第3章 第1話 学校バレ厳禁――完売後の余熱と、近づく火種
翌朝、天城玲司は少しだけ眠りが浅かった。
原因は明白だ。
昨日の熱が、まだ身体のどこかに残っている。
会場のざわめき。
頒布の流れ。
完売の瞬間。
白瀬もえの、泣きそうで、それでも笑っていた顔。
そして、最後に黒峰蒼一郎から告げられた静かな牽制。
どちらも強く印象に残りすぎて、夜のうちに綺麗に整理できなかったのだろう。
もっとも、眠りが浅いからといって、天城玲司の朝が崩れることはない。
いつも通りに起き、整え、食卓へ向かい、最低限の会話をこなし、車で学校へ向かう。その一つひとつは、天城家の直系として長く繰り返してきた動作であり、今さら乱れるようなものではない。
だが今朝に限って言えば、その“いつも通り”が少しだけ窮屈だった。
昨日までいた場所が、あまりにも熱を持ちすぎていたからかもしれない。
私立星ヶ峰学園の校門をくぐった瞬間、その差はさらに鮮明になった。
制服。整えられた校舎。決まった時間に流れる予鈴。
どこまでも整っていて、どこまでも“学校”だ。
そしてこの場所では、昨日の白瀬もえも、昨日のmocoも、本来なら存在しないことになっている。
「……」
玲司は無意識に、校舎へ向かう生徒の流れの中から黒髪の姿を探していた。
見つけたのは、昇降口の少し手前だった。
白瀬もえ。
制服姿。
いつも通りの重ための前髪。
いつも通りの控えめな歩幅。
両手にはきちんと通学鞄。
昨日、会場で私服姿のまま机の向こうへ立っていた彼女と、同一人物だと知っていても、最初の数秒は脳がうまく繋がらなかった。
それくらい、今朝の彼女は“学校の白瀬もえ”に戻っていた。
いや、戻ろうとしていた。
玲司はその違和感にすぐ気づく。
歩き方はいつも通りだ。
表情も自然に見える。
だが、肩にほんのわずかな力が入っている。視線の置き方が慎重だ。誰かとすれ違うたびに、一瞬だけ呼吸が止まっているようにも見える。
昨日の余熱が、彼女の中にもまだ残っているのだ。
玲司は、ごく自然な速度で距離を詰める。
「おはよう」
「ひゃっ!?」
白瀬が、本気で小さく飛び上がった。
玲司は一瞬だけ眉を上げる。
「そんなに驚くか」
「お、お、おはよう……!」
「声が裏返っている」
「裏返るよ! 今それは無理だよ!」
「なぜだ」
「なぜだじゃないの!」
白瀬は耳まで赤くなり、慌てて周囲を見回した。
まだ登校の流れの中で、こちらを露骨に見ている者はいない。だが彼女の中では、それだけで十分に危機なのだろう。
「学校では普通に、って言ったでしょ……!」
「挨拶をしただけだ」
「普通の挨拶が一番危ない日ってあるの!」
「今日はそういう日か」
「そう! よりによって今日!」
玲司は少しだけ口元を緩める。
白瀬もえは、どうやら今日、昨日のことをかなり強く意識しているらしい。
それはそうだろう。
完売した。
支えられた。
打ち上げで幼馴染に散々からかわれた。
しかもその翌朝だ。
普通でいろという方が難しい。
「安心しろ」
玲司は小さく言う。
「必要以上に近づくつもりはない」
「必要以上って言い方もなんか危ないんだけど……」
「では、努力する」
「うわ、出た」
「何がだ」
「最近のテンプレ返答」
「気に入らないか」
「……少し慣れたけど」
最後が小さすぎて、玲司は聞こえたふりをしないでおいた。
ただ、その代わりに白瀬の歩幅へ少しだけ合わせる。
並んで歩くには近すぎず、他人が見れば偶然同じ方向にいるようにも見える距離。白瀬が求めている“普通”に近い位置。
それだけで、彼女は少しだけ肩の力を抜いたようだった。
◇
教室へ入ると、空気はいつも通りだった。
クラスメイトの挨拶。
月曜のだるさ。
宿題の確認。
部活の愚痴。
どれも昨日のコミケとは何も接続していないように見える。
だが玲司にとっては、もはやそうではなかった。
同じ教室の中に、昨日あれだけ大勢の人間を迎えていた白瀬もえがいる。
それを知っているのは、今のところ自分だけだ。
その事実は、静かな教室を少しだけ特別な場所へ変えてしまう。
「天城くん、おはよー」
「おはよう」
「なんか今日ちょっと眠そう?」
「そう見えるか」
「ちょっとだけー。珍しいね」
そう声をかけてきた女子へ、玲司はいつも通りに微笑み返す。
だがその間も、視界の端には白瀬がいる。
彼女は自席に座り、教科書を机へ出し、ノートを揃え、いつもと変わらぬ速度で朝の準備をしていた。
ただし、玲司と目が合いそうになると、高確率で逸らす。
わかりやすい。
かなり、わかりやすい。
そして、そういう時に限って周囲は余計な鋭さを持つものだ。
「……あれ」
前方の席の女子が、ふいに首を傾げた。
「白瀬さん、今日なんか元気じゃない?」
「え?」
白瀬が固まる。
「いつもより顔色いい気がする」
「そ、そうかな……」
「なんかいいことあった?」
「なっ……」
目に見えて動揺した。
玲司は内心で少しだけ頭を抱える。
昨日の疲れでむしろ少し顔色は悪いはずだ。だが人間というのは厄介で、寝不足でも気分が高揚していると、妙な生気が顔へ出ることがある。
「し、知らないよ、別に……」
「えー、怪しい」
「怪しくない」
「でもなんかちょっと雰囲気違うよ?」
「そ、そんなことないって……」
白瀬はノートを開くふりをして逃げた。
玲司は会話へ入るべきか一瞬迷ったが、ここで庇う方が目立つと判断し、あえて動かない。
結果的に、それは正解だったらしい。女子たちはすぐに別の話題へ移っていった。
白瀬は助かったような顔をしていたが、その後でちらりと玲司を見て、すぐにまた目を逸らした。
その様子は、もはや“普通”ではない。
少なくとも、玲司の目には。
◇
一限目が終わった休み時間。
玲司が席でノートを閉じていると、机の端へ小さく折りたたまれたメモが置かれた。
いつの間に置いたのか、白瀬もえはすでに席へ戻っている。
玲司は周囲に気づかれないように広げた。
朝から心臓に悪いです
あと見ないで
いや見ていいけど見てるのわかると困る
玲司は、危うく笑いそうになった。
器用なのか不器用なのか、よくわからない文章だ。
だが、これだけで彼女の今の状態がだいたいわかる。
昨日のことを意識しすぎている。
それでも無視するのも不自然だと思っている。
だから結局、こうしてメモが来る。
玲司は自分のノートの端を一枚破り、短く返した。
努力する
だが無理かもしれない
それを折って、次の休み時間に本を返すふりで机の端へ滑らせる。
数秒後、白瀬の肩がぴくりと揺れた。
メモを見たらしい。
そしてそのまま、教室の窓の外を見つめるふりをして、じわじわと耳を赤くしていく。
「……」
玲司は、今度こそ笑うのを堪えるのが少し大変だった。
◇
昼休み。
玲司はいつものように何人かの男子に囲まれていた。
週末の話題、アニメの新作、課題の進み具合。内容はよくあるものばかりだ。
「そういえばさ」
オタク気質の強い男子、三枝悠人がパンをかじりながら言った。
「昨日、会場の方行ったんだけど」
「会場?」
別の男子が聞き返す。
「ほら、あれだよ。でっかいイベント」
「あー、コミケ?」
「そうそう」
玲司の手が、一瞬だけ止まりそうになる。
だが表情には出さない。
「お前また行ってたのか」
「行くでしょそりゃ。戦場だよ戦場」
「好きだなお前も」
「好きだよ。でさ、そこでちょっと変なもん見た気がするんだよな……」
その一言で、玲司ははっきりと理解した。
来た。
「変なもの?」
「いや、変っていうか……気のせいかもしんないけど」
三枝は首を傾げる。
「なんか、天城に似た人見た気がする」
「ぶっ」
隣の男子が噴き出した。
「は? 天城がコミケ?」
「いや、似た人、だよ。似た人」
「そんなわけあるか」
「だよなあ……。でも売り子みたいなことしてて、めっちゃ手際よかったんだよ。顔見た瞬間、あれ天城じゃね?って思って」
「それ、顔の整った別人だろ」
「かなあ」
「天城がコミケ会場で売り子はさすがに絵面強すぎるわ」
笑いが起きる。
玲司はそこで、ごく自然なトーンで口を挟んだ。
「世の中には似ている人間が三人いるらしい」
「うわ、本人がきれいに否定した」
「いやでも、マジで似てたんだって」
三枝はまだ少し納得していない顔だ。
「背格好とか、立ち方とか」
「立ち方で判別するな」
「いや、なんかこう、いるじゃん。妙に育ちよさそうな感じの人」
「雑な分類だな」
周囲はまた笑う。
玲司も小さく笑って流した。
表面上は、それで終わる。
だが、話は頭の中に残る。
三枝悠人は、ただのクラスメイトではない。
こういう話題に妙に執着するタイプだ。しかも、悪意ではなく純粋な好奇心で掘る。
面倒な相手ではあるが、最も厄介なタイプでもある。
玲司は無意識に、教室の斜め前へ目を向ける。
白瀬もえは、友人と話しているふりをしながらも、明らかにこちらの会話を聞いていた。
手元の箸が、少しだけ止まっている。
その様子に、玲司はまた理解する。
火種は、確かに近づいている。
◇
放課後。
教室の空気が少しずつ緩み、人が減り始めた頃だった。
「天城くん」
低い声で呼ばれる。
「白瀬」
彼女は机の横まで来て、周囲をちらりと見た。
「……ちょっとだけ」
「わかった」
二人はいつものように、教室の外へ出る。
だが今日は学校の近くではなく、校舎裏手の人通りの少ない渡り廊下まで移動した。
そこへ着くなり、白瀬は小さく息を吐く。
「聞いた?」
「三枝の話か」
「うん……」
白瀬は本気で頭を抱えた。
「やっぱり、見られてたんだ」
「確信まではしていない」
「でも“似てた”で残るのが一番嫌なんだよ……」
「それはわかる」
「しかも天城くんの方に興味向いてるから、そこから私に繋がる可能性もゼロじゃないし……」
玲司は少し考えてから、静かに言う。
「しばらくは距離を取るべきかもしれない」
「……」
「学校では特に」
「……うん」
白瀬は頷く。
「それがいいと思う。私もそうしたい」
その返事は正しい。
とても正しい。
だがなぜか、その“正しさ”に少しだけ胸の奥が冷える。
白瀬も同じことを感じたのか、一瞬だけ視線を落とした。
「でも」
彼女が小さく続ける。
「距離取るのと、なかったことにするのは違うから」
「……ああ」
「昨日のこと、私はすごく嬉しかった」
「白瀬」
「だから、学校で普通にするのは必要だけど……」
彼女は少し迷ってから、顔を上げる。
「放課後まで遠くなるのは、ちょっと嫌」
玲司は、その言葉をすぐには飲み込めなかった。
それくらい、まっすぐだった。
「それは」
玲司は一拍おいてから言う。
「かなり危ない発言だな」
「わかってる」
「いいのか」
「よくはない」
「だろうな」
「でも本音だから仕方ないの」
白瀬は、困ったように笑った。
その顔を見ていると、玲司の中の冷えた部分がゆっくり溶けていく。
距離を取る必要はある。
隠す必要もある。
けれど、離れたいわけではない。
そう思っているのは、自分だけではないのだとわかったからだ。
「なら」
玲司は言う。
「学校では今まで以上に自然にする」
「うん」
「放課後は、必要なら連絡を」
「うん」
「ただし、しばらくは目立つ接触を避ける」
「……了解」
「努力する」
「そこは最近のテンプレだね」
「気に入っている」
「私はちょっとだけ腹立つ」
白瀬はそう言いながら、少しだけ笑った。
その笑顔に、玲司も口元を緩める。
だが次の瞬間。
足音がした。
二人は同時に振り向く。
渡り廊下の向こう、角を曲がったところで、一人の女子生徒が「あれ?」という顔をして立ち止まっていた。
同じクラスではない。だが、明らかに星ヶ峰の生徒だ。
白瀬の肩が硬直する。
玲司は一瞬で判断した。
「委員会の件はそれで進めよう」
あえて少し大きめの声で言う。
「えっ」
白瀬が一瞬固まる。
「資料は明日でいい」
「……あ、うん。そうだね」
白瀬も、ぎこちなく合わせる。
女子生徒は「あ、ごめん、邪魔した?」という顔をしたあと、何事もなかったようにそのまま通り過ぎていった。
足音が離れる。
沈黙。
「……」
「……」
「今の、委員会じゃないでしょ」
白瀬が小声で言う。
「もちろんだ」
「よくあの瞬間に出てきたね」
「必要だった」
「……ほんと、そういうとこだけは頼もしすぎる」
白瀬はそう言ってから、ふっと息を抜いた。
だが、その直後にまた少しだけ真面目な顔へ戻る。
「やっぱり、危ないね」
「ああ」
「でも」
「うん」
「だからって、もう関わらないとかはやだ」
「同感だ」
その答えは、互いにとって十分だった。
◇
その夜。
玲司は自室で机に向かっていた。
目の前には開いたノート。
そこには、コミケ売り子時代のメモとは別に、新しく書き足した短い文がある。
学校では自然に。
家には知られないように。
彼女の普通を守ること。
黒峰の言葉。
三枝の違和感。
渡り廊下での遭遇未遂。
どれも、たった一日でここまで火種が増えるのかと思うほどには厄介だ。
だが、不思議と後悔はなかった。
むしろはっきりしてきた。
白瀬もえの世界を守るには、ただ好きだと思うだけでは足りない。
近くにいたいという気持ちだけでも足りない。
もっと考えなければならない。
もっと慎重にならなければならない。
それでも。
そこまでしてでも、彼女のそばにいたいと思ってしまう。
スマホが震えた。
白瀬からだ。
今日の放課後、ありがとう
あと、距離取るの必要なのはわかってるけど
ちょっとさみしかった
玲司は、その文面をしばらく見つめた。
そして、ゆっくりと返す。
同じだ
だが、離れる気はない
送信してから、短く息を吐く。
答えはもう、かなり前から決まっていたのかもしれない。
必要なのは、引くことではなく、守り方を覚えることだ。
彼女の普通も、秘密の世界も、どちらも壊さない形で。
そう考えた時、玲司はようやく、自分が本当に“彼女の世界へ入った”のだと実感した。




