第三十四章 陽子の正体
その翌日、哲太は再び陽子と二人きりで向き合った。老人との対話を経て、哲太の中には、もう一つ、確かめたいことがあった。
「陽子さん。あなたの本当の名前を、教えてもらえますか」
陽子は、少しの間、沈黙した。
「『陽子』というのは、本当の名前ではありません」
「やはり、そうでしたか」
「この病院では、名前を奪われることが、支配の始まりでした」陽子は、静かに語り始めた。「だから、患者たちの間で、一つの習慣ができました。誰かが、この病院で亡くなったり、あるいはこの病院を出て、外の世界で生きていくことになったとき、その人が担っていた『役割』としての名前を、次の誰かが引き継ぐ、という習慣です」
「では、『陽子』という名前は」
「もともとは、三十年ほど前、この病院で亡くなった女性の名前です。彼女は、患者たちの記録を守り、外部との数少ない橋渡し役を担っていました。私は、彼女が亡くなったあと、その役割と名前を、引き継ぎました」
「あなたの、本当の名前は」
陽子は、静かに首を振った。
「それは、まだ言えません。私自身の名前を取り戻すのは、この件がすべて終わったあとにしたいんです」
「なぜですか」
「今、私が『陽子』という名前を捨ててしまえば、これまで『陽子』が積み重ねてきた信頼と約束が、途切れてしまう気がするからです」陽子は、静かに微笑んだ。「あなたのお父さんと交わした約束も、『陽子』としてのものでした。だから、この件が終わるまでは、私は『陽子』のままでいます」
哲太は、その言葉に、深い敬意を覚えた。
「あなたが『陽子』の名前を引き継いだのは、いつのことですか」
「今から二十年ほど前です。先代の陽子さんが病に倒れて、まもなく亡くなりました。彼女は、亡くなる直前、私にこう言いました。『いつか、あの記者――修司さんが、この病院にたどり着くかもしれない。その時は、彼の話を、きちんと聞いてあげてほしい』と」
「では、父と話したときには、もう」
「はい。私はすでに『陽子』として、あなたのお父さんと出会いました。あなたと交わした約束も、私自身の言葉です。先代から受け継いだのは、名前と役割であって、あの約束そのものではありません」




