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患者たちは逃げなかった  作者: キロヒカ.オツマ―


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第三章 逃走者ゼロ

規制線の外での取材が三日目に入った頃、警察の広報担当が異例の発表をした。


 施設内にいる患者、約百二十名のうち、脱走を試みた者は一人もいない――。


 その事実は、報道各社にとって都合の良い「異常性」として消費された。「精神科病院、謎の集団心理」「洗脳された患者たち」といった見出しが、ワイドショーを賑わせた。コメンテーターたちは口々に、集団心理学や、カルト的支配のメカニズムについて語った。


 だが哲太は、その見出しにひどく違和感を覚えていた。


 逃げられないのではなく、逃げないのだとしたら。


 彼はその夜、単身で施設の裏手、旧病棟に近いフェンス沿いを歩いていた。取材許可など下りていない。だが、警察の警備が薄い場所を探すのは、記者としての年季でどうにかなる。旧病棟は増築を重ねた施設の中でも最も古い建物で、蔦の絡んだ外壁と、ところどころ割れたままの窓が、夜の闇の中でひときわ不気味な陰影を作っていた。


 フェンスの向こう、旧病棟の非常口の陰に、人影があった。


 パジャマ姿の女だった。年齢は分からない。四十代にも、六十代にも見える、不思議な佇まいをしていた。長い髪をひとつに束ね、素足にサンダルを履いている。逃げる気配も、怯える様子もない。


 哲太が足を止めると、女はゆっくりとこちらを向いた。


「山本哲太さん」


 名前を呼ばれ、哲太の背筋が強張った。


「……なぜ、私の名前を」


「待っていたから」


 女は静かに言った。感情の起伏がほとんど感じられない声だった。


「あなたが来るのを、私たちはずっと待っていた」


「どういうことですか」


 女は答えず、ただ哲太の顔を見つめ続けた。まるで、そこに誰か別の人間の面影を探しているかのようだった。その視線には、敵意も、恐怖もなかった。むしろ、懐かしいものを見るような、静かな熱があった。


「あなたは……」


「陽子」女は短く名乗った。「それだけ覚えていてください」


 そして踵を返そうとした陽子に、哲太は思わず声をかけた。


「なぜ、逃げないんですか」


 陽子は足を止め、振り返らずに答えた。


「逃げたら、終わってしまうから」


「何が終わるんです」


「あなたが、まだ知らないことが」


 その言葉を残し、陽子は暗い旧病棟の中へと姿を消した。


 哲太はしばらく、その場に立ち尽くしていた。フェンスの金網を握る指先が、冷たく強張っていくのを感じた。何かが、確実に自分に向かって近づいてきている。その予感だけが、はっきりと胸に残っていた。

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