その七 哲太が書いた本
事件から一年後、哲太は、これまでの取材と、自らの過去を綴った一冊のノンフィクションを上梓した。
執筆にあたっては、大手出版社の編集者と、社外のファクトチェッカーが、半年近くかけて、記述の一つひとつを裏取りした。哲太自身が当事者でもあるという特殊な立場を踏まえ、出版社は、通常より厳格な確認体制を敷いた。
登場人物の名前の扱いについても、慎重な調整が重ねられた。西村悠人は、成人した際に自分の名前で語りたいという本人の意志を尊重し、実名での登場を承諾した。一方、「先生」と呼ばれた最初の患者や、今も病院で暮らす患者たちの多くは、匿名のまま描かれることを望んだ。加納涼子もまた、本の中では最後まで「陽子」として登場することを選んだ。彼女が哲太に明かした本当の名前は、この本には、記されていない。
タイトルは、『患者たちは逃げなかった』。
その本の最後に、哲太はこう記した。
「私は、この物語の外側から、真実を暴く記者でありたかった。だが、実際には、私自身が、この物語の内側に、二十年前から組み込まれていた一人の登場人物だった。
父は、私を守るために、私の記憶を奪った。患者たちは、二十年の間、逃げることなく、証拠を守り続けた。そして、一人の少年が、恐怖の中で、勇気を振り絞って、私に電話をかけた。
この物語に、巨大な黒幕はいない。誰か一人を倒せば終わる話でもない。あるのはただ、それぞれの立場で、それぞれの重さを背負いながら、正しいと信じることを、少しずつ選び取っていった人々の姿だけだ。
最後に、もう一度、あの問いに戻りたい。
なぜ、患者たちは逃げなかったのか。
答えは、単純だ。彼らは、逃げれば失われてしまう、たった一つの真実を、守りたかったからだ。そしてその真実とは――誰であっても、人間の言葉は、簡単に無効化されてはならない、という、ごく当たり前の事実だった。
私は、真実を追っていたつもりだった。だが、本当は、真実の方が、二十年間、ずっと私を待っていたのだ。」
本を書き終えた夜、哲太は、久しぶりに、父の墓を訪れた。
「お父さん」哲太は、静かに墓石に語りかけた。「あなたが守ろうとしたもの、ようやく、少しだけ、光の下に出すことができました」
風が、静かに吹き抜けた。それは、まるで、長い間閉じ込められていた何かが、ようやく解き放たれたような、穏やかな夜だった。
(エピローグ・完)




