第3章 第7話 白瀬の家で、完売御礼イラスト作業
白瀬もえからの連絡は、その翌日の夕方に来た。
完売御礼イラスト描くんだけど
ちょっとだけ見てほしい
修羅場じゃないから安心して
最後の一文に、天城玲司は少しだけ笑った。
修羅場じゃないから安心して。
つまり以前のような惨状ではないが、それでも来てほしい、という意味なのだろう。そこに含まれている遠慮と甘えの配分が、最近の白瀬もえらしくて、玲司には妙に愛おしかった。
もちろん、行かない理由はなかった。
ただし今回は、前より慎重に動いた。
学校からの帰路は一度完全に別れ、時間も少しずらす。駅前で合流するのではなく、白瀬の最寄りに近いコンビニ前で短くメッセージを交わし、周囲を確認してから向かう。
黒峰蒼一郎の言葉は、やはり無視できなかった。
雑な痕跡を残すな。
その助言を、少なくとも今は軽視する気になれない。
それでも、彼女に会うのをやめる気にはまったくならなかった。
◇
白瀬の部屋へ入ると、以前の“修羅場空間”とは明らかに空気が違っていた。
「おじゃまする」
「どうぞ……っていうか、前よりはましだから」
白瀬が少しだけ胸を張る。
たしかに、かなりましだった。
床に紙が雪崩れていることもなければ、机の上が完全な戦場になっているわけでもない。資料は積まれているが分類されているし、ペットボトルも飲みかけのまま三本並んでいたりはしない。ベッドの上も、少なくとも“人が座れる”程度には整っている。
「改善は認める」
「えらそう」
「事実確認だ」
「最近ほんとそれ好きだよね」
「便利だからな」
「私には心臓に悪いこと多いけど」
白瀬はそう言いながらも、どこか機嫌がよさそうだった。
今日は学校の制服のままだが、カーディガンを脱いでシャツの袖を軽くまくっている。髪もいつもより少しだけ後ろでまとめていて、作業しやすさを優先した格好だ。修羅場の時のような鬼気迫る感じはない。だが、創作モードに入る前の静かな熱はちゃんとある。
「それで」
玲司が机の方を見る。
「完売御礼イラスト、か」
「うん」
白瀬は椅子に座り、液晶タブレットを起動した。
「SNSに上げる用のやつ。完売しました、ありがとうございます、っていう報告だけ文字で出すのも味気ないから」
「なるほど」
「それに、ちゃんと絵で返したいの」
「君らしいな」
「……そういうの、普通に言うのずるい」
「褒めたつもりだ」
「わかってるから困るの」
白瀬は耳を少し赤くしながらも、すぐに画面へ向き直った。
「で、今日はこれ」
表示されたのは、ラフが二案だった。
一枚は、少し照れたように笑う女の子が、小さな花束を抱えている構図。
もう一枚は、両手でハートを作りながら、やや無防備にこちらを見ている構図。
どちらも白瀬らしい。
可愛いが先に来て、そのあと少しだけどきっとする。
まさに彼女が言う“可愛いと色気の境目”にいるような絵だ。
「どっちの表情が好き?」
白瀬が何気ない調子で聞いた。
だが玲司は、その問いが彼女にとってかなり大事なものだと、もう知っている。
だから、きちんと見る。
線の流れ。
目線の高さ。
笑い方。
肩の抜け具合。
感謝を伝える絵として、どちらがより“らしい”か。
「……左だな」
玲司は答える。
「え」
「花束の方」
「理由は?」
「右は可愛い。かなり強い」
「うん」
「だが、少しだけ“見せに行っている”印象が強い」
「……」
「左は、ちゃんと感謝が先に来る。その上で、白瀬らしい照れがある」
「っ……」
白瀬の手が止まる。
「あと」
玲司は画面を見たまま続ける。
「完売御礼なら、“届いてうれしい”より“受け取ってくれてうれしい”の方が近いだろう」
「……」
「だから、左の方が今回の主題に合っている気がする」
しばらく沈黙が落ちた。
玲司は少し言いすぎたかと思い、視線を上げる。
白瀬は、タブレットペンを持ったまま固まっていた。
「……なんで」
「何がだ」
「なんでそんなに、私が言われたいこと言えるの」
「言われたいこと?」
「そうだよ……。今の、まさにそれで悩んでたのに」
「ならよかった」
「よくない」
「なぜだ」
「よすぎて困るの!」
白瀬は机に突っ伏しかけて、寸前で踏みとどまった。
「もうやだ……」
「そこまでか」
「そこまでだよ……。天城くん、最近ほんと感想がガチなんだもん」
「君が真面目に描いているから、こちらも真面目に答えている」
「その理屈は正しいのに、破壊力があるから困る」
玲司は少しだけ笑った。
すると白瀬は、拗ねたように唇を尖らせながらも、結局ラフの左側を拡大した。
「……じゃあ、こっちで詰める」
「そうしろ」
「うん」
そこから先の作業時間は、以前の修羅場とは全く違う空気だった。
白瀬はラフを整えながら、時々玲司へ聞く。
「この手、開きすぎ?」
「少し」
「目線、もうちょい右?」
「いや、今のままの方がやわらかい」
「花束の角度は?」
「少しだけ上向きがいい」
まるで、会話のキャッチボールみたいだった。
玲司は絵が描けるわけではない。
技術的なことは何もできない。
だが、彼女の絵が何を伝えようとしているかを考え、それに対して感じたことを返すことはできる。
それが役に立っているのだと、今日の白瀬の様子を見るとわかった。
「……天城くん」
「何だ」
「前より絶対こっち側にいるよね」
「否定しきれない」
「“否定しきれない”で済ませるの、もうかなり重症なんだけど」
「そうなのか」
「そうだよ。前なら“よくわからない”で終わってたでしょ」
「たしかに」
玲司は素直に認める。
白瀬は、そんな彼を見て少しだけ笑う。
「でも、嫌じゃない」
「それは何よりだ」
「うん……。むしろ、ちょっとうれしい」
「そうか」
「だって、自分の好きなものを理解してくれる人が増えるのって、単純にうれしいし」
「……」
「しかも、その人が天城くんだと、なんか余計に」
そこで白瀬は、自分が言いすぎそうになったことに気づいたらしい。
慌ててペン先を画面へ戻し、咳払いをひとつした。
「と、とにかく! 今日は穏やかな創作の日です!」
「修羅場ではないな」
「そう。だから今日は平和に進みたい」
「了解した」
「あと、変にドキッとすること言わないで」
「難しい注文だ」
「そういう返しも含めて!」
玲司は口元を少し緩めた。
穏やかな創作の日。
たしかに、その通りだった。
いつものように彼女の情熱はある。
だが、それが切迫や焦燥ではなく、静かな集中へ変わっている。
その空気の中にいるのは、かなり心地よかった。
◇
一時間ほど経った頃には、イラストはかなり形になっていた。
白瀬の描く女の子は、花束を抱えて、少し照れたように笑っている。
あざとさはある。
だが、それ以上に“ありがとう”が先にある。
「……よし」
白瀬がペンを置く。
「だいぶ見えてきた」
「ああ」
「やっぱり左でよかった」
「そうだろう」
「そこ、勝ち誇らないで」
「勝ち誇ってはいない」
「ちょっとしてる」
白瀬はそう言ってから、椅子の背にもたれた。
「疲れた?」
玲司が聞く。
「ううん。今日はいい疲れ方」
「そうか」
「修羅場と違って、“ちゃんと描けてる”感じあるから」
その言い方が、少し好きだと玲司は思った。
ちゃんと描けている。
そう言える時の白瀬もえは、少しだけ誇らしそうで、少しだけ子供っぽい。
学校でも、コミケでも、修羅場中でも見なかった顔だ。
「……何」
見られていることに気づいたのか、白瀬が視線だけ寄越す。
「いや」
「また何か考えてる顔」
「君が描いている時の顔が好きだと思った」
「……え」
白瀬が、ぴたりと止まる。
空気が変わる。
玲司自身も、口に出してから気づいた。
今のはかなり、そのままだ。
“絵が好き”とか、“作品が好き”とか、そういう安全な言い方ではない。
君が描いている時の顔が好き。
それは、かなり危うい。
「……」
「……」
「い、今の」
白瀬が先に声を出す。
「ああ」
「かなりだめなやつでは?」
「かもしれない」
「かも、じゃなくて!」
「だが、本音だ」
白瀬は両手で顔を覆った。
「……ほんと、そういうの急に来る」
「すまない」
「謝らないで。余計に無理になるから」
「そうか」
「そうなの……」
しばらく沈黙。
だがその沈黙は、嫌ではない。
苦しいくらいに熱を持っているのに、どこか心地よい。
白瀬がゆっくり顔を上げる。
「……私も」
「何だ」
「天城くんが、そうやって真面目に見てくれるの、好き」
「……」
「だから、だめ」
「何がだ」
「今以上進むと、いろいろ壊れる気がするから」
その言葉は、拒絶ではなかった。
むしろ逆だ。
進みたい気持ちがあるからこそ、自分で止めている声音だった。
玲司は、それがわかったからこそ、これ以上は踏み込まなかった。
「わかった」
静かに言う。
「今日は、ここまでにしておこう」
「……うん」
「絵はかなりいい」
「ありがと」
「本当に」
「それ、今は絵のことだよね?」
「たぶん」
「たぶんって何!」
白瀬は顔を真っ赤にしたまま、クッションを抱き寄せた。
だが、少しだけ笑っている。
あと一歩だった。
白瀬もえも、玲司も、それをわかっている。
あと一歩進めば、たぶん“好き”という言葉はもっと明確な形を持つ。
けれど今は、まだその時ではない。
その距離感を、今日は二人とも守った。
◇
帰る前、白瀬は完成途中の完売御礼イラストをもう一度見つめて、小さく言った。
「……天城くんがいると、描いてる時ちょっと楽しい」
「それは、かなりうれしいな」
「でも、危ない」
「またそれか」
「またそれ」
白瀬は笑ってから、玲司を見る。
「だから、次も来てって簡単には言えない」
「だろうな」
「でも、来ないでとも言いにくい」
「なるほど」
「でしょ」
「なら、必要な時に呼べばいい」
「……ずるい」
「よく言われる」
「ほんとにもう……」
白瀬はそう言いながらも、最後には少しだけ嬉しそうに頷いた。
その頷きだけで、玲司には十分だった。




