第三十二章 「逃げれば終わる」
その夜、哲太は、旧病棟の一室で、初めて「最初の患者」と対面することを許された。
案内されたのは、簡素だが清潔に保たれた個室だった。老いた男が、窓際の椅子に座っていた。深い皺の刻まれた顔に、驚くほど澄んだ目をしていた。
「あなたが、修司くんの息子さんか」
声は、思ったよりも力強かった。
「はい。山本哲太です」
「私の名前は、もう長いこと、誰も呼ばない」老人は、静かに微笑んだ。「ここでは、みんな、私を『先生』と呼ぶ。皮肉なものだ。病気でもないのに、患者にされた人間が、いつしか、みんなの先生になった」
「あなたのことは、陽子さんから伺いました。もともとは、地元の中学校の教師だったと」
「そうだ。もう三十五年になる」老人は、遠い目をした。「最初の数年は、毎日、逃げることばかり考えていた。だが、ある時、気づいたんだ」
「何にですか」
「逃げても、誰も、私の話を信じないということに」老人は言った。「元患者、というレッテルは、それほどまでに重い。逃げて、外の世界で真実を叫んだところで、『あの人は、精神を病んでいたから』の一言で、片付けられてしまう」
「だから、逃げなかったんですか」
「逃げなかった、というより、逃げても意味がないと悟った、が正確だ」老人は言った。「私は、ここに留まることを選んだ。留まって、記録をつけ続けた。誰が、いつ、どういう理由でここに送られてきたか。それを、正確に記録し続けることだけが、私にできる抵抗だった」
「そして今、その記録が」
「使われる時が来た、ということだ」老人は、静かに頷いた。「哲太くん。覚えておいてほしい。逃げることは、時に、正しい選択だ。だが、逃げれば、その瞬間、私たちの言葉は、また『患者の妄言』として片付けられてしまう。だから今回だけは、私たちは、逃げないことを選んだ」




