外伝・二 深田源一郎、兄の記憶
深田源一郎には、六つ年上の兄がいた。名を、源太郎といった。
源太郎は、若い頃、地元の工場で働きながら、労働組合の活動に熱心に取り組んでいた。正義感が強く、周囲の信頼も厚い男だった。深田にとって、兄は、憧れであり、目標だった。
その源太郎が、ある日、突然、姿を消した。
「会社の紹介で、遠くの病院に入院した」
家族は、そう説明を受けた。だが、深田は、その説明に、強い違和感を覚えていた。兄は、病気などしていなかったはずだ。
深田が、兄の入院先――聖嶺会メンタルセンターを突き止めたのは、それから半年後のことだった。面会を求めたが、「治療のため、家族との接触は制限されている」という理由で、断られ続けた。
三年後、深田は、ようやく兄との面会を許された。だが、そこで見た兄の姿は、深田の記憶にある兄とは、まったく別人のようだった。
「源一郎か……お前、大きくなったな」
源太郎の声は、かつての力強さを失い、どこか虚ろだった。深田は、その変わり果てた姿に、言葉を失った。
「兄さん、ここを出よう。俺が、何とかする」
「無理だ」源太郎は、静かに首を振った。「もう、諦めた。ここにいる方が、楽なんだ」
その言葉を最後に、深田は、兄との面会を許されることは、二度となかった。源太郎は、それから数年後、この病院で息を引き取った。死因は、「持病の悪化」とだけ、記録されていた。
深田が、裏社会の道に足を踏み入れたのは、それからほどなくしてのことだった。金と力さえあれば、あの病院の壁を、こじ開けられるかもしれない。そう信じていた。
だが、力を得れば得るほど、深田は、自分が、あの病院を支えるシステムの一部に、取り込まれていくことに気づいた。皮肉なことに、裏社会という「力」もまた、あのシステムにとって、利用価値のある道具の一つだったのだ。
「俺は、兄貴を助けるために力を求めたはずだった。なのに、いつの間にか、俺自身が、同じシステムの、別の歯車になっていた」
深田が修司と出会ったとき、彼の中にあったのは、そんな長年の自己嫌悪だった。修司の生き方は、深田にとって、自分が選ばなかったもう一つの道を、体現しているように見えた。
「俺は、修司を助けることで、兄貴に対する借りを、少しでも返したかったのかもしれない」
深田が、後に、哲太にそう語った言葉には、三十年以上にわたる、静かな痛みが込められていた。




