第4章 第2話 守るための距離、壊れる寸前の平穏
天城玲司は、その日から“自然に見える不自然”を意識するようになった。
朝、家から渡された予定確認の書式。
放課後の動線。
誰と、どこで、どのくらいの時間を過ごすのか。
天城家が今ほしいのは、玲司の自由そのものを奪うことではない。
まずは、行動の輪郭を定義したいのだ。
定義できるものは管理できる。
管理できるものは切り離せる。
その理屈が見えてしまうからこそ、玲司は余計に冷静にならざるを得なかった。
学校へ向かう車内で、彼は頭の中に今日一日の“安全圏”を描いていた。
白瀬もえとは必要以上に接触しない。
廊下や校内での視線も最小限。
メモも控える。
放課後は直接会わない。
連絡が必要なら、夜に短く。
合理的だ。
かなり合理的なはずだ。
それでも、その計画を立てながら胸の奥がわずかに冷えるのを、玲司はどうにも無視できなかった。
◇
一方、白瀬もえもまた、似たような朝を迎えていた。
机の上に広げたノートの端には、授業のメモではなく、小さく箇条書きされた自分用の注意事項がある。
・目を合わせても固まらない
・朝の挨拶だけで赤くならない
・話しかけられても普通に
・放課後は会わない
・さみしくても顔に出さない
「最後が無理そう……」
思わず呟く。
制服のリボンを結びながら、もえは本気で小さくため息をついた。
昨日の夜、玲司とメッセージで“防衛線”について話した時は、まだ少しだけ前向きだった。
一緒に考える。
守るために距離を調整する。
その理屈自体はわかる。
だが、朝になってみると、その理屈が急に実感へ変わる。
今日から、少し離れるのだ。
必要だから。
守るためだから。
それは理解している。
理解しているのに、もうさみしい。
「重い……」
自分で自分に思ったが、今さら否定もできなかった。
◇
学校では、平穏は一応保たれていた。
少なくとも、外から見れば。
「おはよう」
昇降口近くですれ違いざま、玲司が言う。
「お、おはよう」
白瀬が返す。
それだけだ。
それだけのはずなのに、白瀬の心臓はちゃんと跳ねるし、玲司もまた、返ってきた声の温度を必要以上に覚えてしまう。
だが今日は、それ以上何も起きない。
教室に入ってからも、二人は互いを見すぎないようにしていた。
いや、正確には“見ていないふりをしている”のだが、その技術がまだ拙いせいで、逆に微妙に不自然になっている。
それに気づいたのは、やはり三枝悠人だった。
「なあ」
昼休み前、三枝が小声で玲司に寄ってくる。
「最近、お前と白瀬さん、逆に何もなさすぎて怪しくない?」
「何もないなら何もないだろう」
「それがさあ、“何もないようにしてる感”あるんだよな」
「考えすぎだ」
「かなあ」
三枝は納得していない顔だったが、それ以上は踏み込まなかった。
しかしその会話を、白瀬もまた聞いてしまっていた。
結果、昼休みに入ってから彼女の手元はさらに危うくなる。
パンの袋を開け損ねる。
ストローの向きを逆にする。
友人に「今日ほんとにどうしたの」と二度目を聞かれる。
最悪だ。
「白瀬さん、体調悪い?」
「ち、違うよ」
「でもなんか、上の空じゃない?」
「たぶん寝不足」
「あー、そういう日あるよね」
ある。
だが今の寝不足は、原稿ではなく恋愛と防衛線のせいだ。
そんなことは絶対に言えない。
もえは曖昧に笑って誤魔化したが、誤魔化しながら、ふと窓際へ目をやってしまう。
天城玲司は、男子たちと普通に話していた。
いつも通り。
崩れず、整っていて、学校の中では何も変わらないように見える。
その姿を見て、もえはほんの少しだけ胸がちくりとした。
わかっている。
彼が冷たくなったわけではない。
むしろ守るためにちゃんと抑えているのだと知っている。
でも、知っていることと、平気でいられることは別だ。
◇
放課後。
もえは自席でゆっくり教科書を鞄へ入れていた。
今日は会わない。
昨夜、自分でそう決めた。
玲司もきっと同じつもりだろう。
なのに、荷物をまとめる手が妙に遅い。
もしかしたら、何か一言くらい来るかもしれない、などという淡い期待が完全には消えていないせいだ。
そんな自分に嫌気がさしかけた時、スマホが震えた。
玲司からだ。
今日は会わない
その方がいい
だが、七時に少しだけ連絡する
短い。
驚くほど短い。
だが、その短さが逆に優しかった。
会わない。
その方がいい。
でも、完全には切らない。
「……ずるい」
もえは小さく呟く。
これでは、さみしさを綺麗に諦めることもできない。
けれど同時に、その一文だけで少しだけ呼吸が楽になる。
七時に少しだけ連絡する。
ただそれだけの約束が、今日の防衛線を耐える理由になるのだから、本当に重症だと思う。
「白瀬さん?」
友人が不思議そうに顔を覗く。
「え?」
「今ちょっと笑ってた」
「……うそ」
「うん。なんかいいことあった?」
もえは慌ててスマホを伏せる。
「な、なんでもないよ!」
「怪しい」
「怪しくない!」
「最近そればっかりだね」
「……否定できない」
それが本音すぎて、友人は逆に笑った。
◇
七時ちょうど、玲司から着信が来た。
メッセージではなく通話だった。
もえは一瞬だけ慌てたが、すぐに自室のドアを閉めてから出る。
「……もしもし」
『白瀬』
声が近い。
電話越しなのに、妙に近い。
「うん」
『今、大丈夫か』
「大丈夫。そっちは?」
『自室だ』
「そっか……」
少しだけ沈黙が落ちる。
その沈黙すら、今日は少し心地よかった。
学校でずっと我慢していた分、声を聞くだけで緊張がほどけていくのがわかる。
『今日は、すまなかった』
「え?」
『距離を取る必要があるとわかっていても、君の反応を見ると少し考える』
「……私、そんなにわかりやすかった?」
『かなり』
「うわあ……」
もえはベッドへ倒れ込んだ。
「でも、天城くんもだったよ」
『僕も?』
「うん。普通にしてるつもりなんだろうけど、ちょっと静かすぎた」
『そうか』
「そう。だからおあいこ」
『なら、少し安心した』
「何それ」
『君だけに負担をかけているのではないとわかったからだ』
その言い方が、もえには少しだけ困った。
こういう時、この人は自然に“優しさ”の方へ着地してくる。
だからずるい。
だから好きになる。
だから困る。
「……今日、家の方は?」
もえが小さく聞く。
『少し動いた』
「っ」
『だが、まだ名前は出ていない』
「ほんとに?」
『今のところは』
「……そっか」
安心と不安が、半分ずつ胸へ落ちる。
『だから今は、雑な接触を減らす』
玲司が続ける。
『その代わり、完全には切らない』
「うん」
『会えない日が続いても、君が一人で不安にならないようにはしたい』
「……」
もえは、しばらく答えられなかった。
それを言われると、もう本当にだめだ。
さみしかったことも、不安だったことも、全部見透かされた気がする。
「白瀬?」
「……だめ」
『何がだ』
「そういうこと言われると、今日ずっと我慢してた意味がなくなる」
『我慢していたのか』
「してたよ。かなり」
『……そうか』
「でも、今のでちょっと報われた」
『ならよかった』
まただ。
その“よかった”で、全部を受け止めたことにしてしまう。
もえは枕を抱き寄せて、少しだけ顔を埋めた。
「天城くん」
『何だ』
「これ、ちゃんと守れるかな」
『守る』
「いや、そういう精神論じゃなくて」
『精神論ではない』
玲司の声が、少し低くなる。
『守るために必要な手順を考える』
「……うん」
『だから、君は必要以上に自分を責めるな』
「でも」
『君が悪いわけではない』
「……」
『僕が自分の意志で近づいた』
「それ、何回も言うね」
『重要だからな』
「……うれしいけど」
『だろうな』
「そこ自信あるんだ」
『少しは』
もえは吹き出してしまった。
やっと少し、今日の張りつめたものがほどける。
「ねえ」
『うん』
「明日も、普通にする?」
『そうだな』
「……うん」
『だが、朝の挨拶はする』
「え」
『それくらいは必要だろう』
「……それだけで変になるんだけど」
『努力しろ』
「ひど」
『君も最近そればかりだ』
「だって実際そうなんだもん」
通話の向こうで、玲司が少し笑った気配がした。
たったそれだけで、もえの胸が温かくなる。
会っていない。
触れてもいない。
それでも、声だけでここまで変わるのだから、やはりかなりまずい。
『今日はもう休め』
玲司が言う。
「うん」
『明日は明日で考える』
「うん」
『そして、必要ならまた連絡する』
「……うれしい」
『知っている』
その返答に、もえはもう言い返せなかった。
ただ、小さく「おやすみ」と言う。
『おやすみ、白瀬』
「おやすみ、天城くん」
通話が切れたあと、もえはしばらくスマホを胸の上に乗せたまま天井を見ていた。
怖い。
でも、少しだけ前を向ける。
その感覚が、今の二人にとってのぎりぎりの平穏なのだろう。




