第4章 第3話 秘密を守るには、近づき方を変えなければならない
天城玲司は、嘘が好きではない。
必要な沈黙と、無意味な虚偽は違う。
そう教えられて育ったし、自分でもそう思っている。
だからこそ、その夜、自室の机に予定確認用紙を広げたまま、玲司はしばらくペンを持てずにいた。
放課後行動予定確認
そこへ書くべき内容は、すでに決まっている。
駅前にて友人と買い物。のち帰宅。
それは半分本当だ。
三枝悠人と駅前のアニメショップへ寄ったのは事実である。
だが、そのあと裏通りで白瀬もえと短い時間を過ごしたことは、当然書かれていない。
半分本当で、半分隠している。
その書き方が、玲司にはあまり気持ちのいいものではなかった。
「……好ましくないな」
小さく呟き、ペンを置く。
だが、好ましくないからといって、他にすぐれた手があるわけでもない。
すべてを正直に書けば終わる。
かといって、露骨な虚偽を積み重ねれば、それはいずれ綻ぶ。
つまり今必要なのは、“隠すための嘘”ではなく、“見られても破綻しにくい本当の行動”を増やすことだ。
玲司はそこで、ふと昨日の黒峰蒼一郎の言葉を思い出した。
雑な痕跡を残されない方がよろしい。
皮肉なことに、その忠告自体は正しい。
ならば、使うべきだ。
向こうの論理に従うためではない。
白瀬もえを守るために。
玲司は再びペンを取り、用紙へ整った字で書き込む。
駅前にて友人と買い物。短時間。帰宅予定十八時半。
その内容自体は、ほぼ事実だ。
ただ、“短時間”の中に何を含めるかは、こちらが決める。
書き終えてからも、玲司は用紙を見つめたままだった。
綺麗ではない。
だが、今はまだこの不格好さの中でやるしかない。
スマホが震えた。
白瀬からだった。
帰った
さっきの五分、短かったけどちょっと安心した
玲司は、それを見て少しだけ肩の力を抜く。
それならよかった
と返す。
すぐに既読がつく。
でも、こういうの続くと慣れそうでこわい
こわい?
うん
会えないのが嫌なのに、会えるだけで安心する感じ
それ、あんまり健全じゃない気がして
玲司は、その文章をゆっくり読んだ。
たしかに健全ではないのかもしれない。
五分会うだけで安心する。
短いメッセージだけで今日を乗り切る。
それは普通の恋の進み方ではない。
だが今は、それを“だめだ”と切り捨てることもできなかった。
今は仕方ない
ただし、これが全部になるのはよくないな
返すと、少し間があってから返事。
うん
だから、近づき方を変えなきゃいけないんだよね
たぶん
その言葉に、玲司は静かに頷いた。
近づき方を変える。
それが今夜、自分がぼんやり考えていたこととほとんど同じだったからだ。
◇
翌日、玲司は少し早めに教室へ入った。
まだ数人しか来ていない時間帯。
朝のざわめきが本格的に広がる前の、少しだけ空気の薄い時間だ。
その少し後に、白瀬もえも教室へ入ってきた。
目が合う。
ほんの一瞬。
だが今日は、昨日までとは少し違った。
白瀬は逃げるように逸らさない。
代わりに、わずかにだけ笑う。
それはたぶん、昨夜のやり取りの続きだった。
玲司も小さく頷く。
それだけで終わる。
それ以上は何もない。
だが、その何もないやり取りが、逆に自然だった。
「……」
玲司は少しだけ考える。
こういう形ならいいのかもしれない。
必要以上に避けない。
かといって、見せつけるようにも近づかない。
“今まで通り”に見える範囲の中へ、小さく気配を置く。
それはずるいやり方にも思える。
だが、少なくとも今の自分たちには必要な調整だ。
「天城」
三枝悠人が、朝からテンション高く机へ寄ってきた。
「昨日ありがとな」
「何の礼だ」
「いや、一人で行くより面白かったし。あとお前がアクスタ見て“可愛い”って言ったの、まだじわじわ来てる」
「忘れろ」
「無理」
三枝は笑う。
「今日も放課後どっか寄る?」
「いや」
「そっか。じゃまた今度な」
その会話を、白瀬が前方の席で聞いているのがわかる。
彼女は振り向かない。
だが、背中の空気でわかる。
少しだけ、安心したのだろう。
それもまた、妙に愛おしい。
◇
午前の授業は何事もなく過ぎた。
だが、何事もないことと、平穏であることは違う。
玲司の側には黒峰の視線がある。
白瀬の側には“最近ちょっと変では”という女子たちの勘がある。
そして二人の間には、“近づきたいのに近づけない”という熱がある。
その三つが同時に存在しているせいで、日常の表面だけがやけに整って見えるのだ。
昼休み、玲司は教室を出て、購買へ向かうふりをして廊下の端で立ち止まった。
そこへ数十秒遅れて、白瀬がやってくる。
偶然すれ違ったように見えるタイミング。
言葉を交わすなら、一往復だけで済む距離。
「今日、放課後どうする」
玲司が小さく言う。
「会わない方がいいと思う」
白瀬も、小さく返す。
「私もそう思う」
「なら、そうしよう」
「うん」
「夜、連絡は?」
「する。たぶん」
「たぶん?」
「我慢できたらしない。無理だったらする」
「正直だな」
「正直じゃないと、今は逆に危ないから」
白瀬はそう言って、少しだけ口元を緩めた。
「でも」
「うん」
「昨日の“近づき方を変える”ってやつ、考えてた」
「僕もだ」
「ほんと?」
「ああ」
その時、廊下の向こうから誰かの足音が近づいた。
二人はほぼ同時に、話を切る。
「じゃあ」
白瀬が少し大きめの声で言う。
「資料、あとで先生に出しておくね」
「頼む」
その会話を最後に、二人は別方向へ歩き出した。
すれ違いざまに、袖が少しだけ触れる。
ただそれだけで、妙に胸が熱くなる。
今の自分たちは、たぶんかなり末期だ、と玲司は思った。
◇
その日の放課後、玲司は本当にまっすぐ帰宅した。
予定表に書いた通り。
余計な寄り道もせず。
学校から家までの動線も、限りなく予想しやすい形に整えて。
それは間違いなく“正しい”行動だった。
だが、正しいことがこれほど味気ないのかと、少しだけ思った。
帰宅してすぐ、黒峰へ予定確認用紙を渡す。
黒峰は内容を一読してから、特に表情も変えず「承知しました」とだけ言った。
それが余計に不気味だ。
「何か」
玲司が問う。
「いえ」
黒峰は微笑む。
「本日は予定通りだったようで何よりです」
「“本日は”か」
「継続が大切ですので」
その返しに、玲司はほんの少しだけ目を細めた。
継続。
つまり向こうは、一日ごとの確認ではなく、傾向を見ている。
ならばやはり、こちらも短期ではなく長期で考えるしかない。
黒峰が去ったあと、玲司は自室へ戻り、上着を脱ぎ、机へ向かう。
時計を見る。
まだ、夜としては早い時間だ。
だが今日は、自分からは連絡しないと決めていた。
白瀬が言っていたように、“会えなくて不安だから、とりあえず連絡する”という癖がつくのは、お互いにたぶんよくない。
耐えられるなら、その方がいい。
「……」
玲司は本を開く。
だが、三ページ目で止まった。
読めていない。
頭の中は、別のことで埋まっている。
今、白瀬もえは何をしているのか。
ちゃんと帰れているか。
女子たちに何か言われていないか。
今日の“まっすぐ帰る”を、彼女も同じように味気なく感じているだろうか。
そこまで考えて、玲司は自分の中の感情を少し呆れたように見つめた。
これはたしかに、健全ではないのかもしれない。
だが、抑え込めるほど軽くもない。
スマホが震えた。
反射的に手が伸びる。
白瀬からだった。
我慢しようと思ったけど無理だった
その一文を見た瞬間、玲司は小さく笑ってしまった。
たぶん自分も同じ顔をしていたのだろう。
だからこそ、その一文が妙に愛おしい。
僕もだ
と返す。
すぐに既読。
だよね
なんか今日、ちゃんと離れてみたら逆につらかった
だが必要でもある
うん
わかってる
わかってるけど、つらいものはつらい
玲司は、その素直さに救われる。
言い訳をしない。
きれいにまとめすぎない。
ちゃんと“つらい”と言う。
白瀬もえは、そういうところが強い。
なら、ルールを作ろう
と送る。
少し間があって、返事。
ルール?
学校では自然に
放課後は必要以上に会わない
その代わり、夜は短くても必ず一度は連絡を入れる
どちらかが危ないと思ったら、その日は無理しない
どうだ
返事が来るまで、少しだけ長かった。
やがて、ぽつぽつと届く。
……それ
かなり恋人未満の防衛線って感じする
嫌か
嫌じゃない
むしろちょっと安心した
じゃあそれでいこう
うん
でも最後の一文だけ追加したい
何だ
白瀬からの返事。
会えた日は、ちゃんと喜ぶこと
玲司は、それを読んでしばらく無言になった。
単純で、少し子供っぽい。
けれど、それが今の二人には一番必要なのかもしれないと思った。
会えないことに耐えるためのルール。
そして会えたことを、きちんと嬉しいと認めるためのルール。
了解した
それは大事だな
そう返すと、すぐに白瀬からスタンプが飛んできた。
毛布にくるまって安心している白い動物のスタンプだった。
玲司は小さく笑う。
守るために、近づき方を変える。
それはきっと、簡単なことではない。
けれど少なくとも今夜、この不格好な防衛線は、二人の意志で引かれた。
ただ追い詰められて引く線ではない。
壊さないために、自分たちで決めた線だ。
それだけで、少しだけ前向きに思えた。




