第十九章 最初の患者
「最初の患者、という言葉を、聞いたことがありますか」
陽子は、話を続けた。
「この病院の患者たちの中には、私よりもさらに古くから、ここにいる人がいます。三十五年以上前、まだP-0という符牒すら生まれる前から」
「その人は」
「今は、施設の一番奥、旧病棟の個室にいます。名前は、明かせません。でも、彼こそが、このシステムの、最初の犠牲者です」
「どういう経緯で」
「当時、彼はこの地域の中学校で、教師をしていました。開発が予定されていた埋立地に、教え子たちを通わせることに反対し、行政に何度も異議を申し立てていた。それが、企業と行政にとって、都合の悪い存在になった」
「そんな簡単に、人を閉じ込められるものなんですか」
「簡単ではありません。指定医と呼ばれる、資格を持つ精神科医の診断書と、家族など保護者の同意――この二つさえ揃えば、制度上は、入院させることができてしまいます。そして、この病院では、その指定医の椅子そのものが、システムの側に取り込まれていました」
「でも、入院が続くかどうかは、定期的に見直されるはずですよね。第三者機関が、チェックする仕組みも」
「本来は、そうです」陽子は頷いた。「入院の必要性は、都道府県の審査会が、定期的に確認する決まりになっています。でも、その審査に必要な報告書を書くのも、結局は、同じ病院の指定医でした。監視する側とされる側が、同じ人間だったんです」
哲太は、言葉を失った。
「彼は、今も、その病院に」
「はい。もう外の世界を知りません。でも、彼は、自分がここに閉じ込められた経緯を、正確に記録し続けてきました。それが、この地下保管庫にある記録の、最も古い部分の出所です」
「なぜ、彼は逃げないんですか」
「逃げても、社会は、彼の言葉を信じないからです。『元患者』の証言など、誰も本気で聞かない。彼は、それを、身をもって知っている」
「じゃあ、今回のクーデターは」
「彼の、そして私たちの、最後の賭けです」陽子は言った。「逃げるのではなく、留まる。留まって、この場所そのものを、証拠として突きつける」




