第4章 第1話 隠しごとに、家は厳しい――御曹司と壁サー少女の防衛線
電話口の黒峰蒼一郎の声は、いつも通り穏やかだった。
『お時間を取らせて申し訳ありません、玲司様』
「用件を」
『手短に申し上げます。明日以降、しばらく放課後のご予定を事前に共有いただけますか』
「……理由は」
『確認のためです』
確認。
それは最近、天城家の人間がよく使う言葉だった。
把握ではなく、監視とも言わず、ただ“確認”。曖昧にしているようでいて、実際には一番拒否しづらい表現だ。
玲司は川沿いの手すりへ視線を落としたまま、数秒だけ沈黙した。
『玲司様』
「拒否したらどうなる」
『その場合は、こちらで必要な範囲を把握する動きになります』
「つまり、勝手に調べると」
『すでに一部はそうしております』
隠す気すらない。
いや、違う。
隠していないのではなく、玲司に対しては隠す必要がないと判断しているのだ。この家はいつでもそうだ。必要なことはすでに進められていて、本人の意志確認はその後から来る。
『玲司様の立場を考えれば、当然の措置かと』
「僕の立場を理由に、僕の交友関係を細かく裁断するのも当然か」
『危険の芽を早めに摘むことが目的です』
「誰にとっての危険だ」
『天城家にとって、です』
その一言は、夕暮れの空気より冷たく感じられた。
玲司はゆっくり息を吐いた。
「明日、直接話す」
『承知しました』
電話はそれで切れた。
短い。
だが、十分に重い。
スマホを下ろすと、少し離れたところで待っていた白瀬もえが、不安そうな顔でこちらを見ていた。
まだ完全に暗くなっていない川沿いの道に、彼女の黒髪が少しだけ風で揺れている。
「……黒峰さん?」
「ああ」
「やっぱり、家の方?」
「そうだ」
玲司は、すぐにはそれ以上言わなかった。
どう説明するのが一番いいのか、少し迷ったからだ。
白瀬は数歩だけ近づいてきた。
だが、さっきまでの熱を含んだ距離ではない。今の玲司の顔を見て、“今は違う”と察したのだろう。
「何か、あった?」
「……放課後の行動を共有しろと言われた」
「え」
「拒否すれば、向こうで把握するそうだ」
「……それって」
白瀬の顔から血の気が引いた。
「かなり、まずい?」
「かなりだろうな」
玲司は否定しない。
下手に安心させる方が危険だ。
ここで曖昧にしても、あとで彼女を余計に傷つけるだけだとわかっていた。
「ごめん」
白瀬が、すぐに言った。
「やっぱり私のせいだ」
「違う」
「違わないよ。コミケ行って、売り子して、放課後も会って……。明らかにそのへんからだし」
「白瀬」
「だってそうでしょ」
白瀬は、声を強くした。
「天城くん一人だったら、こんなふうに家に見られることなかったじゃん」
その言葉は、痛いほどまっすぐだった。
玲司は一歩だけ彼女に近づいた。
白瀬は逃げなかった。ただ、強く自分の鞄の持ち手を握りしめている。
「たしかに、きっかけの一部ではあるかもしれない」
玲司は静かに言う。
「でも、それを“君のせい”にする気はない」
「……」
「僕が自分の意志で近づいた。自分の意志で、君の世界を見たいと思った」
「……でも」
「後悔もしていない」
白瀬は、その言葉を聞いて目を伏せた。
たぶん、安心したわけではない。
むしろ逆だろう。後悔していない、と言われれば、余計に彼女は自分の存在が玲司を危うくしているのではないかと考えてしまう。
だから玲司は、さらに続けた。
「ただし」
「……うん」
「このまま同じやり方で進むのは危ない」
「……」
「守り方を変える必要はある」
白瀬が、ゆっくり顔を上げる。
「守り方」
「ああ」
「……離れる、じゃなくて?」
「それは考えていない」
即答だった。
白瀬の目が、少しだけ揺れる。
「でも、危ないんだよ?」
「わかっている」
「学校でも、家でも」
「わかっている」
「それでも?」
玲司は頷いた。
「それでもだ」
「……なんで」
「離れたくないからだ」
言ってから、風が一瞬止まったように感じた。
かなり危ういことを言っている自覚はある。
だが、今は誤魔化したくなかった。
「……っ」
白瀬が、明らかに息を呑んだ。
「今の、ずるい」
「かもしれない」
「かもしれないじゃなくて、完全にそう」
「それでも本音だ」
白瀬は両手で顔を覆いたそうにして、結局できず、代わりに少しだけ唇を噛んだ。
「そういうこと、今さらっと言えるのほんと怖い」
「怖いか」
「うれしい方の怖い」
「それならよかった」
白瀬は一瞬、言い返そうとした。
けれど諦めたように息を吐いて、小さく笑う。
「……でも、離れたくないの、私も同じ」
その一言が、ゆっくり玲司の胸へ落ちた。
それだけで十分だった。
十分であるはずなのに、状況は何も軽くならない。
むしろ、その気持ちが互いに本物だとわかった分だけ、守る責任がはっきりした。
◇
その夜、玲司は自室の机でノートを広げていた。
前には、学校の時間割。
放課後の動線。
駅の位置。
そして、黒峰からの“共有しろ”という要求。
何を共有し、何を共有しないか。
どこまでなら“自然な行動”として通るのか。
どこからが“特定の相手との継続的接触”として見抜かれるのか。
玲司は、これまでになく真面目にその線引きを考えていた。
感情の問題ではない。
戦略の問題だ。
「……面倒だな」
呟きつつ、ペンを走らせる。
たとえば、放課後に会う頻度を減らす。
代わりにメッセージのやりとりで補う。
もし会うなら、学校や最寄りから少し離れた場所。
かれんのような第三者の緩衝材を挟める時は活用する。
黒峰へは適度に別件の予定も混ぜる。
“何もないように見せる”のではなく、“ありふれた学生生活の一部に見せる”。
そこまで考えたところで、スマホが震えた。
白瀬からだ。
さっきはありがと
あと、やっぱり少しこわい
玲司は、すぐに返した。
怖がるのは当然だ
だから考える
既読がつく。
天城くんって、そういう時ほんと考え込むよね
うん
守りたいものがあるなら、雑にはしたくない
返したあと、自分で少しだけその言葉を反芻する。
守りたいもの。
以前の自分なら、そこまで明確に何かをそう呼べただろうか。
たぶん、なかった。
白瀬もえ。
彼女の普通。
彼女の秘密の世界。
彼女が描く時の顔。
笑う時の顔。
そこへ踏み込んでしまった以上、もう無責任ではいられない。
しばらくして、白瀬からまたメッセージが来る。
私も考える
ただ守られるだけはいやだから
玲司は、その一文を見て少しだけ目を細めた。
やはり彼女はそういう人間だ。
弱る時は弱る。
怖がる時は怖がる。
だが、ただ庇われるだけの立場に収まる気はない。
そこが好きだと思う。
だからこそ、厄介なのだとも思う。
わかっている
一緒に考えよう
そう返すと、すぐに返事が来た。
うん
でも今日はもう頭使いたくない
脳がオーバーヒートしてる
なら休め
そうする
あと最後に一個だけ
何だ
少し間が空いて、次の文。
天城くんが“離れたくない”って言ったの
かなり効いてるから明日変でも笑わないで
玲司は、その一文を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
たぶん、変になるのは彼女だけではない。
今日のあのやり取りを経て、明日平気な顔をしている自信は、玲司の方にもあまりなかった。
努力する
と返す。
すぐに来る。
それ最近便利に使いすぎ
事実だからな
出た
そこまで読んで、玲司はようやく少しだけ肩の力を抜いた。
黒峰の電話。
家の監視。
危険の輪郭。
それらは消えていない。
だが少なくとも今、白瀬もえはまだこちら側にいる。
怖がりながらも、一緒に考えると言ってくれている。
なら、まだ戦える。
◇
翌日、屋敷の朝食の席で、玲司は父の秘書室から送られてきた予定確認の書式を見せられた。
放課後の予定、同行者の有無、帰宅時刻。
露骨ではない。
だが、露骨すぎるほどの管理だった。
玲司はそれを受け取りながら、内心で静かに決める。
ここから先は、本当に防衛線だ。
白瀬もえの世界へ近づいたことを、もうなかったことにはできない。
ならば、壊さないためのやり方を身につけるしかない。
ただ好きでいるだけでは足りない。
そのことを、天城家は容赦なく教えてくる。
けれど、だからといって諦める理由にはならなかった。




