第15章 ガンを相談できる友
結婚しているおかげで、誰も相談に乗ってくれない。様子がおかしいのも気づいてもくれない。深刻な病気になっても頼れる夫は他の女性に夢中で無関心。でも、1人で乗り越えられる病気ではない。不安で怖い。どうしていいのかわからない。目の前にいる純子に、こんな重い相談をしてよいものかどうか?癌だと会社に知られて、追いだされてしまうかも知れない。何しろ、結婚して仲間をないがしろにしていたのは鏡子の方だったのだから。「どうしたん?何か様子が変やで。家でなんかあったん?」と純子が懐かしい関西弁で話し始めた。そういえば、純子も大阪出身だったっけ。上京した当時は、2人で東京弁や東京人の悪口を言い合っていた。関西弁は会社では絶対に使わない。なので、2人で飲む時だけ使うようになったのだ。言葉が変わると人格まで変わるような気がした。大阪弁を使うと、心で思っていることがすらすら話すことが出来た。忘れていた。そういえば、大阪弁で話すのも何年ぶりだろう?「もう駄目やわ。何もかも嫌になってもうた」と鏡子が大阪弁で答える。「何かあったん?夫の浮気か?それとも嫁姑問題か?」とお酒をぐいぐい飲みながら、こんにゃくをほおばっている。「何で、そう思うん?」と驚いて聞くと。「結婚10年目といえば、そんなもんやろ。悩みと言えば」と、お酒を飲み干して、鏡子のおちょこにお酒をついだ。
「純子は相変わらず呑気でうらやましいわ」と他人行儀になる。言葉によって心の距離感がわかるから不思議だ。「でも、それだけじゃ泣かへんよなぁ。何あったん?病気か?最近疲れやすかったもんなぁ」と心配そうに眼を覗き込んだ。「健康なのか。隠していても、わかるんかな?」「最近、調子悪そうやもの。誰の目から見ても。でも、怖くて声かけれんかった。」「怖いって?私が?」「そうやで、ここんところ話しかけたらアカンオーラあんだけ出しといて。」「ごめん。怖かったのは私の方やて。実は1週間前に告知されたんよ。癌って」と言うと目の前のお酒をぐいっと飲み干した。熱いものが喉から胃に流し込まれ、一気に体温が上がったようで、
頬が赤くなっているのがわかる。
「で、健二さんは何て?まだ話してないん?」と、優しく純子に言われ、返事もできないまま顔を横に振った。何か言葉を発したら、泣き出しそうな気がした。「まだ、旦那がいるだけマシやで。私の時なんて、田舎の母親に東京まで出て来てもらって、入院、手術やったけ。母親も、ええかげんいい年やろ。さんざんベッドの横で結婚話されて、もうウンザリやった」純子が癌で手術したなんて話は聞いたことがない鏡子は驚いた。「会社には、海外旅行に行ったことにしてもろたからな」仕事仲間に知れて、気を使われるのもうっとおしいし、ちょっと長かったけど、会社も社会保険で6割は保証してくれるから、ゆっくり静養するよう言われたし。ほら、4月で新人がいっぱい入って来た時やったし。クリエイティブディレクターも新人に、色々やらせてみて実力を測っていた時やったから、まぁゴールデンウィークもあったしな。最近は抗癌剤も日帰りで受けられるし、髪が抜けるほどキツイ薬じゃあなかったようで、仕事には、さしつかえなかったわ」と明るく喋る。「全然知らんかった。ごめんなさい。まさか純子も癌だったなんて」経験者がこんなに近くにいたことを知って、少し、安心した。「どこの癌だったの?ステージは?もう大丈夫なの?」やつぎばやに質問責めしてしまう。聞くと純子の癌は卵巣癌だったらしい。なので、今は片方取ってしまったので、子供は出来にくいそうだ。そのせいもあって、結婚をするのが怖いようだ。抗癌剤の影響もあるし、マル高も超えたので、もう結婚も子供もいらないと諦めたと言う。ただ、昨年母親も亡くなって、今度手術する時に付き添ってくれる親族がいないこと。家を借りる時にも保証人がいないと何かと不便だということ。結婚は子供を産み育てるためにするものだと思っていたが、年齢を重ねる度に家族があった方がいいと思い始めたということなどを話してくれた。癌は早期発見なら手術で結構簡単に取ることが出来るし、内視鏡の検査中に、小さなポリープくらいは取ってくれる。以前は手術の後に必ず抗癌剤を何度も何度も打たれたが、最近は抗癌剤の効力に疑問を持っている医者が多いようで、食事療法やサプリを勧めてくれる。結局腸内環境を整えることが必要なのだと教えてくれた。さすがに経験者。癌対策や病院で仕入れた情報は、何も知らない鏡子に一番参考になった。「でも、健二さんは、もう何年も愛人宅で、家には帰って来ないので、このことを相談することもできない」と、純子に告白する。「やっぱりね。会社でも様子がおかしかったものね。しかも最近の彼の風采の上がらないことや洋服の趣味も悪いし、いきなりオッサンになったと皆で噂してたんやで。奥さんの鏡子に恋人でも出来て棄てられたんちゃう?って思ってたわ」「私は子供がいないからね。健二も帰って来ないから独身みたいなものだから。エステに行ったり、ネイルやファッションショーにも興味があるし、一人でコンサートだって行くしね」「一人で?」「そう、その方が身軽で気も使わなくて済むでしょう?」それは嘘だった。一人ぼっちで食事をするのも嫌だったし、イベントに一人で参加しても面白くない。映画を見ても、美術館やコンサートに行っても、一緒に感動をお喋り出来る友人とかいたらどんなにいいだろうと、いつも思っていた。結婚してから、友人とも連絡を取るのが億劫になってしまった。子供ができないこと。健二が浮気ばかりすること。姑に虐められていること。つい愚痴ばかりになってしまいそうで、秘密主義の鏡子は孤独を友にしてクールに気取って生きて来た。誰かに言ってしまったら、幸せそうな生活が壊れてしまう。人生に汚点を付けたくなかった。寂しい女だと知られて皆から同情と哀れみの目で見られたりしたら、生きてはいけない。だから、誰にも相談することができなかった。笑顔と共に会話も仕事以外はしなくなった。付き合いが悪いのは、健二とラブラブだからと思われていた。同じ会社なので不仲なのは知られたら色々仕事にも差しさわりがある。「誰にも言わないでね」と別れる時、純子に懇願していた。「癌のことも、健二の浮気のことも」と言うまでもなく純子は優しく肩を抱いて「できることがあったら何でも言うのよ。癌は一人で闘うとダメ。自分が癌を作っているんだから。寂しい人は癌になりやすいんやから。癌が好きなんはストレスと体温が低いことなんやて。嫌いなのは笑いと体温を上げられることなんやから。美味しいもの食べて、悩みは発散して笑い飛ばさな、やられてしまうから。」と言って背中をさすってくれた。スキンシップに飢えていたのか?心が何故かあったかくなった。「そうそう、鏡子は可愛い顔してるんやから、笑顔が一番似合ってる。」と一緒に笑ってくれる。
いささか飲み過ぎたせいかも知れないが「男が何だ」と怒ってみたり、次のお店は若い男前がいるバーに行って、若いアルバイトの男の子に絡んだり。「困ってるじゃない?ごめんなさいね」と鏡子は謝ってばかりだったけど、破天荒ではしゃいでいる純子に心は癒やされていた。朝まで飲んで、純子のマンションに帰ったのは5時過ぎだった。「ひと眠りして出社しようか。どうせクリエイターは昼からしか出て来ない奴ばかりやから、大丈夫。」そう言って着の身着のままでベッドに倒れこんで眠ってしまった。鏡子の意識は不思議なくらい冷めていた。そっとドアを開け、外に出た。朝の眩しい太陽が心地良かった。




