師匠の矜持
「それは、一体どういうつもりだ?」
羽田空港国内線ターミナル。
お世話になったお礼として、わずかだけど現金の入った封筒を僕が差し出した際の、沼田二佐の返事だ。表情は分からないけど、今はちょっと怖い感じがする。
でも、今日もここ(羽田空港)まで車で送ってもらったし、駐車場代とかガソリン代とか・・・・
「私がこういうことが嫌いなことは、君は知っているだろう。さっさとそれをしまえ。君はこれからいろいろと苦労するのだから、自分のために使いなさい」
・・・・・でも、ずいぶんとお世話になったし、何も無しでは・・・・
「君が私に恩を感じているなら、それは貸しにしておこう。適当な時期に返してもらう」
・・・・・これ以上やると、叱られそうだ。
僕はしぶしぶ、封筒をリュックにしまう。
いつもの声色に戻った沼田二佐が、思いがけないことを伝えてくれる。
「知り合いを通じて、医学関係の点字翻訳書の校正者を募集している人物と連絡したよ。医者の中途視覚障害者で、現在点字を勉強している者がいると言ったら、君と連絡が取りたいと言われた。基本的に、校正作業は全国どこに住んでいてもできるらしいから、気が向いたら手伝ってみたらどうだ?僅かな額だが手当ても付くそうだ」
医学書の点字翻訳書の校正?それ、僕にぴったりの仕事だ。
でも、大丈夫かな。点字も勉強を始めたところだし、医学の知識も記憶だよりで、医学書を調べることもできないから、ちょっと無理かもしれない・・・・・
「対象は一般家庭向けの物なので、それほど高度ではないはずだ。それでも、医学関係で、分らないことがあったら、ある程度まとめて定期的に私に電話で聞けばいい。正確なことが知りたければ私が調べるのを手伝うよ。先方も出来るだけ視覚障害者を助けたいらしい」
そんな・・・・そこまでしてもらって・・・・
「君にその気があるなら、相浦で落ち着いた頃に、君のところに連絡が行くよう、私から伝えていおく。まずは、自宅でできることから手を付けるのが良いのではないか?先方も、君が失明して間もないことは知っているから、仕事量は相談に応じて調整してもらえるはずだ」
どうして二佐はそんなに優しいんですか?
どうしよう。うれしくて、涙が出るのを止められない。
「!おい!どうした?何故泣く?
ちょっと・・・・・頼むから泣き止んでくれ。周りの人たちの視線が痛い。まるで私が悪役みたいじゃないか」
・・・・ありがとうございます。
校正の件、やらせてください。僕は涙を拭いて無理やり笑顔を作る。
「分かった。ほら、もう泣くな。相浦で住む場所が決まったら連絡を入れなさい。私からも連絡する」
はい。連絡します。
あの、沼田さん、お願いがあります。
「なんだ?」
沼田さんの顔を忘れないために、最後に顔を触らせてもらってよいですか?
「顔?かまわんよ。どうぞ、好きなだけ触りたまえ」
僕は身長170cmで、沼田さんは180cm、ちょうど教子さんと同じくらいだ。
僕は沼田さんに近寄り、その体に寄りかかるようにしてその顔を両方の手でゆっくりと触れる。
髪の毛、耳、額と、記憶にある沼田さんの表情と照らし合わせるように確認しながら触らせてもらう。
「!!!・・・・・お、おい!・・・その眼!何とかならんか?」
え?目は見えませんけど?
「ちょっと閉じてくれ。あまりに挑発的すぎる!」
はあ。分かりました。
僕は素直に目を閉じて、さらに沼田さんの顔をゆっくりと触れる。目、鼻、唇・・・・そうだ。沼田さんはいつもきれいに化粧をされていたな。
「!!ちょっ!!!・・・まだか?・・・いつまで続くんだ?」
沼田二佐のお顔は、とてもやさしい作りですね。だから、あんなに優しいんですね?
「ううう・・・・!!!もうだめだ!!!貸しを返してもらうぞ!!!」
え?・・・あれ?
*****
彼は笑顔で振り返り、保安検査場から搭乗ゲートに消えていく。
彼は私が見えてないのだから、私の為に、その笑顔を見せてくれたのだ。如何にも彼らしい優しさだ。
本当は最後まで頼りになる師匠でいるつもりだった。だが、あの最後の顔を触れるのがすべて台無しにした。
あれは何だ?新手の拷問か?耐えられるはずがないだろう。焦点の合わない眼で、鼻が触れそうなくらい顔を近づけてきたと思うと、最後には目を閉じる始末だ。
こうなったら、一言、あの女に言ってやらないと気が済まない。私は相浦で彼の到着を待つ、気に食わない女に電話を入れる。彼女は、すぐに電話に出る。
「私だ!彼は今、搭乗ゲートに向かった。空港関係者が迎えに来てくれたから、長崎空港まではもう大丈夫だ」
電話先からはありがとうと返事が来る。
私はたまっていた鬱憤を一気にまくし立てる。
「よし。じゃあ最後に、重要なことを伝えるから、よく聞けよ?
次に彼が一人きりで街をふらふら歩いているところを見つけたら、この私が彼を攫って手籠めにするぞ。彼は私に警戒心がないうえ、目が見えないのだからな。私がその気になったら、たやすいことだ。今日までは我慢して、君のところに綺麗なまま送り出した。これで十分に義理は果たした。だから、次からは容赦はしない。私の下半身がいつまでもおとなしくしていると思うなよ?」
電話の向こうで女は一瞬、あっけにとられたようだ。
「先ほど、保安検査場前の別れ際に、彼の唇を頂戴した。彼のために言うが、彼自身にはその気がなかった。だが、あまりに隙だらけだったので、ありがたく頂いたよ。どうだ?少しは危機感が出てきたか?」
さすがに、女も返事ができないようだ。
「私は本気だからな?それが嫌なら、ちゃんと彼を大切にしろ。少しでも彼を泣かす様なことがあれば、私が彼を奪い去るからな。その覚悟で彼と付き合いたまえ!わかったか?佐伯一尉!!」
ふう。言ってやった。ああ、すっきりしたぞ。
そうだ、私はずっと彼が好きだったのだ。これが私の本心だ。師匠というのは弟子を愛する者なのだ!
ん?・・・・
この女、この期に及んで礼を言ってくるとは。
自分が彼に好かれている余裕のつもりか?
気に食わん。
「礼などいらん!!いいか!これは宣戦布告だ!自分だけが彼の好意を得られるものと思うなよ?以上だ。じゃあ切るぞ!」
・・・・ふう。
まったく、私もお人よしだな。
・・・・・
彼が頑張る姿を見るのは正直、辛かった。でもそんな彼の面倒を見る毎日は充実していた。
・・・・・
ああ、何か急に寂しくなるな。
・・・・・
いっそ、佐世保基地に、異動をお願いするか?
ふふん。あの女の驚く顔が目に浮かぶな。




