第四章 「あなたのお父さんは患者じゃない」
翌日、哲太は施設の広報を通じて、異例の「取材許可」を得た。
誰が許可を出したのか、病院側にもはっきりとした説明はできなかった。「中の患者代表から、あなたを通してほしいという伝言があった」――事務局の鈴木は、困惑した顔でそう告げただけだった。警察も、通常なら絶対に認めないはずのこの措置に、渋々ながら同意した。人質がいない以上、対話のパイプを増やすことに反対する理由がなかったのだろう。
この許可は、この日一度きりのものではなかった。警察は、哲太を「患者側との、もう一つの対話窓口」として、以後も継続的に施設への出入りを認めることになる。ただし、これは警察の正式な交渉が哲太に委ねられたということではなかった。県警の捜査一課から派遣された、専門の交渉担当官が、別途、陽子たちとの公式なやり取りを担っており、哲太の役割は、あくまでそれを補う、非公式な窓口という位置づけだった。哲太は、施設を出るたびに、担当官への簡単な報告――施設内の安全状況や、患者たちの様子についてだけ――を求められたが、取材内容そのものを開示する義務は、最後まで課されなかった。事件解決までの間、哲太が病院と外部を行き来し、さらには深田や富山といった関係者への取材を並行して進められたのは、この最初の許可が、事実上の期間中パスとして扱われたためだった。
防護服のような簡易の装備をつけさせられ、警察官に付き添われながら、哲太は正面玄関をくぐった。
施設内は、思いのほか静かだった。破壊された様子もなく、廊下の蛍光灯も規則正しく灯っている。すれ違う患者たちは、哲太を一瞥するだけで、特に反応を示さなかった。まるで、彼が来ることを、とうに知っていたかのように。壁には、入院患者の日課表や、季節外れのクリスマスの飾りが、そのまま残されていた。日常の残骸の中に、非日常が静かに同居していた。
中央病棟のロビーで、陽子が待っていた。
昨夜と同じ、感情の読めない顔。付き添っていた警察官は、陽子の指示でロビーの外に留め置かれた。奇妙なことに、警察官はそれに素直に従った。
「来てくれたんですね」
「呼ばれた気がしたので」
陽子はかすかに口の端を上げた。それが笑みなのかどうか、哲太には判断がつかなかった。
「単刀直入に聞きます」哲太は言った。「これは何なんですか。あなたたちの目的は」
「逃げることじゃない」陽子は繰り返した。「それはもう分かっているはずです」
「じゃあ、何なんですか」
陽子は少し間を置いてから、静かに言った。
「あなたのお父さんは、患者じゃない」
哲太の呼吸が止まった。
「……何を、言って」
「山本修司さん。十五年前、ここで亡くなった。記録上は、精神疾患の患者で、死因は心不全。でも、それは本当のことじゃない」
「あなたは、父を知っているんですか」
「知っている、というより」陽子は目を伏せた。「私たちは、ずっとお父さんが残したものを、守ってきた」
「守ってきた……何を」
陽子はそこで、初めてわずかに視線を逸らした。まるで、その先を口にすることを、まだ許されていないかのように。
「それは、あなた自身が思い出すべきことです」
「思い出す? 私は父の死について、何も忘れてなど――」
「いいえ」
陽子は、哲太の目をまっすぐに見た。
「あなたは、二十年前のことを覚えていない」
哲太の中で、何かが軋んだ。二十年前。それは、父の死よりもさらに五年前――哲太がまだ十七、八歳だった頃のことだ。記憶を辿ろうとしても、その時期の輪郭はひどく曖昧だった。高校に上がる前後、確か家族で少し引っ越しをした時期だったはずだ。だが、具体的な出来事となると、驚くほど何も浮かんでこない。
「二十年前に、何が」
「地下に、答えがあります」陽子は言った。「けれど、まだあなたには早い。今のあなたが降りても、何も分からないでしょう」
「なら、なぜ私をここに呼んだんですか」
陽子は、初めて、はっきりとした声で答えた。
「あなたに、思い出してもらうために。私たちが、二十年間、ずっと待っていたのは――あなたが、自分自身の謎に気づく日だったから」
病院の外では、まだサイレンが鳴り続けていた。だが、この静かなロビーの中だけ、時間が別の速度で流れているように、哲太には感じられた。
父は、患者ではなかった。
自分は、二十年前に何者だったのか。
二つの問いが、哲太の中でひとつに絡み合い始めた瞬間だった。




