第十八章 陽子の約束
深田のもとを辞したあと、哲太は再び病院に戻り、陽子と向き合った。
「深田さんから、全部聞きました。父が、僕を守るために、僕の記憶を消させたことも」
陽子は、静かに頷いた。
「では、次は私の番ですね」
「あなたは、あの頃、何をしていたんですか」
陽子は、少し遠い目をした。
「私は、あの頃、ここの患者でした。正式な意味で」
「正式な、患者?」
「はい。病気があったわけではありません。でも、当時の私は、家族から見放され、行き場をなくしていた。そこにつけこまれる形で、『患者』にされました」
「それが、二十年前?」
「もっと前です。私がこの病院に来たのは、今から三十年近く前」
「では、二十年前のあの時期は」
「あなたのお父さんと、初めて話をした時期です」陽子は言った。「修司さんは、この病院の患者たちに、直接会って話を聞いていました。誰が、どういう経緯で『患者』にされたのか、一人ひとりから証言を集めていた」
「危険な行動ですね」
「はい。でも、修司さんは、それを続けた。そして、あなたがこの病院に連れてこられたとき、私は、初めて彼の息子と会いました」
「僕と、話したんですか」
「少しだけ。あなたは、怯えていました。でも、聡明な子でした。私に、こう聞いたんです。『お父さんは、悪いことをしているんじゃないよね』と」
哲太の胸に、鈍い痛みが走った。記憶にはない言葉。だが、なぜか、それが自分の言葉だと、すんなり信じられた。
「私は、あなたに約束しました」陽子は続けた。「お父さんがしていることは、正しいことだ。だから、いつか、あなたがこのことを知る日が来たら、私たちが、証拠を守っていると。そう伝えると」
「それが、あなたの、二十年間の約束」
「はい。だから、私たちは逃げなかった」
哲太は、ふと、思い出したことを口にした。
「前に、地下保管庫で、あなたはこう言いました。『順番を間違えると、あなたは真実を、正しく受け止められなくなる。それは、私たちが二十年前に、一度失敗したことだから』と。あれは、どういう意味だったんですか」
陽子の表情が、初めて、はっきりと曇った。
「あの時、修司さんは、一度だけ、あなたに、ほとんどすべてを話そうとしたことがありました。あなたが怖がっていることに気づいて、誤魔化すより、正直に話した方がいいと考えたんです」
「僕に、全部を」
「はい。でも、あなたはまだ子供でした。話を聞いたあなたは、混乱して、怖くなって……次の日、学校の先生に、途中まで話してしまったんです。『お父さんが、悪い病院のことを調べている』と」
哲太の背筋が、冷たくなった。
「それで、どうなったんですか」
「幸い、先生は、ただの子供の作り話だと思ったようで、大事にはなりませんでした。でも、修司さんは、心底、肝を冷やしました。もし、その先生が違う人だったら、もし、その話が違う誰かの耳に入っていたら――あなたも、修司さんも、私たちも、無事では済まなかったでしょう」
「それが、失敗」
「はい」陽子は、静かに頷いた。「だから、修司さんは、考えを変えました。子供に、正直に、すべてを背負わせることはできない。むしろ、あなたの記憶そのものを、曖昧にする方が、あなたにとっても、私たちにとっても、安全だと」
「僕を、危険から遠ざけるために、僕の記憶を消す、という選択に、繋がったんですね」
「はい。あの失敗がなければ、修司さんは、もしかしたら、違う道を選んだかもしれません」陽子は、静かに、しかし率直に言った。「だから、今回、あなたに真実を伝えるときは、順番を、慎重に選びました。一度に全部ではなく、あなた自身が、受け止められる速さで」




