりに?」

「…………」

「白瀬」

「ちょっと」

「何だ」

「そんな真顔で圧をかけないで」

「圧をかけているつもりはない」

「あるよ。天城くん、無自覚で圧あるよ」


 ぶつぶつ言いながら、白瀬はスマホを取り出した。


「見るなら、これ」

「構わないのか」

「今さらだし……中途半端に隠しててもややこしいから」


 そう言って差し出されたスマホ画面を、玲司は慎重に受け取る。


 表示されていたのは、イラスト投稿用のアカウントらしきページだった。アイコンにはデフォルメされた可愛い女の子。名前はたしかに「moco」。そして玲司は、すぐに眉を上げた。


「……白瀬」

「何」

「数字が多い」

「見ないで! 見ていいけどそこから入らないで!」

「いや、視界に入る」

「うう……」


 フォロワー数が桁違いだったのだ。


 玲司はSNSに詳しいわけではないが、それでもわかる。これは“それなり”ではない。十分に人気がある数字だ。投稿されているイラストにも、膨大な反応がついている。称賛、感想、次の新刊への期待。どれを見ても、mocoという名前が多くの人に認知されていることが伝わってきた。


「すごいな」

「…………」

「白瀬?」

「その反応、ずるい」

「またか」

「だって普通、もっと驚くとか、引くとか、そういうのあるでしょ」

「驚いてはいる」

「顔に出てない」

「訓練の成果だな」

「そんな訓練やだよ……」


 白瀬は両手で顔を覆った。


 玲司はさらに画面をスクロールする。色鮮やかなイラストがいくつも並んでいた。どれも可愛い。そして、たしかに少し際どい。だが、ただ露骨なだけではない。表情や仕草が魅力的で、見る側の視線を意識した構図になっている。


 昨日教室で見たラフの空気が、ここには完成形として並んでいた。


「君らしい絵だ」

「え?」

「……いや、昨日の絵と同じ空気を感じる」

「そ、それはまあ、同じ人が描いてるから当然なんだけど……」


 白瀬は照れたのか、ストローを噛みそうな勢いで口元に持っていった。


「それだけじゃない」


 玲司は画面を見たまま言う。


「どれも、“見せたいもの”がはっきりしている」

「……」

「線も、色も、表情も。どういうふうに見てほしいのかが伝わる。だから印象に残る」

「……天城くんって、絵のことわかる人?」

「いや」

「じゃあなんでそんなにそれっぽい感想言えるの……?」

「感じたことを言っただけだ」

「そっか……」


 白瀬の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


 それから彼女は、スマホを玲司の前に少し寄せて、別の写真を開いた。


「で、こっちがイベントの写真」

「……列か?」

「列」

「かなり長いな」

「ありがたいことに」

「これは何人くらい並んでいる」

「数えたことはないけど、開場直後はいつもけっこう……」

「いつも?」

「う」


 また墓穴を掘った、とでも言いたげな顔をする。


 玲司は写真を見つめた。会場の広いホール、びっしり並ぶ机、人、人、人。その一角に、明らかに長い列ができている。机の後ろには顔を隠した人物が立っているが、おそらく白瀬なのだろう。


「これがコミケか」

「コミケだけじゃないけど、一番大きいのがコミケ」

「そして、君の列はあの中でも長い方なのか」

「…………」

「白瀬」

「はい」

「君、かなりすごいんじゃないか」

「ひぃ……」


 なぜか白瀬は小さく悲鳴を上げた。


「なんで怯える」

「だって真正面から言われると無理! 自分でもそんなふうに言わないようにしてるのに!」

「事実だろう」

「そういうのはこう、濁すのが日本人の美徳なんだよ!」

「便利な言葉だな」

「便利だよ!」


 玲司は思わず口元を緩めた。


 白瀬もえはやはり面白い。いや、面白いという言い方は違うかもしれない。見ていて飽きない。普段の静かな顔の下に、こんなにも賑やかな感情が詰まっているのだ。


 それにしても――。


「昨日言っていた“学校生活が終わる”というのは、こういうことか」

「そう! そういうこと!」


 白瀬は勢いよく前のめりになった。


「私、学校では普通にしていたいの。絵を描いてるのは別に隠したいわけじゃないけど、描いてる内容とか、イベントでの活動とか、壁だとか何だとか、そういうの全部知られたら絶対変な空気になるし!」

「変な空気、か」

「なるよ! たぶん今よりもっと話しかけづらくなるか、逆に変に興味持たれるか、最悪“あの手の絵を描いてる子”って目で見られるし!」


 白瀬はここまで一気に言って、はっと我に返ったように口をつぐんだ。


「……ごめん、ちょっと熱くなった」

「いや」

「笑わないの?」

「なぜ笑う」

「……それもそうか」


 彼女は少しだけ息を吐き、今度は落ち着いた声で続けた。


「私にとって、学校は学校なの。絵を描く場所じゃない。mocoとしての私と、白瀬もえとしての私は、分けたい」

「どうして」

「どうしてって……」

「分けない方が楽なこともあるだろう」

「ないよ。私にはない」


 その言い方は意外なほどきっぱりしていた。


 玲司はそこで初めて、彼女がこの線引きに本気なのだと理解する。ただの恥ずかしがりではない。自分の生活を守るための、はっきりした意思だ。


「学校では、普通の高校生でいたいの」

「普通、か」

「うん。目立たず、騒がれず、必要以上にいじられず、平和に」

「君はだいぶ本気でそれを望んでいるな」

「本気だよ。天城くんにはわからないかもしれないけど」

「……そうだな」


 玲司は素直に認めた。


 彼には“普通でいたい”という願いが、ひどく遠いものに思えたからだ。天城家の名を背負った時点で、普通という選択肢は半ば失われている。


 だがだからこそ、白瀬の言葉は不思議と耳に残った。


 学校では普通にしていたい。


 その願いは、羨ましいほど単純で、同時にとても切実だった。


「天城くん?」


 いつの間にか黙っていた玲司を見て、白瀬が首を傾げる。


 玲司は小さく首を振った。


「いや。君の言いたいことはわかった」

「ほんと?」

「ああ。君は君の世界を守りたいんだな」

「……うん」


 白瀬は少しだけ驚いたように目を見開いた。


 それから、ほんのかすかに笑う。


「そうかも」

「なら守るべきだ」

「……え」


「秘密にしたいなら、秘密にしておけばいい。誰にでも見せる必要はないだろう」


 玲司がそう言うと、白瀬はしばらく黙っていた。


 手元のキャラメルラテに視線を落とし、ストローを指先でいじる。その横顔は、昨日のように真っ赤でも真っ青でもなく、ただ静かに何かを噛みしめているように見えた。


「……天城くんって、変」

「そうか?」

「うん。もっとこう……」

「もっと?」

「財閥御曹司っぽい反応するかと思った」

「財閥御曹司っぽい反応とは何だ」

「“それは品位に欠ける趣味だね”とか?」

「僕はそんな人間に見えるのか」

「そこまでは思ってないけど、でも……偏見とか、あるかなって」


 玲司は少し考え、それから率直に答えた。


「驚きはした。だが、君が本気でやっているなら、それを笑う気にはならない」

「……」

「昨日も言ったが、絵は上手い。人気があるのも理解できる」

「……うわぁ」

「何だ」

「真正面から言われると、ほんとに無理」

「君は褒められ慣れていないのか」

「ネットだと平気なの! 顔見えないから!」

「なるほど」

「なるほどじゃないよ……」


 顔を伏せる白瀬の耳が、また赤い。


 玲司はそこで、昨日から抱いていた疑問を口にした。


「一つ聞いてもいいか」

「なに」

「昨日の絵のようなものを、君はずっと描いているのか」

「……その聞き方、ちょっとやだ」

「言葉の選び方を誤った」

「まあ、いいけど……うん、そうだよ。可愛くて、ちょっとどきどきする女の子を描くのが好き」

「なぜだ」

「えっ」

「そういうものを描く理由だ」


 白瀬は意外そうに玲司を見た。


 たぶん彼女は、そこを真面目に聞かれると思っていなかったのだろう。普通なら、際どいとか、恥ずかしくないのか、とか、そういう方向の質問が先に来るのかもしれない。


 だが玲司が知りたかったのは、もっと単純なことだった。


 どうして彼女は、それに心を動かされるのか。


 白瀬はしばらく悩むように視線を彷徨わせ、それから小さく息を吐いた。


「……可愛いから」

「可愛いから」

「うん。女の子が可愛いの好き。服とか髪型とか表情とか、全部」

「それはわかる」

「えっ」

「何だ」

「今さらっと“わかる”って言った?」

「君の絵を見れば、そこに可愛さへの執着があるのは伝わる」

「執着って言い方!」


 白瀬は抗議したものの、少し嬉しそうでもあった。


「でも、そうだよ。可愛いのが好き。あと、ちょっとどきっとするのも好き。ただ露出が多いとかじゃなくて……なんていうか、可愛さの延長にある色気、みたいなの」

「……」

「何その顔」

「いや、興味深いと思って」

「そんな真面目に聞かれると急に恥ずかしいんだけど……」


 彼女は両手でカップを包み込み、そこに頬がつきそうなほど俯いた。


「でも、誰かにちゃんとそういう話したこと、あんまりないかも」

「そうなのか」

「同じ趣味の人とはするけど、こういう真正面からじゃないし。学校の人には絶対言えないし」


 玲司はふと、自分が今かなり特別な話を聞いているのだと気づいた。


 秘密の正体だけではない。彼女が何に心を動かされて、何を大切にしているのか。その根っこの部分に触れている。


 そう思うと、不思議と胸の奥が静かに熱を持つ。


 そこへ、不意に白瀬が顔を上げた。


「……で、話を戻すけど」

「戻す?」

「秘密を知っちゃった以上、天城くんにはお願いがある」

「何だ」

「今後も学校では普通にしてて」

「それは構わない」

「あと、できれば変に気を遣わないで」

「難しい注文だな」

「え」

「秘密を知った相手に、今まで通り完璧に接しろと言われても」

「そこはほら、御曹司のスペックでなんとか」

「便利に使うな」

「使えるものは使うの!」


 玲司は少し笑った。


「努力しよう」

「うん……ありがとう」


 白瀬はようやく、少し安心したように肩を下ろした。


 その時、スマホの通知音が鳴る。彼女は画面を見た途端、表情を強張らせた。


「どうした」

「……やば」

「何が」

「印刷所から」

「印刷所?」

「いや、今のは気にしないで」

「気になるだろう」

「気にしないでって言ったのに……!」


 白瀬は慌ててスマホを伏せたが、その一連の動作があまりにも挙動不審で、逆に玲司の興味を引いてしまう。


「“印刷所”というのは、本を刷る場所か」

「そうだけど」

「何か問題があったのか」

「いや、問題っていうか、その……次のイベント用の本の入稿確認で」

「次のイベント?」

「うっ」


 また墓穴を掘ったらしい。


 玲司が黙っていると、白瀬は数秒葛藤してから、観念したように肩を落とした。


「……今度、イベントあるの」

「なるほど」

「で、その準備をしてる」

「かなり忙しいのか」

「かなり忙しい」

「では、昨日あの時間まで教室に残っていたのは」

「ラフ詰めてた」

「そうか」


 玲司は頷いた。


 すると白瀬は、なぜかじっとこちらを見る。


「……引かないの?」

「まだその確認をするのか」

「だって天城くん、普通に受け入れすぎなんだもん」

「君の中で僕はどれほど狭量なんだ」

「そういう意味じゃないってば。ただ……」


 彼女は言葉を探すように口を閉じ、それから小さく呟いた。


「ちょっと安心しただけ」


 玲司は何も言わなかった。


 代わりに、テーブルの上の伝票を取る。白瀬が慌てて手を伸ばした。


「待って、私も出す!」

「いや」

「いやじゃないよ。呼び出したの私だし」

「なら、次にしてくれ」

「次?」

「またこういう話をすることがあるなら」

「……ある前提なんだ」

「違うか」

「……違わない、かも」


 白瀬は小さく視線を逸らした。


 その仕草に、玲司は少しだけ心が和らぐのを感じた。昨日までただのクラスメイトだった彼女が、ほんの少しだけ近くなった気がしたのだ。


 秘密を共有したからかもしれない。


 あるいは、彼女の“好き”の輪郭を少し知ったからかもしれない。


 会計を済ませて店を出る頃には、外はすっかり夕暮れだった。駅前の光が灯り始め、人の流れも増えている。


 白瀬は鞄の持ち手を両手で握りながら、隣を歩く玲司にぽつりと言った。


「……今日のこと、ちょっと言えてよかった」

「それは何よりだ」

「でも、まだ全部は話してないから」

「全部?」

「うん。コミケとか、壁とか、サークルとか、そういうの」

「まだあるのか」

「いっぱいあるよ」

「異文化だな」

「でしょ」

「だが、少し興味はある」

「……え?」


 白瀬が足を止める。


 玲司も立ち止まり、彼女を見る。


「昨日の絵と、今日見せてもらったものを見て思っただけだ。君がそこまで本気になる世界が、どんなものなのか」

「それ、危ない発言だよ」

「危ない?」

「天城くんみたいな人がそうやって一歩踏み込むと、戻れない可能性あるから」

「大げさだな」

「大げさじゃないの。オタク文化は沼なの」


 真顔で言う白瀬に、玲司は少しだけ笑ってしまう。


「では、気をつけよう」

「絶対気をつけないやつの顔してる……」


 そう言って白瀬は小さくため息をついたが、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。


 駅の分かれ道で立ち止まる。


「じゃあ、また明日」

「ああ。また明日」

「学校では普通にね」

「努力する」

「ほんとにお願いだから!」


 念押ししてから、白瀬もえはくるりと背を向けた。


 少し早足で歩いていくその背中を見送りながら、玲司は胸の奥に小さな感覚を覚えていた。


 昨日はただ、秘密を知っただけだった。


 だが今日は、その秘密がどれほど大きなものなのかを知った。


 白瀬もえは、ただ絵が上手い地味な女子ではない。大勢の人間を惹きつける世界を持っている。そしてその世界を、誰にも雑に触れられたくないと本気で守っている。


 その在り方が、玲司には少し眩しかった。


 自分にはまだ、あそこまで本気で守りたい“好き”がない。


 だからこそ、惹かれるのかもしれない。


 玲司はふと、彼女が言った言葉を思い出す。


 ――オタク文化は沼なの。


「……なるほど」


 小さく呟いてから、玲司は歩き出した。


 少なくとも今の時点では、自分がその沼に足を踏み入れかけているなどとは、まだ思っていなかった。

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