第十章 最初のP-0記録
波多野の協力を得て、哲太は再び地下保管庫への立ち入りを許された。今度は、陽子だけでなく、波多野も同行した。
「ここまでは、僕も入ったことがありませんでした」波多野は、棚に並ぶ膨大な記録を見渡しながら呟いた。
陽子は、以前に見せた「P-0-1993」のファイルを、再び棚から取り出した。
「今日は、これを開けます」
ファイルの中には、古い手書きのカルテが数枚、綴じられていた。名前の欄には、黒く塗りつぶされた跡がある。だが、その下に、かすかに元の文字の凹凸が残っていた。
「誰の記録なんですか」
「分かりません。この時点では、まだ、記録から名前を消すことそのものが、システムの一部として確立していなかった。だから、こんな痕跡が残っている」
陽子は、カルテの余白部分を指さした。そこには、几帳面な字で、短いメモが書き添えられていた。
「この人物、患者としての基準を満たさず。しかし上層部の指示により、P-0として分類。要観察」
「基準を満たさない……つまり、病気ではないのに、患者にされた、ということですか」
「そうです。これが、システムの最初の記録の一つ」
哲太は、そのメモをじっと見つめた。何かが、頭の奥で疼いた。この筆跡――どこかで見たことがある気がする。だが、それがどこでなのか、思い出せない。
「山本さん」波多野が、静かに口を開いた。「大丈夫ですか。顔色が」
「……いえ、何でも」
哲太は首を振ったが、内心では、動揺を隠しきれずにいた。
この筆跡を、自分は知っている。だが、それがなぜなのか、まったく思い出せない。
陽子は、その様子を静かに見つめていた。
「思い出さなくていい。今はまだ」
「なぜ、そんなことが分かるんですか」
陽子は、ファイルを静かに閉じながら、答えた。
「あなたが、今まさに、二十年前の入り口に立っているからです」
地下保管庫の重い空気の中で、哲太は、自分がこれから足を踏み入れようとしている闇の深さを、初めて実感し始めていた。
――なぜ、患者たちは逃げないのか。
その問いの答えは、もう、この病院の外にはない。答えはすべて、この地下と、哲太自身の記憶の奥に眠っている。
(第一部・完 第二部「哲太の過去」へつづく)




