第4章 第5話 見られているのは、たぶん学校だけじゃない
違和感は、最初はとても小さかった。
その日の朝、天城玲司が登校のために車を降りた時、校門の少し手前に停まっていた黒いワゴン車が、ほんの少しだけ記憶に引っかかったのだ。
学校前の道路に車が停まっていること自体は珍しくない。
送迎もあれば業者の搬入もある。
何より、星ヶ峰学園はそれなりに裕福な家庭の生徒も多い。黒塗りの車そのものが浮く環境でもない。
だが、そのワゴン車は妙に“仕事の車”だった。
窓はやや深めのスモーク。
車体は清潔だが飾り気がない。
そして運転席の男は、朝の学校前にしては不自然なほど周囲を見ていた。
「……」
玲司は車から降りる一瞬でそこまで見て、すぐに視線を切った。
気のせいかもしれない。
過敏になりすぎているのかもしれない。
だが、過敏であること自体は今の自分に必要だとも思う。
学校でも、家でも、もう“何も気にせずにいる”段階は過ぎているのだから。
◇
一限前の教室は、表面上はいつも通りだった。
眠そうな声。
昨日のテレビ番組の話。
小テストへのぼやき。
購買の新作パンは今日も人気らしい。
白瀬もえも、そこにいた。
今日の彼女は比較的落ち着いて見える。
朝の昇降口での不意打ちもなかったし、昨夜の「また夜に」という短いやり取りの余韻はあるものの、少なくとも外から見て露骨に変ではない。
玲司はそのことに、少しだけ安堵していた。
こちらが不安定なら、彼女まで揺れる。
彼女が揺れれば、周囲はすぐ違和感を拾う。
だからこそ、自分は平静でいなければならない。
「天城ー」
三枝悠人が前の席から半分振り返る。
「今日、放課後どうする?」
「なぜだ」
「いや、昨日のアクスタ売り場の続き」
「続き?」
「お前、昨日けっこう真面目に見てたから、ちょっと面白くなってきて」
「人を観察動物みたいに言うな」
「でも最近の天城、わりと珍獣枠だよ」
隣の男子が笑う。
「前はもっと完成された観賞用だった」
「それ褒めてるのか?」
「褒めてる褒めてる」
玲司は小さくため息をついた。
この調子なら、三枝を“自然な予定”の隠れ蓑として使うのはまだ有効かもしれない。
だが、同時に三枝の近くにいることで余計な情報が増える危険もある。
その見極めが、少しずつ難しくなってきていた。
◇
二限目の休み時間。
玲司は教室を出て、渡り廊下の窓から校門付近を何気なく見下ろした。
自分でも、かなり神経質になっているとは思う。
だが、念のためだ。
そして、その“念のため”は、外れなかった。
朝見た黒いワゴン車が、まだ停まっていた。
位置は少し変わっている。
だが同じ車だ。
「……」
さすがに長い。
送迎なら、とっくにいなくなっている時間だ。
搬入車なら荷下ろしが終われば消える。
それでもまだいるのなら、何か別の理由がある。
そこまで考えた時、玲司の後ろで足音がした。
「天城くん?」
振り返ると、白瀬もえが立っていた。
玲司は一瞬だけ迷った。
ここで何も言わずに流すか。
それとも、共有しておくべきか。
「どうしたの?」
白瀬がもう一度聞く。
「……少し」
玲司は視線で校門の方を示した。
「下を見てくれ」
白瀬が窓際へ寄って、校門方向を覗く。
「え?」
「黒いワゴン」
「……あれ?」
「朝からいた」
「まだいるの?」
「ああ」
白瀬の表情が、少しだけ強張る。
「学校の関係者?」
「わからない」
「天城家?」
「……その可能性はある」
白瀬が、息を止めた。
玲司はすぐに付け足す。
「確定ではない」
「でも、可能性あるんだ」
「ああ」
「……」
白瀬はしばらく黙った。
その沈黙の意味はわかる。
怖いのだろう。
自分の“普通”のすぐ外側に、得体の知れない視線がいるかもしれない。しかもそれが天城家に繋がるものなら、なおさらだ。
「白瀬」
「なに」
「今日は放課後、会わない方がいい」
「……うん」
「昨日までのルール以前に、今日に限っては動かない方がいい」
「わかった」
白瀬はすぐに頷いた。
それだけで、彼女も今の状況を十分危険だと感じていることがわかる。
「でも」
白瀬は小さく言う。
「学校の中まで見られてるのかな」
「どうだろうな」
「……やだ」
その一言が、妙に生々しかった。
玲司はほんの少しだけ、視線を柔らかくする。
「今の段階で決めつけるな」
「うん」
「ただ、警戒はしておく」
「……うん」
それ以上は話さなかった。
話しすぎるほど、この場所は安全ではない。
二人は何もなかったように踵を返し、別々の方向へ戻っていった。
◇
昼休み、白瀬もえはまるで味のしない弁当を食べていた。
視界の端には女子たちの笑顔があり、耳にはいつもの雑談が入ってくる。
だが頭の中では、ずっとあの黒いワゴン車が居座っていた。
天城家かもしれない。
かもしれないだけで、まだ断定はできない。
なのに、その“かもしれない”だけで、喉の奥が少し詰まる。
もし本当にそうなら。
今まで自分が守ってきた“学校の白瀬もえ”と、“mocoとしての自分”の境界線に、もう誰かが指をかけ始めていることになる。
それはかなり怖い。
怖いのに、教室の中では普通にしていなければならないのが、さらに怖かった。
「白瀬さん、大丈夫?」
友人の一人が首を傾げる。
「顔色ちょっと悪くない?」
「え、そうかな」
「うん。食欲ない?」
「いや、あるよ」
「でもあんまり進んでないじゃん」
「……考え事してただけ」
それは嘘ではない。
ただ、その“考え事”の中身が説明できないだけだ。
「最近ほんと忙しそうだね」
「まあ、ちょっと」
「無理しないでよー」
白瀬は曖昧に笑って頷いた。
その瞬間、教室の向こう側で天城玲司がこちらを見た。
ほんの一瞬。
だが、“持ちこたえろ”とでも言うような目だった。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
こんな状況でも、自分はまだ彼の視線に救われてしまうのだと、白瀬は少しだけ苦笑した。
◇
放課後になると、校内の空気はまたいつものように緩んだ。
だが今日の玲司は、少しも緩まなかった。
下校の前、あえて三枝たちと少しだけ雑談をしてから校門へ向かう。
白瀬もえとは視線も交わさない。
今日に限っては、それが最善だった。
校門を出たところで、やはり黒いワゴン車はまだいた。
ただし、朝より少し離れた位置に。
玲司は歩調を変えない。
そのまま駅とは逆方向へ少しだけ歩き、コンビニの角を曲がったところでスマホを取り出した。
黒峰へ連絡する。
『どうされました』
「学校前に車を置くなら、せめてもう少し自然にしろ」
玲司は低く言った。
一拍の沈黙。
『……何のことでしょう』
「黒峰」
『車の件について、こちらから明確に申し上げたことはありません』
「否定もしないんだな」
『玲司様の安全確認のため、周辺を把握すること自体は不自然ではないかと』
「学校の正門前に朝から夕方まで張りつくことがか?」
『張りつく、という表現は適切ではありません』
玲司は小さく息を吐いた。
つまり、そういうことだ。
黒峰は認めない。
だが、こちらが気づいていることも理解した上で、それでもやめる気はない。
「一つだけ言っておく」
『はい』
「学校の生徒に余計な違和感を与えるな」
『心得ております』
「なら、次はもっとまともにやれ」
『善処いたします』
通話はそこで切れた。
まったく腹立たしい。
だが同時に、これで一つだけ確定したことがある。
見られているのは、たぶん学校だけじゃない。
白瀬もえへ直接線が伸びている証拠はまだない。
だが、自分の行動線はかなり細かく追われている。
そして、その延長に彼女が入る危険は確実に増している。
◇
その夜、玲司は予定確認用紙へ今日の行動を書き込みながら、途中でペンを止めた。
放課後 友人と短時間会話。のち帰宅。
今日は事実通りだ。
白瀬とは会っていない。
家から見れば、何もない一日だろう。
なのに、ここまで神経を使っている。
それはつまり、もう普通に会うだけでは済まない段階へ来ているということだ。
スマホが震える。
白瀬からだった。
やっぱりあの車、そうだった?
玲司は、少しだけ迷った末に返す。
断定はできない
ただし、可能性は高い
今日は正解だった
会わなくて
……うん
白瀬からの返事は短かった。
だが、その短さの中に落ち込んだ気配があるのがわかる。
玲司は少しだけ考え、それからさらに送った。
ただし
こういう日があることと、終わることは違う
既読。
間。
それから来た返事。
わかってる
でも、ちょっとだけ怖かった
私もだ
天城くんも?
君が見られる形になるのが怖い
それを送ってから、玲司は少しだけ息を詰めた。
かなり本音だ。
だが、もう取り繕う気にもなれなかった。
白瀬からの返事は、少し遅れた。
……それはずるい
でも、ありがとう
私も、天城くんの方が見られるの、ちょっと嫌
玲司は、その一文を見て目を閉じる。
互いに同じことを思っている。
だから厄介で、だからこそ簡単には手放せない。
明日はもう少し自然な動き方を考える
と送る。
白瀬からは、すぐに返事が来た。
うん
防衛線、もっと丈夫にしよう
その言葉に、玲司は少しだけ口元を緩めた。
丈夫な防衛線。
奇妙な言い回しだ。
だが今の二人には、ひどくしっくりくる。
好きでいるために、守る。
守るために、近づき方を工夫する。
それは恋として健全なのかと問われれば、少し違うのかもしれない。
けれど、今はそれしかない。




