第3章 第4話 白瀬もえ、玲司を意識しすぎて普通に話せない
恋をすると、世界が変わる――などという言い回しは、少し大げさだと白瀬もえは思っていた。
世界はそんなに簡単には変わらない。
朝は来るし、授業は始まるし、提出物は出さなければならないし、昼休みになれば購買のパンは早い者勝ちだ。好きな人ができたからといって、世界そのものの構造が書き換わるわけではない。
ただし。
自分の動きが全部おかしくなるという意味では、たしかに世界が変わったようなものかもしれない――と、白瀬もえはその日の一限目が始まる前に本気で思い知っていた。
「……」
教室の後ろのロッカーから教科書を取って、自分の席へ戻ろうとする。
それだけだ。
ただそれだけの動作が、今日は妙に難しい。
なぜなら視界の端に、天城玲司がいるからである。
彼は窓際の列で、いつものように女子生徒から挨拶され、いつものように落ち着いた声で返していた。姿勢はまっすぐで、表情も穏やかで、見るからに“いつも通りの天城くん”だ。
問題は、もえの方が全然いつも通りではないということだった。
昨日の駅前。
かれんの爆弾。
――その顔、かなり恋してる顔してるよ。
あの一言が、まだ頭の中で反響している。
しかも、それを否定しきれなかった自分まで思い出してしまうから最悪だ。
「……っ」
天城が少し顔を上げた。
目が合いそうになる。
もえはとっさに進行方向を変えようとして、ロッカーの角へ鞄をぶつけた。
ごつん。
「いた……!」
小さく悲鳴を上げる。
その音に、近くの女子二人が振り向いた。
「白瀬さん、大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ……!」
「え、痛そう」
「ほんとに平気! ちょっと、ちょっとだけ!」
平気なわけがない。
物理的にも少し痛いが、それより何より、天城玲司に見られた可能性の方が痛い。
恐る恐る視線を上げると、やはり玲司がこちらを見ていた。
しかも、少しだけ気遣うような顔で。
やめて。
そんな顔をしないで。
今その優しさは心臓に悪い。
もえは逃げるように自席へ戻り、教科書を机へ置き、何事もなかった顔を作ろうとする。だが手元が少し震えて、ノートの端を机から落とした。
「……」
拾おうと屈んだところで、別方向から伸びてきた手が同じノートを拾った。
「落ちたぞ」
「ひゃっ」
今度こそ、かなり本気で跳ねた。
天城玲司だった。
白瀬もえは、机の横で固まる。
「……そんなに驚くか」
玲司が少しだけ首を傾げる。
「お、お、おはよう……」
「おはよう」
「いやもう、さっきも心の中ではしたんだけど……」
「声に出ていなければ挨拶ではないな」
「正論……!」
もえはノートを受け取る時、自分の指が玲司の手に少し触れた気がして、また心臓が変な跳ね方をした。
近い。
朝から近い。
だめだ。今日はだめだ。
「ありがと」
なんとか絞り出す。
「ああ」
玲司はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていった。
その“何も言わない”優しさが、逆に今のもえには効きすぎる。
「……むり」
小さく呟くと、前の席の女子がまた振り返った。
「白瀬さん、今日ほんとどうしたの?」
「な、なんでもないよ!」
「朝からちょっと挙動不審じゃない?」
「き、気のせい」
「そうかなあ」
そうかなあ、ではない。
たぶん、そうだ。
白瀬もえは心の中で、机へ突っ伏したい気持ちを必死に堪えた。
◇
二限と三限の間で、状況はさらに悪化した。
なぜなら、白瀬もえは“天城玲司を意識しないようにする”という難題に対し、あまりにも露骨な方法で対処しようとしてしまったからだ。
見ない。
話さない。
近づかない。
視界に入っても無反応。
理屈としては完璧だ。
だが、恋を自覚したばかりの女子高生に、その完璧な実行が可能なはずもない。
実際には、
見ないようにしようとして逆に意識する。
話しかけられていないのに勝手に緊張する。
近くにいるだけで呼吸が浅くなる。
そして、妙に“不自然に避けている感”だけが出る。
結果。
「白瀬さん、天城くんと何かあった?」
昼休み前、女子友達の一人に真正面から聞かれた。
「えっ」
もえは本気で固まる。
「な、なんで」
「いや、なんか最近ちょっと変じゃない?」
「変?」
「うん。前は別に普通だったのに、最近ちょっと距離感おかしくない?」
鋭い。
女子の観察眼、鋭すぎる。
「そ、そうかな……」
「そうだよね?」
もう一人の女子も乗ってくる。
「朝もノート落とした時、やたら反応大きかったし」
「ち、違うの! あれはたまたま」
「へえ」
「たまたま?」
「たまたまだよ!」
声が少し大きくなる。
しまった、と思った時には遅い。
二人の女子は顔を見合わせて、にやっとした。
「怪しい」
「怪しくない!」
「でも白瀬さんって、そういうの顔に出やすいタイプではなかったよね?」
「……っ」
その一言は、かなり効いた。
自分でもそう思っていたからだ。
白瀬もえは、学校では比較的うまく“普通”をやれている方だと思っていた。
少なくとも、天城玲司を好きかもしれない、などという感情が、ここまで外へ漏れ出すとは思っていなかった。
「なに、もしかして天城くんと進展あった?」
「ない!」
即答した。
あまりにも即答すぎて、逆に怪しい。
「即答だ」
「怪しい」
「ち、違うってば……」
「へえー」
「でもまあ、天城くん相手ならわからなくもない」
「顔いいもんね」
「あと優しいし」
「しかも王子」
「やめて」
もえは本気で言った。
「今その流れはやめて」
「え、なんで」
「……なんでもない」
なんでもないわけがない。
それ以上続けられたら、本当にどういう顔をしていいかわからなくなる。
幸いそこで予鈴が鳴り、話題は一度切れた。
だが白瀬もえの心臓は、しばらく落ち着かなかった。
◇
一方その頃、天城玲司もまた、もえの異変にはっきり気づいていた。
朝から目が合わない。
合いそうになると逃げる。
ノートを落とす。
明らかに動きがぎこちない。
そして昼休み、女子グループに何か言われて、わかりやすく困っている。
「……」
三枝悠人がそんな玲司を見て、じっとりした目を向けた。
「天城、お前」
「何だ」
「最近、白瀬さんのこと見る頻度ちょっと増えてない?」
「そうか?」
「そうだよ」
「観察力が無駄に鋭いな」
「褒めてないけど?」
玲司は少しだけ口元を緩める。
「何かあったのか?」
三枝が身を乗り出す。
「ない」
「ほんとに?」
「少なくとも、お前に話すべきことはない」
「うわ、その言い方なんか逆にある感じする」
「気のせいだ」
「最近そうやって誤魔化すけどさー、前よりちょっと楽しそうなんだよな、お前」
「……」
「それがまた怪しい」
玲司は否定しなかった。
否定しようとしても、たぶん今日は説得力がなかったからだ。
白瀬もえが、自分を意識して挙動不審になっている。
その事実に気づいてしまってから、玲司の胸の奥にも妙な熱が居座っている。
追い詰めたいわけではない。
困らせたいわけでもない。
だが、明らかに“自分のせいで”あんなふうになっているのだと思うと、少しだけ嬉しいと思ってしまう自分がいた。
それはかなり、質が悪い。
だから玲司は無理に話しかけたりはしなかった。
むしろ、今日に関しては少し引くべきだろうと思っていた。
白瀬もえが落ち着く余地を作るためにも。
だが同時に、放っておいて本当に大丈夫なのか、という気持ちもある。
朝からずっと、彼女は明らかに限界に近い。
◇
放課後。
教室の人数が減り始めた頃、玲司は自席でゆっくり荷物をまとめていた。
今日は、こちらから声をかけるつもりはない。
白瀬の方が必要とするなら話すし、そうでなければそのまま帰る。そう決めていた。
すると、教室の入り口に近い位置で一度止まりかけた白瀬が、数秒迷ってから、こちらへ歩いてきた。
「……天城くん」
「白瀬」
「少しだけ、いい?」
「ああ」
二人は教室を出る。
だが今日は、人の少ない校舎裏でも、渡り廊下でもなく、図書準備室の前の小さな踊り場まで移動した。ここなら放課後の時間帯でも比較的人が来ない。
白瀬はそこで立ち止まり、まず深呼吸した。
「……最近、ちょっと変かも」
「自覚はあるのか」
「あるよ……」
「ならまだ大丈夫だ」
「大丈夫じゃないよ。朝からずっと心臓おかしいし、女子にも勘づかれかけたし、自分でも何してるかわかんないし」
「そうか」
「そうなの」
白瀬は本気で困っていた。
だが、その困り方が少しだけ可愛らしく見えてしまうのが、玲司にとってはいよいよまずかった。
「原因はわかっているのか」
「……だいたいは」
「なら言ってみろ」
「なんでそんな口頭試験みたいにするの……」
「整理のためだ」
「うー……」
白瀬は少し黙ってから、小さく言う。
「たぶん……コミケのあとから、天城くんを前よりちゃんと意識しちゃってる」
「……」
「しかも、かれんに変なこと言われたせいで余計に」
「かなり恋してる顔、だったか」
「やめて! そこそのまま復唱しないで!」
白瀬は真っ赤になって、両手で顔を覆った。
「だって、言われたあとから何見ても“そう見えてるのかな”って思っちゃうし……。天城くんが普通にしてても、こっちが勝手に変になるし……」
その声は、思っていたよりも素直だった。
玲司は少しだけ息を整えてから、静かに言う。
「僕も同じだ」
「……え」
白瀬の指の隙間から、目が覗く。
「同じ、って」
「君を前より強く意識している」
「……」
「学校での距離感も、放課後の会話も、前とは違うものとして見てしまう」
「……」
「だから、たぶん君だけがおかしいわけではない」
空気が止まった。
本当に、きれいに止まった。
白瀬は完全に固まっている。
玲司自身も、かなりぎりぎりの線を口にした自覚はあった。だが嘘ではないし、ここで曖昧に濁すのも違う気がした。
「天城くん」
白瀬が、かすれた声で言う。
「何だ」
「それ、かなり危ない言い方だよ」
「わかっている」
「わかってて言った?」
「ああ」
「……ずるい」
「それはよく言われる」
「今の“ずるい”はいつものとちょっと違うからね……」
白瀬の頬は、耳まで完全に赤かった。
だが、そこでさらに一歩踏み込む前に、足音がした。
「……あれ?」
聞き覚えのある男子の声。
二人が同時に振り向くと、そこにいたのは三枝悠人だった。
「うわ」
三枝が目を見開く。
「何そのタイミング」
「それはこっちの台詞だ」
玲司が言う。
「いや、図書委員の資料取りに来ただけなんだけど」
「そ、そうなんだ」
白瀬が明らかに不自然な声を出す。
三枝は二人を見比べ、にやりとも真顔ともつかない顔になった。
「へえ」
「何だ」
「いや、なんでも?」
「今の“なんでも”は絶対なんでもではないな」
「そうかも」
最悪だ。
白瀬もえは心の中でそう思った。
タイミングが悪すぎる。
そして三枝悠人は、こういう“悪いタイミングの現場”を無駄に鮮明に記憶するタイプだ。
「じゃ、俺は資料だけ取るから」
「そうか」
「二人はごゆっくり」
「違う!」
白瀬が反射で叫ぶ。
「そういうのじゃないから!」
「え、どれ?」
「どれって……」
「白瀬さん、自分から追い打ちかけてない?」
「っ……!」
白瀬は完全に沈黙した。
三枝は軽く肩をすくめて、そのまま準備室へ消えていった。
数十秒後、資料を抱えて出てくると、今度は本当に何も言わずに去る。だがその背中が、“何か持ち帰った”空気を濃厚にまとっているのがわかる。
「……終わったかも」
白瀬が小さく呟く。
「そこまでは行っていない」
「でも今のはかなりだめ」
「かなり、ではある」
「天城くんも認めるんだ……」
白瀬はもう、壁にもたれかかりそうな勢いだった。
玲司は少しだけ考える。
今この場でできることは少ない。
取り消しもできない。
ならば、少なくとも彼女をこれ以上不安にさせないことだ。
「白瀬」
「なに……」
「今の件は、僕も対処を考える」
「……」
「一人で抱えるな」
「……うん」
白瀬は小さく頷いた。
それから、少しだけ視線を上げる。
「でも」
「うん」
「さっきの“僕も同じ”は、取り消さないで」
「取り消すつもりはない」
「……なら、いい」
その言葉で、今日の全部が少しだけ報われる気がした。
火種は増えた。
危険も増えた。
だが同時に、二人の間の言葉も一段進んでしまった。
それを後悔する気には、どうしてもなれなかった。




