第五章 P-0
「P-0、という言葉に、心当たりは?」
陽子がそう尋ねたのは、ロビーでの短い会話のあと、彼女が哲太を中央病棟の奥にある小さな面談室へと案内してからのことだった。窓のない部屋で、机を挟んで二人が向かい合っていた。
「いいえ、まったく」
「では、記録では見たことがある可能性があります。あなたは記者だ。何かの取材で、この病院の資料に触れたことは?」
「ありません。少なくとも、意識的には」
陽子は小さく頷いた。
「P-0というのは、この病院で使われてきた内部コードです。カルテ番号でも、病棟の呼称でもない。もっと、根の深いものです」
「特定の患者の名前、ということですか」
「いいえ」陽子は首を振った。「それが、この病院の一番厄介なところです。P-0は、誰か一人を指す言葉じゃない」
「じゃあ、何を指すんです」
「社会的に厄介な人間を、患者というカテゴリーに押し込めるための仕組み――その仕組み自体を指す符牒です」
哲太は眉をひそめた。
「つまり……病気じゃない人間を、病気だということにして、閉じ込める、ということですか」
「単純に言えば、そうです。ただし、それを実行していたのは、この病院だけじゃない」
陽子はそこで一度、言葉を切った。
「政治家。行政。裏社会。それぞれが、別々の目的のために、このシステムを利用していました。邪魔な人間、都合の悪い証言者、あるいは単に、家族に見捨てられた人間。彼らは『患者』というラベルを貼られることで、社会的な発言力を失う。誰も、患者の言うことを本気で聞かない。それが、このシステムの一番恐ろしいところです」
「二十年前も、それが行われていた、と」
「はい。そして、あなたのお父さんは――」陽子は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。「そのシステムに気づいた人でした」
哲太は喉の渇きを覚えた。
「気づいて、それで、どうしたんですか」
「証拠を集めていました。誰が、誰を、どういう理由で『患者』にしたのか。その記録を」
「そして、その記録が原因で、殺された、と?」
陽子は、その問いには答えなかった。
「今はまだ、そこまで話せません。あなたには、まだ足りないピースがある」
「足りないピースとは」
「あなた自身の記憶です」
その言葉を最後に、陽子は静かに席を立った。
「今日はここまでにしましょう。無理に思い出そうとしないでください。焦って歪んだ記憶を掘り起こすより、正確な記録を、一つずつ確かめていく方がいい」




