第九章 波多野の父
病院に戻った哲太は、精神科医・波多野五郎と初めて言葉を交わした。
三十二歳の若い医師である波多野は、他の職員が施設の外に避難する中、自らの意志で中に留まっていた数少ない人物だった。彼と行動を共にした二人の看護師とともに、入院を続けている患者たちの内服薬の管理と、日々の服薬確認だけは、占拠の間も欠かさず続けていた。
「暴れることより、薬を切らすことの方が、よほど危険ですから」波多野は、哲太にそう説明した。「幸い、警察との交渉で、薬剤と食料の搬入だけは、初日から止めずに済んでいます」
「患者さんたちを、見捨てられなかったんです」波多野は言った。「それに――これは、暴動じゃない。最初に、そう気づいたのは僕でした」
「なぜ、そう思ったんですか」
「暴動なら、もっと混乱があるはずです。物が壊れたり、怪我人が出たり。でも彼らは、驚くほど秩序立って行動している。まるで、事前に、何を守り、何をするか、決められていたみたいに」
哲太は、波多野の落ち着いた話しぶりに、ある種の誠実さを感じた。
「波多野先生のお父様は、この病院に関わっていた、と聞きました」
波多野の表情が、わずかに曇った。
「……よくご存知で」
「深田源一郎という男から」
「深田さん」波多野はその名を、苦い顔で反芻した。「僕の父は、二十年以上前、この病院の運営側にいました。院長ではありませんが、それに近い立場で」
「お父様は、今は」
「五年前に亡くなりました。晩年は、ほとんど何も語らずに」
波多野は、自分の白衣の袖口を、無意識に握りしめた。
「僕は医者になってから、ずっと不思議でした。父は、なぜあんなに、この病院の過去について、口を閉ざしていたのか。それが、今回のことで、少しずつ分かってきた気がします」
「どういうことですか」
「僕自身も、父の世代が作ったシステムの、後始末をする立場にいる、ということです」
波多野は、哲太の目をまっすぐに見た。
「山本さん。僕は、あなたに協力します。この病院で、本当は何が起きていたのか、一緒に明らかにしたい。それが、僕にできる、せめてもの償いだと思うので」




