第1話 完璧王子は、地味女子の“やばいラフ”を見てしまう
人は見たいものしか見ない。
――と、天城玲司は思っている。
たとえば、この学園における自分がそうだ。
私立星ヶ峰学園。都内有数の名門校。歴史も格式もあり、政財界に名を連ねる家の子息令嬢が珍しくもない。だが、その中にあってもなお、天城玲司という名前は少しだけ特別な響きを持っていた。
日本でも有数の巨大財閥、天城グループ。
その直系の人間。
それが玲司だ。
入学当初から、彼の周囲には勝手に色々な肩書きが貼りついた。
端正な顔立ち。よく通る声。姿勢の良さ。成績優秀。運動も平均以上。物腰柔らか。礼儀正しい。女子生徒には優しく、教師にも受けがいい。着崩した制服すら上品に見える。
結果、いつの間にか彼はこう呼ばれるようになった。
――完璧王子。
本人の意思とは無関係に。
「天城くん、おはようございます」
「おはよう」
「今日の小テスト、自信あります?」
「ほどほどかな。君は?」
「うっ……天城くんの“ほどほど”って絶対すごいやつですよね」
「そうでもないよ」
朝の教室。玲司は微笑みを返しながら席に着く。
周囲の視線を感じない日はない。けれど、それにいちいち疲れた顔を見せるほど子供でもない。微笑むべき場面では微笑む。気遣うべき場面では気遣う。失礼のない受け答えをする。家でも学校でも、それは半ば習慣になっていた。
ただ、習慣になっていることと、心地よいことは別だ。
「ねえねえ、天城くんってさ、週末とか何してるの?」
「読書をしたり、少し走ったりかな」
「えー、なんかもう答えまで王子様っぽい」
「そうかな」
「じゃあ趣味とかは? 意外とゲームしたりとか?」
「……まあ、少しは」
本当は、趣味と呼べるほど夢中になっているものはない。
読書はする。映画も観る。音楽も聴く。スポーツも嫌いではない。けれど、胸を張って「これが好きだ」と言えるほど、何かにのめり込んだことがなかった。
時間がなかったわけではない。金がなかったわけでもない。むしろ、たいていのものは人より手に入りやすい立場にいた。
それでも、なかった。
心を掴まれるほどの熱量が。
他人に笑われても守りたいと思えるほどの「好き」が。
だから玲司は、しばしば自分の人生を、よく整えられたショーウィンドウのようだと思う。綺麗に並んでいる。見栄えもいい。だが、ガラスの向こうにあるものは、自分の手では触れられない。
昼休み、放課後、帰宅前。
今日もまた、滞りなく一日が過ぎていく――はずだった。
◇
「……あ」
その日の放課後、玲司が教室へ戻ったのは、本当に些細な理由だった。
次の授業で提出するはずのプリントを机の中に置き忘れていたのである。すでに大半の生徒は部活や委員会、帰宅で教室を離れていた。廊下はまだ少し賑やかだったが、教室の中は夕方特有の静けさに包まれている。
西日が窓から差し込んで、机の端や椅子の脚を斜めに染めていた。
その静かな空間の中で、一人だけ残っている生徒がいた。
白瀬もえ。
クラスメイトだ。
長い黒髪をさらりと肩に落とし、前髪はやや重ため。普段は存在感が薄いというわけではないが、決して前に出るタイプではない。授業中も静かで、休み時間は数人の女子と小声で話すか、本を読んでいることが多い。美術の授業だけ少し目が生き生きして見える――その程度の印象だった。
少なくとも玲司にとっては。
彼女は自席で何かに夢中になっていた。ノートではない、スケッチブックのようなものを机に広げ、シャープペンを走らせている。手元しか見ていない。随分集中しているようで、玲司が教室に入ってきたことにも気づいていないようだった。
珍しいな、と玲司は思う。
静かな生徒が放課後に居残っていること自体はさほど珍しくない。だが、白瀬のあの集中の仕方は少し目を引いた。世界から切り離されているような、何かに没頭している人間の空気があった。
もっとも、他人の作業を覗き見る趣味は玲司にはない。
だから彼はそのまま自分の席へ向かい、机の中に手を入れた。
目的のプリントはすぐに見つかった。あっけないほど簡単に用は済んだ。なら、声もかけずに出て行けばいい。実際、そのつもりだった。
だが、その瞬間。
「っ、やば」
白瀬が小さく呟いた。
何かを思い出したように椅子を引き、慌てて立ち上がる。机の上のスケッチブックを閉じる暇もなく、そのまま教室の後方へ早足で向かった。美術室にでも忘れ物をしたのかもしれない。あるいは先生に用事があるのか。
とにかく、急いでいるようだった。
その拍子に、彼女の机の端から一冊の薄い冊子が滑り落ちた。
ぺらり、と紙が開いたまま床に落ちる。
玲司は反射的にしゃがみ込んだ。
「……」
拾って机の上に戻す。それだけのことだ。
ただ、それだけのことだったはずなのに。
落ちた拍子に開いたページが、どうしても目に入ってしまった。
そして、玲司は数秒、完全に動きを止めた。
「……これは」
そこに描かれていたのは、女の子だった。
制服姿の、たぶん高校生くらいの年頃に見えるオリジナルキャラクター。柔らかそうな髪。少し上目遣いの瞳。いたずらっぽいようで、でもどこか照れているような表情。ポーズや仕草は大胆なのに、全体の印象はいやらしさ一辺倒ではなく、妙に可愛らしい。
線が生きていた。
表情に熱があった。
何より、見る者の心を一瞬で掴む勢いがあった。
玲司は絵に詳しいわけではない。だが、それでもわかる。これは上手い。驚くほど上手い。ラフなのに魅力が立っている。ざっと描いた途中の線のはずなのに、完成形の気配が見える。
そして同時に、極めて言いづらいが――かなり攻めている。
健康的な可愛さと、どきりとさせる雰囲気が、ぎりぎりの線で同居していた。
玲司は思わず周囲を見回した。誰もいない。見てはいけないものを見てしまったような気分になる。
いや、実際に見てはいけないものだったのだろう。少なくとも持ち主にとっては。
ページを閉じて机に戻そうとした、その時。
「――っ!」
教室の後方の扉が勢いよく開いた。
戻ってきた白瀬もえが、その場で凍りついた。
玲司の手の中には、彼女のスケッチブック。
開かれたページには、さっきのラフ。
数秒の沈黙。
夕方の光がやけに眩しい。
白瀬の顔色が、みるみる変わっていく。最初は真っ白。次に赤。最後に、全部を通り越して青ざめた。
「み、み、み、み」
声が震えている。
玲司はできるだけ穏やかに言った。
「落ちたから拾った。勝手に見るつもりはなかったんだが」
「見た!?」
「……」
「見たんだ!?」
「……かなりしっかり」
「終わったぁぁぁぁ……!」
白瀬は頭を抱え、その場にしゃがみ込みそうな勢いでよろめいた。
玲司は思わずスケッチブックを閉じる。
「すまない」
「すみませんじゃないの! いや違う、謝られても困る! 私が落としたのが悪いんだけど! でも見られたのは無理、無理すぎる、ほんとに無理……!」
普段の彼女からは想像もつかない早口だった。
白瀬もえはクラスでは静かな女子だ。少なくとも玲司の前で、こんなふうに感情をむき出しにしたことは一度もない。だというのに、今の彼女は取り繕う余裕が完全に消し飛んでいる。
「落ち着いてくれ、白瀬」
「無理! むしろ天城くんがなんでそんな落ち着いてるの!?」
「こちらが取り乱す場面なのか?」
「取り乱して! 忘れて! 今すぐ記憶をなくして!」
夕陽を背にして、彼女は本気で半泣きだった。
玲司は少し困って、それから少しだけおかしくなった。
笑うつもりはなかった。けれど、口元がわずかに緩んでしまう。白瀬がその変化を見逃すはずもない。
「い、今、笑った!?」
「いや」
「笑ったよね!?」
「少し」
「最悪!」
ばん、と机を叩きそうな勢いで詰め寄ってくる。玲司は一歩だけ後ろへ下がった。勢いの強さに押されたというより、単純に距離感が近かったからだ。
白瀬はそこではたと気づいたように動きを止め、耳まで真っ赤になった。
「あ……いや、その、ごめん……」
「いや、こちらこそ」
「え、なんで天城くんが謝るの」
「君の反応が想像以上だったから」
「それはそうでしょ! あんなの見られたら普通に死ぬでしょ!」
あんなの。
彼女はそう言った。
つまり、やはりあの絵は彼女が描いたものなのだ。
玲司はあらためてスケッチブックを手渡した。白瀬はひったくるように受け取ると、ぎゅっと胸に抱え込む。まるで機密書類でも守るような仕草だった。
「誰にも言わないで」
「言うつもりはない」
「本当に?」
「本当に」
「絶対?」
「絶対だ」
「……“絶対”って言った?」
「言った」
「天城くんって、そういう約束、破らない?」
「破らないと思うが」
「思うがって何!? そこ断言して!」
「断言する。誰にも言わない」
玲司がそう言うと、白瀬はじっと彼の顔を見た。
疑っているというより、見極めているような眼差しだった。ふざけていないか。面白半分でからかっていないか。本当に秘密を守る気があるのか。そんなことを確認しているのだろう。
数秒後、彼女はようやく、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「……ほんとに?」
「ああ」
「……ほんとにほんと?」
「君は慎重だな」
「だって私の学校生活かかってるもん!」
その一言に、玲司は少し首を傾げた。
「学校生活、そこまでか?」
「そこまでだよ!」
また声が大きくなる。白瀬は慌てて口元を押さえ、教室の外をちらりと見た。誰かに聞かれたかもしれないと思ったのだろう。幸い、今のところ近くに人の気配はない。
だがその警戒ぶりは尋常ではなかった。
玲司は不思議に思う。
絵が上手いこと自体は、隠すようなことではない。むしろ誇れるものだ。多少きわどい雰囲気があるとしても、創作なら珍しくないだろう。少なくとも、ここまで取り乱す理由としては薄い気がする。
玲司がそう口にすると、白瀬は一瞬だけ固まった。
「……天城くん」
「何だ」
「今、“多少きわどい雰囲気”って言った?」
「言ったが」
「つまり、ちゃんと見たんじゃん!」
「さっきからそう言っている」
「うわああああ……!」
また頭を抱える。
玲司はさすがに少し反省した。言葉選びを誤ったらしい。
「すまない。だが、悪意はない」
「悪意がないのが一番困るんだよ……。変に真面目に受け止められると逃げ場ないし……」
「逃げ場?」
「だって、あれ、その……ただの落書きとかじゃなくて……ちゃんと、その……」
「ちゃんと?」
「……言いたくない」
白瀬はふいっと顔を逸らした。
その仕草が、教室で見かける普段の彼女とはまるで違って見えた。静かで控えめなクラスメイトというより、秘密の巣穴を暴かれてしまった小動物のようだ。怯えているのに、牙だけは見せてくる。
玲司はそこで、妙な感覚を覚えた。
今まで、白瀬もえという人物を、自分はほとんど見ていなかったのだと気づいたのだ。
同じ教室にいて、同じ授業を受けて、たぶん毎日顔を合わせていたのに。
この少女が、こんな顔で怒ることも。こんなふうに慌てることも。こんなにも熱を持った声を出すことも。まったく知らなかった。
見ていなかったのは、自分の方なのかもしれない。
「……一つ聞いていいか」
玲司がそう言うと、白瀬は露骨に身構えた。
「何」
「君が描いたのか、あれは」
「…………」
「嫌なら答えなくていい」
「……そうだよ」
「そうか」
「なにその反応」
「いや」
「下手だと思った?」
「逆だ」
「え」
「驚くほど上手いと思った」
その言葉は、玲司にとってただの事実だった。
けれど白瀬にとっては予想外だったらしい。彼女は目を丸くし、まばたきを二度繰り返した。怒りも羞恥も、ほんの少しだけ止まる。
「……ほんとに?」
「ああ」
「お世辞じゃなくて?」
「この場でお世辞を言う意味があるか?」
「それは……ないかもだけど……」
白瀬は視線を泳がせた。赤くなった耳を髪で隠そうとするように、片側の髪を指先でいじる。
「でも、あれ、まだ全然ラフだし……」
「完成していなくても、わかるものはある」
「……」
彼女は黙った。
沈黙が落ちる。
窓の外では運動部の掛け声が聞こえ、どこか遠くで吹奏楽部の音が混じった。日常の音が、妙に遠く感じられる。
しばらくして、白瀬は小さく息を吐いた。
「……誰にも言わないなら、それでいい」
「わかった」
「ほんとに、ほんとに誰にもだからね」
「何度も念押しするな」
「だって相手が天城くんなんだもん」
「それはどういう意味だ」
「悪い意味じゃないよ。ただ……天城くんって、誰からも信用されてるから。逆に言うと、天城くんがうっかり何か言ったら、すごい速さで広がりそうっていうか」
「なるほど。傷つくが、理解はできる」
「ご、ごめん」
玲司がそう返すと、白瀬は少しだけ申し訳なさそうにした。
だが、その瞬間の表情もまた新鮮だった。いつもの彼女なら、たぶんこんなふうにころころ顔を変えたりしない。いや、変えていたのだろうが、自分が気づいていなかっただけか。
玲司は気づけば、少しだけ興味を持っていた。
あの絵に、ではない。
いや、正確には、あの絵にもだ。
だがそれ以上に、その絵を描いた白瀬もえという人間に。
「ところで」
「な、なに」
「どうしてそんなに隠したいんだ」
「は?」
「絵が上手いことは悪いことではないだろう」
「……それ、本気で言ってる?」
「本気だが」
「天城くん、世の中には“本気で隠したい趣味”ってものがあるんだよ……」
彼女は遠い目をした。
「しかも私が描いてるの、普通の風景画とか静物画とかじゃないし」
「たしかに、そういう感じではなかった」
「そういう感じではなかった、じゃないの。かなり危ないラインだったでしょ」
「危ないライン、という自覚はあるのか」
「あるよ! あるから隠してるんだよ!」
今度こそ、玲司は少しだけ笑ってしまった。
白瀬は「だからなんで笑うの!」と抗議したが、さっきよりは切羽詰まっていなかった。少しだけ、空気が変わった気がした。
秘密を知られたことは最悪だ。
だが、その最悪の相手が、少なくとも今のところ自分を笑いものにはしていない。
その事実を、彼女も少しずつ理解し始めているのかもしれない。
「……もういい。とにかく帰る」
「そうか」
「天城くんも帰って。これ以上ここにいると心臓に悪い」
「了解した」
「ほんとに忘れてよ」
「それは難しいかもしれない」
「えっ」
「上手かったからな」
ぴたり、と白瀬の動きが止まった。
玲司は自分で言ってから、少しだけ言葉が真っすぐすぎたかと思った。だが撤回するほどでもない。感じたことをそのまま述べただけだ。
白瀬は何か言い返そうと口を開き、結局何も言えずに閉じた。頬がまた赤くなる。
「……ほんと、そういうとこずるい」
「何がだ」
「知らないならいい」
そう言って、彼女はスケッチブックを抱えたまま教室の扉へ向かう。途中で立ち止まり、振り返らないまま小さく言った。
「……ありがとう」
それが、絵を褒めたことに対してなのか、秘密を守ると約束したことに対してなのかはわからなかった。
だが玲司が返事をする前に、白瀬もえは廊下へ出て行ってしまった。
教室に残されたのは玲司一人。
西日の色はもうだいぶ薄くなっている。
彼は手にしたプリントのことも忘れたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。
白瀬もえ。
クラスの地味な女子。
静かで、目立たなくて、たぶん誰もが「おとなしい子」としか認識していない少女。
その内側に、あんな熱量が隠れていた。
あんなふうに、人の視線を惹きつける絵を描く世界があった。
玲司は、ふと胸の奥がざわつくのを感じた。
それは恋ではない。
まだ、たぶん。
けれど、長いこと動いていなかった何かが、ほんのわずかに揺れた感覚だけは確かにあった。
「……なるほど」
誰に言うでもなく呟く。
人は見たいものしか見ない。
だが時々、自分の意思とは無関係に、目を奪われるものがある。
放課後の空っぽの教室で、玲司は初めて、クラスメイトの一人に対して明確な興味を抱いていた。
地味で目立たないと思っていた少女は、実のところ、まるでそうではなかったのだ。
そして彼はまだ知らない。
自分が見てしまったその一冊が、ただの秘密の落書き帳などではなく、もっととんでもない世界へ繋がる扉だということを。




