傍にいるために
ベッドサイドテーブルの上、僕はDVDプレーヤーから流れる音声指導を聞きながら、中途視覚障害者用の点字の参考書を指先でなぞっている。
入院した翌日、沼田二佐がわざわざ都内の大手書店で購入してきてくれたものだ。
その日以来、部屋にいるときは出来るだけ点字の勉強をしている。ここにいられるのはあと五日、退院したら、僕は自分の力で相浦駐屯地まで行かなければならない。
もともと記憶力の悪くなかった僕は、指先の感覚をつかむことで、速度は遅いが、ある程度、読めるようになってきている。
午後はできるだけ外を歩くようにしている。沼田二佐が準備してくれた視覚障害者向けの杖を使って、点字ブロックの感覚や、階段の上り下りなどを練習している。幸い、多くの看護師の女性が積極的に僕の練習に付き合ってくれるので、けがもなく一人で歩く感覚もつかめてきた。
ただ、いまだに階段の上り下りは苦手だ。最後の段を判断するのに時間がかかってしまう。
特に下りには気を遣う。一段一段、確認しながら降りるので、とても時間がかかってしまう。
早く杖の使い方に慣れないと。
*****
昼食後、外歩きの練習に看護師さんが付き合ってくれる時間まで、部屋で点字の勉強をしていると、部屋の引き戸がノックされ沼田二佐が入ってくる。
「立花一尉、入るよ。相変わらず熱心だね」
僕は音声ガイドのDVDを止める。
いつもは必ず閉める扉を、開け放しにして沼田二佐が部屋に入ってくる。どうしたんだろう。男性患者の個室の扉は閉めておけって、沼田さんが言っていたはずだけど。
「扉か?気にするな。そうだな。今日は天気がいい。空気を入れ替えたらどうだ?」
そう言って窓を開けてくれる。カーテンが揺れる音がして、心地よい風が頬をなでる。
今日は爽やかな天気なんですね。風がこんなに気持ちいい。
「分かるか?そうか。気持ちいいだろう。今日はこれを持ってきた」
沼田さんは、僕の手に厚手の紙を持たせてくれる。印刷はインクのようだ。僕には読めない。
「君は退役前に三佐に昇進した。今更、昇進は君にとって意味はないかもしれんが、尉官と佐官では退役に伴う待遇面、要は金銭面で差が出るからな。下世話な話になってしまうが、君には重要なことだろう」
はい。とても助かります。これで次の仕事を見つけるまで、しばらくは食いつなげます。
「・・・・なあ。なぜそこまで自立することにこだわる?小隊長は君一人の面倒を見ることぐらい、なんとも思わないぞ?それよりも、さっさと彼女のところに行って、面倒を見てもらったほうが良いのではないか?」
それではだめです。彼女は立派な方なんです。迷惑はかけられません。自衛官は家を長く空けることも多い職業ですから、彼女が不安になるようでは、僕は彼女のそばにいる資格がありません。
「・・・言いたいことは分かるが、別に彼女のところに行ってからでも、覚えていけるだろう?大体、君は彼女に会いたくないのか?彼女だって会いたいと思っているのではないか?」
・・・・会いたいです。とても。
「だったら、会いに行けばいいじゃないか。何なら、今ここで、彼女の名前を呼んでみろ。彼女はスーパーウーマンだからな。きっと、君の声を聞きつけて、ここに来てくれるぞ?」
・・・・僕は決めているんです。退院までにある程度一人で生きていけるようになろうって。迷惑をかけずに彼女のそばにいられる存在になって、その上で会いに行こうって。次に会ったら、もう二度と離れたくないんです。ずっと彼女の傍にいたいんです。
「・・・・・」
でも、今、彼女に会ったら、もうこれ以上、頑張れないかもしれない。そうなるのが怖いんです。
「・・・・・君はもう十分頑張ったろう。これ以上、何を頑張る必要がある?」
・・・・・
「ああもう。まったく、君らは、本当に難儀な奴らだな。見てるこちらがイライラしてくるぞ。もう勝手にしろ。とにかく、君をこの病院に置いておくのはあと5日だ。せいぜいその間、自立に向けたトレーニングに励むことだ。5日後には真っ先に相浦の彼女のところに行けよ。これは師匠の命令だ」
・・・・・・ありがとうございます。
沼田二佐は優しいですね。僕の事をこんなにいろいろ気をかけてくれて、本当に感謝しています。
「あのなあ。師匠と弟子の関係は永遠なんだ。どちらかが死ぬまで続く。いや、死んでもな。相浦に行っても、何かあったらいつでも連絡をしろ。・・・・いや。何もなくても、連絡しろ」
はい。連絡します。ありがとうございます。
*****
病室の外の廊下、連隊本部で発令された彼の辞令をここまで運んだ一人の女性自衛官が立っている。
陸上自衛隊の制服を凛々しく着こなす彼女の肩の階級は真新しい一等陸尉。
タイトなスカートから伸びる足は、ひざから下が長い。
病室内の様子をうかがっていた彼女は、音を立てずにその場を去っていく。
立っていたその場所には、きれいな雫が地面に落ちて染みとなっていた。




