外伝・三 加納涼子、最初の「陽子」との出会い
加納涼子が、聖嶺会メンタルセンターに送られてきたのは、二十二歳のときだった。
理由は、単純ではなかった。家族との不和、経済的な困窮、そして、当時交際していた男性との間で起きた、ある事件。涼子自身に非がなかったにもかかわらず、周囲は、彼女を「情緒不安定」というレッテルで片付けようとした。
病院に送られてきた当初、涼子は、絶望の底にいた。誰も、自分の話を聞いてくれない。何を言っても、「症状の一部」として処理されてしまう。
そんな彼女に、最初に声をかけたのが、当時「陽子」と呼ばれていた、先代の女性だった。
「あなたも、理不尽に、ここに連れて来られたのね」
先代の陽子は、涼子の目を見て、静かにそう言った。誰も信じてくれなかった涼子にとって、その一言は、砂漠の中で見つけた水のようなものだった。
「あなたの話を、聞かせてください」
先代の陽子は、涼子の身の上話を、丁寧に聞き取り、記録した。それは、病院の記録とは別の、患者たち自身の手による、もう一つの記録だった。
「私たちは、誰かに信じてもらえなくても、お互いの話だけは、正確に記録しておくべきだと思うの」先代の陽子は言った。「いつか、この記録が、誰かの人生を、証明する日が来るかもしれないから」
涼子は、その言葉に、少しずつ、生きる意味を見出していった。
先代の陽子が病に倒れたのは、それから十年ほど経った頃だった。最期の病床で、彼女は、涼子の手を握り、静かに言った。
「涼子さん。私の後を、継いでくれませんか」
「私に、そんな……」
「あなたは、誰よりも、記録の大切さを、理解している人だから」先代の陽子は、微笑みながら言った。「それに、最近、山本修司さんという記者が、ここに出入りするようになった。彼は、本気で、私たちの話を聞こうとしている。もし彼が、これからも来るようなら、力になってあげてほしい」
その言葉を胸に、涼子は「陽子」という名前を、静かに引き継いだ。
それから二十年近く、涼子は「陽子」として、患者たちの記録を守り続けることになる。




