第四十章 患者たちは逃げなかった
翌朝、聖嶺会メンタルセンターの正面玄関が、静かに開いた。
規制線の外に集まった報道陣、警察、そして野次馬たちが、固唾を飲んで見守る中、陽子を先頭に、百二十名を超える患者たちが、ゆっくりと、しかし堂々とした足取りで、外へと歩き出した。
誰一人として、慌てていなかった。誰一人として、隠れようとしなかった。
哲太は、彼らの少し後ろを、波多野とともに歩いていた。彼の腕には、父・修司が二十年かけて集めた記録の一部が、しっかりと抱えられていた。
施設の外に出た陽子は、待ち構えていた報道陣の前で、静かに口を開いた。
「私たちは、逃げたのではありません」
その声は、これまで哲太が聞いたどの瞬間よりも、はっきりと、力強く響いた。
「私たちは、この病院に留まることで、一つの証拠を守ってきました。それは、人間を『患者』というカテゴリーに押し込めることで、その人の言葉を、社会から消し去ることができるという、この国のシステムの歪みです」
陽子は、哲太を振り返った。
「その証拠を、今日、正式に、社会に届けます。ここにいるのは、暴徒ではありません。何十年も、声を奪われてきた、証人たちです」
カメラのフラッシュが、一斉に焚かれた。
哲太は、その光の中で、これまでの日々を振り返っていた。父の死、二十年前の消された記憶、深田の告白、波多野との出会い、富山との対峙、そして、西村悠人という少年との出会い。
すべての糸が、今、この瞬間に、一本に繋がった。
――なぜ、患者たちは逃げなかったのか。
その答えは、単純でありながら、深いものだった。彼らは、逃げれば失われてしまう、たった一つの真実を守るために、あえて「患者」と呼ばれ続ける場所に、留まり続けたのだ。
そして、山本哲太自身の謎――なぜ彼は二十年前のことを覚えていなかったのか、その答えもまた、明確になった。彼は、守られていたのだ。父によって、そして、名も知らぬ患者たちによって。
数週間後には、早くも一部の報道機関が、聖嶺会メンタルセンターを巡る不審な入院記録の存在について、断片的に報じ始めていた。政治家、行政、病院関係者の一部の名前が、憶測とともに取り沙汰され、富山紘一の総理候補としての立場にも、早くも小さな陰りが差し始めていた。だが、これはまだ、序章に過ぎなかった。地下保管庫から運び出された記録の全貌が、正式な形で世に出るまでには、この後、さらに長い時間を要することになる。
だが、陽子が語った通り、このシステムの根は、それほど浅いものではなかった。特定の誰かを裁いたところで、根こそぎ引き抜けるようなものではない。似たような構造は、この国のあちこちに、今も形を変えて残っているだろう。哲太は、そのことを、痛いほど理解していた。
それでも、と哲太は思う。
一つの真実が、二十年の歳月を経て、ようやく光の下に出た。それだけでも、意味はあったはずだ。
病院を出たあと、陽子――いや、いずれ本当の名前を取り戻すであろう、あの女性――は、静かに哲太に言った。
「哲太さん。あなたが探していたのは、お父さんの死の真相と、自分自身の過去だったはずです。でも、本当は、逆だったのかもしれません」
「逆、というのは」
「真実の方が、二十年間ずっと、あなたを待っていたんです」
哲太は、その言葉を、静かに胸に刻んだ。
朝の光が、聖嶺会メンタルセンターの古い外壁を、静かに照らしていた。かつて、無数の人間の言葉を封じ込めてきたその建物は、今、初めて、外の世界に向けて、開かれようとしていた。
(本編・完 エピローグへつづく)




