17th すれ違う二人
その後、上杉恵利子は大学病院を自主退職という名の解雇となった。有紗の件では不問に付すという有稔の言ったとおりに処遇された。院長室に呼び出された上杉恵利子は取り乱したり発狂したりすることもなく実に静かで穏やかだったという。
「……というわけなんだ」
「なるほど。しかしおとなしかったというのは少々気になるところではある」
有紗の最後の定期診察に付き添った有稔は大和から事の顛末を聞いた。恵利子はもっと取り乱し、有紗に対しての罵詈雑言の一つも言うものだと思っていた有稔は少し驚き、考える仕草をした。
『有紗の周辺はもうしばらく警戒したほうがいいかもしれないな。気をつけるべきは継母だけではないからな』
この日、二人はハイヤーで病院に来たために帰りは同じくハイヤーか徒歩となるわけだが、有紗の数歩先を行く有稔はハイヤーを待たずに歩き始めた。
「有稔さん、どこ行くんですか?」
「このまま歩いて帰る」
徒歩に驚いた有紗は小走りで有稔の元に駆け寄った。有稔を見上げると少々険しい表情をしていたもののそれ以外はいつもとは変わらなかった。
「待ってください。歩くの早いです」
明らかにコンパスの幅が違うので有紗は有稔に付いて行くだけで精一杯だ。有稔がそれに気づくと有紗の方を振り向き追いつくのを待ってから再び歩き始めた。有稔の歩幅は少し縮まった。そしておもむろに右手を差し出し有紗の左手を荒く掴んだ。
「君はこうしていないとすぐにはぐれるのだろ?」
「有稔さんが歩くの速いだけです」
いつか下校途中に考えたことがあった。有稔が有紗と一緒に歩くときはどうやって歩くのかと。有紗の隣を歩くか、数歩先を行くか、どうするのだろうと。今回の有稔を見て彼の行動は後者であると結論を出した。有紗は有稔に聞こえないように思わずクスっと笑った。
「何がおかしいんだ」
「いいえ、何も。ちょっと思い出しただけです」
もう冷たい風が吹く季節。街行く人々は足早になり、カップルは肩を寄せ合う。
有紗は繋がれた左手にギュッと力を込めた。他人から見れば二人は想い合う二人なのだろうが、実際はそうではない。有紗の胸がチクっと刺された気分だった。
「……私……」
言いかけて口を閉ざした有紗。今日は多忙を極める有稔が唯一半日休暇を取れた日である。自分のことで面倒をかけてはいけないと思ったのだ。有稔はそんな様子に気付くことなく歩幅を合わせて歩き続けた。
20分ほど歩いて着いた先は小高い丘にあるとある医療施設。どうしてこのような施設に来たのか有紗には分からなかった。有稔の知り合いが入院しているのだろうかと思った。
「今日は君とここへ来ようと思っていた」
「どうしてですか?」
有稔がその問いに答えることなくエレベーターは三階に到着し、また少し歩いた。
有稔がドアを開けるとそこには――。
「義父上、お久しぶりです。今日は彼女と共に参りました」
有稔の挨拶した相手こそ有紗の父親である上杉豪であった。
「おお、有稔君来てくれたのか、いつもいつも悪いね。久しぶりといっても毎週会っているけれどね」
その声を何年ぶりに聞いただろうか、有紗は目の前が滲んでくるのを必死にこらえた。当時豪の妻であった恵利子に三行半を突きつけられてからどこにいるかさえ分からなかった父親である。その父親が今まさに目の前にいることが信じられなかった。
「……お、お父さん……」
「有紗……私が分かるかね」
「今までどこで何してたんですか。私がどんな気持ちでいたか――」
豪は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「君のお父上は心の病で入院しているのだ。ようやく退院が見えてきたところだ」
ここまで豪が治癒したのはひとえに有稔の援助があってこそだということは有紗は知らない。目まぐるしく変わっていく様子についていくことができない有紗は大変戸惑った。
「今日は秋子さんはこちらには?」
「秋子は今売店に行っているよ。もうじき帰ってくると思うのだが……あ、帰ってきた」
「豪さん、お茶を……あら、有稔君いらっしゃい」
「お邪魔しています」
秋子は有稔から視線を隣に移すと涙ぐみ始めた。
「……有……紗……?」
有紗は信じられないものでも見るように目を見開きじっと秋子を見つめていた。
「……死んだんじゃなかったの」
有紗は幸せそうなこの二人を見ていると自然とある感情が沸き上がってくる。グッと拳を握りしめた。
「二人して私を、お姉様を捨てたってことですか。恵利子さんから離婚届を突きつけられたのは偶然なんでしょうけど、それにしてもやることが酷過ぎる。私が涙を流しながらお父さんお母さんって泣いて感動の再会だと思ったんですか。バカじゃないの」
有紗はついに怒りが頂点まで達し、まくし立てた。有紗を真季を捨てておいて気にかけることもなく豪と秋子が幸せであることが許せなかった。有紗のこれまでの苦労など何も知りはしない二人に対してお父さんやお母さんなどと呼べたものではない。
「有紗、これにはきちんとした理由があるんだ」
「有稔さんもグルだったってこと? あなたのことなんてもう知りません。顔も見たくない」
有稔の言う理由とは何なのか聞く気にもならなかった。有紗は病室から小走りで出ると有稔の前から姿を消した。
有稔は有紗を連れてくるのはまだ早かったか、もしくは連れてくるべきではなかったのではないかと後悔した。
「有稔君、私が有紗の顔が見たいと言ったのが悪いのだと思う。今は有紗のそばに行ってやっておくれ。あのような娘で申し訳ない」
「では失礼します」
有稔は軽く会釈すると有紗の後を追い、施設を出てすぐ有紗を捕まえた。振り返る有紗は目を赤く腫らし唇を噛み、じっと有稔を見据えた。
「有紗……」
名前を呼ぶ有稔の声がとても優しい。こういうときに優しく名前を呼ぶのは卑怯だ。
「有稔さん……私、気持ちが追い付いていないんです」
二人に再会できたことはとても嬉しいことであるはずなのに。どうして有稔は二人を知っているのか、どうしてここに入院していることを知っているのか。嬉しさよりも有稔に対して疑念がわいた有紗は、有稔を信じられなくなりそうだった。
「有紗。君の思っていることはおおよそ分かるつもりだ」
「……分かってないです」
「君の気持ちを考えないで連れてきてしまったことは悪かったと思う」
少しずつ信頼関係を築き始めた今なら、再会させても受け入れられるのではないかと思っての行動だった。一方でそうでない可能性もあることを想定していなかったわけではない。ある意味賭けだった。
「私の問題なんだから有稔さんは――」
首を突っ込まないで。
そう言いたかったが、有稔に阻止された。
「結婚した時点でもう有紗だけの問題じゃなくなっている。多少なりとも秦部家や私に影響はある」
不義の子が上杉宗家の人間というだけで敵が多いという事実を有紗は全く知らないようだが。
「有稔さんのこと嫌いになりたくないけど、信じられなくなりそうです」
いずれはこの問題に向き合わないといけないときが来るのかもしれないと薄々感じてはいた。それが少し早まっただけだ。むしろ有稔に感謝すべきなのだと有紗は無理矢理納得しようとしていた。
自宅に着いた二人は一言も言葉を交わさず、有紗は夕食の準備を、有稔は半日休暇を終えそのまま会社へ向かった。少し近づけたと思ったのはつかの間、すぐにすれ違ってしまった。




