第3章 第2話 王子様、オタク用語が口をついて出る
人は、知らないうちに変わる。
それは劇的なものではなく、もっとささやかで、もっと気づきにくい形で起こるのだと、天城玲司はこの日の昼休みに思い知ることになった。
「天城、昨日の新作アニメ見た?」
昼休み、教室の一角でパンを食べながら、三枝悠人が身を乗り出してきた。
「新作?」
「ほら、あのラブコメの二話。今期の本命って言われてるやつ」
「ああ」
玲司は何気なく頷いた。
「見た」
「うそっ、マジで!?」
三枝が目を丸くする。
周囲にいた男子二人も、つられて振り向いた。
「天城が深夜アニメ見てるの、なんか珍しくない?」
「意外だな」
「しかも“ああ”って自然に入ったぞ今」
玲司はそこで少しだけ止まった。
しまった、と思った時にはもう遅い。
「いや、勧められて」
「誰に?」
三枝の食いつきが早い。
「……たまたま」
「たまたまで深夜ラブコメ勧められる状況って何?」
かなり鋭い。
玲司は表情を崩さず、パンの袋をたたみながら言った。
「文化理解の一環だ」
「なにそれ」
「余計に意味わからん」
「でも天城らしいっちゃ天城らしい」
「で、どうだった?」
三枝がぐいぐい来る。
玲司は少しだけ考える。
本音を言えば、面白かった。
それだけではなく、かなり細かく見てしまった。視線の流れ、会話の間、ヒロインの表情の作り方、照れの温度。そういうものが、白瀬もえの言っていた“可愛いが先、どきどきが後”という話と妙に繋がって見えてしまったのだ。
だが、それをそのまま言うのはさすがに危ない気がした。
「……悪くなかった」
「うわ、天城の“悪くなかった”は信用できるやつだ」
「でしょ!? あれ演出いいんだよなー!」
三枝はテンションを上げる。
その勢いで、隣の男子が話に乗ってきた。
「ヒロインかわいかった?」
「そこ大事」
三枝が頷く。
玲司はごく自然に答えた。
「解釈一致だった」
「……は?」
一瞬、空気が止まった。
玲司自身も止まった。
今の言葉が、完全に無意識で口から出たのだと気づいたのは、その沈黙の一拍あとだった。
「え、今なんて?」
三枝がゆっくり聞き返す。
「……解釈一致」
「天城が?」
「天城が“解釈一致”って言った?」
「え、待って、何があった?」
「怖い怖い怖い」
玲司は内心で静かに頭を抱えた。
これはまずい。
かなりまずい。
なぜなら、少し前の自分なら、絶対に自然には出てこない単語だったからだ。
「言葉として便利だった」
玲司はできるだけ冷静に言う。
「便利って」
「いや便利だけど」
「そんな一般教養みたいに使う単語じゃないだろ」
「天城、どこで覚えたんだよ」
「……たまたま聞いた」
「その“たまたま”絶対たまたまじゃないやつ!」
三枝は机を叩いて笑った。
周囲もつられて笑う。
ひとまず、場は軽く流れた。だが、玲司にはわかる。三枝悠人のような人間は、こういう小さな違和感を妙によく覚えている。
だからこそ厄介だ。
玲司はさりげなく教室の斜め前へ視線を向けた。
白瀬もえは、女子グループの輪の中にいた。
だがその肩が、わずかに揺れている。どうやら笑いを堪えているらしい。
いや、笑っている場合ではないだろう、と玲司は思う。
だが同時に、あれは確実に“自分のせいで吹きそうになっている白瀬もえ”だともわかってしまう。
それが少しだけ悔しい。
◇
五限目の休み時間、玲司の机の上へ、また小さなメモが置かれた。
今ではもう、差出人を確認するまでもない。
開く。
解釈一致はだめ
学校ではまだ早い
あとちょっと面白かった
玲司は、それを読んで本気で少しだけ笑った。
学校ではまだ早い、という表現が妙に可笑しい。
まるで、自分がこれから本格的にオタク化していくことを前提にした言い方ではないか。
玲司はメモの裏へ、短く返した。
供給不足だった
反省はしている
数分後、白瀬の肩がまた揺れた。
今度は確実に吹き出しかけている。
そのせいで隣の女子に「白瀬さん?」と怪訝そうな顔をされ、慌てて咳払いしてごまかしていた。
少し危ない。
だが、少しだけ楽しい。
その事実自体が、また少し危ない。
◇
放課後になると、学校の空気は一気にほどける。
部活へ向かう者。
寄り道の約束をする者。
早足で帰る者。
校舎のあちこちから椅子を引く音と笑い声が重なり、同じ教室なのに昼間とは別の空間のようになる。
玲司は荷物をまとめながら、今日はどう動くべきかを考えていた。
朝の会話。
昼の失言。
三枝の反応。
昨日の“距離は取るが離れない”という確認。
何もしなければ安全だ。
だが、それでいいわけでもない。
「……天城くん」
教室の後方から、小さな声が飛んだ。
振り向くと、白瀬もえが立っていた。
今日は昨日のように露骨に近づいてこない。人の動きが少し引いたタイミングを見計らって、ぎりぎり自然な距離で声をかけている。
「少しだけ」
「わかった」
二人は別々のタイミングで教室を出て、少し時間差を作って階段を下りた。
待ち合わせたのは、校舎裏の自販機コーナー。ここなら、放課後でも人が途切れる時間がある。
「……今日、やばかった」
白瀬が来るなり言った。
「解釈一致か」
「そこもやばい」
「そこも?」
「“供給不足”もだよ! なんで返しが一段深くなってるの!」
「自然に出た」
「自然に出ちゃだめなの!」
白瀬は本気で額を押さえた。
「三枝くん、ああいう違和感絶対覚えてるタイプだからね」
「僕もそう思う」
「ならもうちょっと警戒してよ……!」
「していたつもりだ」
「してた人は昼休みに解釈一致って言わない!」
完璧に正論だった。
玲司は素直に頷く。
「それは認める」
「認めるんだ……」
「だが、つい出た」
「つい出たのが怖いんだってば……」
白瀬はそう言ってから、不意にじっと玲司を見た。
「……ほんとに、少し染まってきてる?」
「何に」
「オタク文化に」
「否定しきれない」
「うわ」
「そこまで驚くか」
「だって天城くんが自分で認めるんだよ!?」
白瀬は目を丸くし、それから急に口元を押さえた。
「……やば、ちょっとうれしいかも」
「うれしい?」
「だって、自分の好きなものを好きになってくれるのって、やっぱりうれしいじゃん」
「……そうか」
「うん」
その“うん”は、とてもやわらかかった。
玲司はそれだけで、今日の昼の失点が少し報われた気がした。
「ただし」
白瀬は人差し指を立てる。
「学校では慎重に」
「了解」
「今後、“供給”とか“解釈一致”とか“てぇてぇ”とか、そういうの禁止」
「待て」
「何」
「最後の単語はまだ知らない」
「えっ」
「今なんと言った」
「て、てぇてぇ……」
「どういう意味だ」
「そこ食いつくの!?」
「新しい単語だろう」
「今じゃない、今じゃないの! 学校で覚えたら終わるから!」
玲司は少しだけ考えた。
「なら、学校外で教えてくれ」
「う」
白瀬が止まる。
「それ、なんか今すごく危ない誘い方に聞こえたんだけど」
「言葉を選び直すか?」
「選び直しても多分だめ」
「そうか」
「そうだよ……」
白瀬は頬を赤くしながら視線を逸らした。
だが、その耳の赤さは嫌がっている色ではない。
◇
その時、自販機コーナーの向こうから元気な声が響いた。
「え、天城くんじゃん!」
二人の身体が、同時に固まる。
やってきたのは、二年の女子二人組だった。
同じクラスではないが、学年集会や選択授業で顔を見ることのある生徒たちだ。
白瀬が一瞬、息を呑む。
だが玲司は、今度は前回よりも速く動いた。
「委員会の備品、確認しておいてくれ」
自然な声で言う。
「え、あ……うん」
白瀬も即座に合わせる。
「わかった。じゃあ、また明日」
女子たちはその会話を聞きながら近づいてきた。
「何してるの?」
「少し確認事項を」
玲司が答える。
「へえ、真面目」
「相変わらずだよねー」
「白瀬さんも委員会?」
「そ、そう。ちょっとだけ」
「大変だねえ」
ほんの数十秒のやり取り。
だが、その間に白瀬はきれいに“普通のクラスメイト”へ戻っていた。
女子たちが去ったあと、彼女は壁にもたれかかる。
「……寿命縮んだ」
「今日はそういう日らしいな」
「ほんとだよ……」
白瀬はそれから、少しだけ真面目な顔になる。
「でも」
「うん」
「今みたいに、ちゃんと誤魔化せるなら、まだ大丈夫かも」
「油断はできない」
「それはそう。でも、前よりちょっとだけ、二人で対処してる感ある」
「二人で、か」
「うん」
玲司はその言葉を、静かに反芻する。
二人で対処する。
二人で守る。
二人で隠す。
それは決して健全な関係の始まり方ではないのかもしれない。
だが少なくとも今の二人には、その共犯めいた連帯感が、ただ危ういだけのものには思えなかった。
「白瀬」
「なに」
「しばらくは、本当に慎重に行こう」
「うん」
「だが、必要以上に離れるつもりもない」
「……うん」
白瀬は小さく頷く。
「それでいい」
「そうか」
「だって、天城くんが一回こっちの世界に来たのに、今さら“やっぱやめます”とか言われたら普通に傷つくし」
「やめるつもりはない」
「ならよし」
白瀬はそう言って、少しだけ笑った。
その笑顔は、学校で見せる控えめなものに近い。
けれど今の玲司には、その奥にある別の熱もちゃんと見える。
「じゃあ」
白瀬が鞄を持ち直す。
「今日はほんとに帰る。これ以上話すと、また変な言葉覚えさせそうだから」
「残念だな」
「え」
「いや」
「今、絶対わざとでしょ」
「さあ」
「さあ、じゃないの!」
白瀬は頬を赤くしたまま、しかし今日は逃げるようには去らなかった。
代わりに一歩だけ離れて、振り返る。
「……また連絡する」
「ああ」
「学校では普通に」
「努力する」
「うん。そこはもうテンプレでいいや」
そう言って、白瀬は今度こそ校門の方へ歩いていった。
玲司はその背を見送りながら、胸の内で静かに整理する。
火種は増えている。
危険も増えている。
それでも、関係は前へ進んでいる。
慎重でなければならない。
だが、引く理由にはならない。
好きなものを守りたいと思う気持ちは、こんなふうに少しずつ形になるのかもしれないと、玲司は思った。




