第14章 仕事のパートナーとの思い出話
「だいたい【おいしい生活】なんてコピー、やられたって感じだよね。全く何の広告か一目ではわからないのに、そこからの展開があれほど広がるコピーもないよね」と目を輝かせて純子は熱弁を振るっていた。糸井重里や中畑たかしを憧憬していた純子は、当時マスコミを賑わしていたトレンドウォッチャーとして有名な社長に憧れ入社したらしい。東急エージェンシーから独立し、優秀なクリエイター数人と会社を創立し、数冊の本を出して名を上げていた。オフィスには100人もの若いクリエイターが、プロジェクトごとに集いブレインストーミングに火花を散らしていた。特に社長も元々デザイナーだったこともあり、入社当時から目をかけてもらってデザインの仕事の楽しさを教えてもらった。人物自体もユニークで魅力的だったが、発想が常人ではない。すらっと背が高く、男前だったので会社にいる女性は皆社長に憧れていた。毎週月曜日に社長の言葉を聞くのが特に楽しみだった。クリエイター中心の事務所は、洗練されておりバーカウンターのようなものも設けられていて、休憩時には、そこでブレインストーミングが出来る。日頃担当スポンサーが違って話をする機会のない人と情報交換が出来るのが楽しかった。中目黒にあるその会社は渋谷駅を使う社員も多く、若いこともあってファッショナブル。たまに、ユニークなファッションで、じぶんの個性を主張しているデザイナーの子もいるが、社内はそんな個性的な人々ばかりでリアクションも味方も最初は理解不可能だったりするけど、馴染むと面白かった。「あのコピーは良かったよね。結婚しても本当に心に響くわ」と鏡子は、純子と組んだジュエリーマーケットのコピーのことを言っていた。小さなPOPに女性たちは絶賛してくれた。ちょうど、結婚指輪のキャンペーンだったと思う。鏡子も結婚を控え、ジュエリーショップをままわっていたら、ショップの販売員に、「お客様に好評なんですよ」とよく言われ、誇らしかった。【結婚しても恋人のまま】というコピーは、結婚式を前にしてマリッジブルーになりそうな不安な花嫁の心に未来を信じる光のようなものを感じさせたに違いない。「何言ってんの。あのコピーは鏡子がつぶやいた、何気ない言葉を使わせてもらっただけじゃない。忘れたの?」「エッ、そうだったっけ?」そういえば、このキャンペーンの制作物のブレインストーミングの時、ピンクの淡い映像とデザイン画が目に浮かび、すらすらとデザインを起こすことが出来たのを思い出した。エンゲージリングや結婚指輪をいっしょに見に行ってる恋人たちに、変わらぬ愛を思い出してもらえるリングをと。
あの頃は夢溢れ、幸せな未来に胸躍らせていた頃だった。「あの頃の鏡子は、ノリにノッていたよね」と意地悪そうに笑う。「そうだったね。あの頃に戻りたいよ」と泣きそうになる。
関西出身の鏡子は、なかなか会社に打ち解けることができなかった。キャリア組で入社したので、いきなりメインスポンサーの担当にされたが、実は東京へのコンプレックスもあって、怖かったのだ。東京で認められるのか?馬鹿にされないか?大きな仕事が出来るのは嬉しいが本当に自分の実力で通用するのか?などと、自信のない鏡子は他のメンバーがライバルのような気がして打ち解けられなかったのだ。同期で入った純子と、あるプロジェクトで組んで、言いたいことの言える優秀なパートナーに触発されて思いもよらない広告賞を取ることができた。賞を取ると、実力が内外で認められたようなもので、業界の有名人とも交友が出来た。横のつながりも出来て、メジャーデビューしたかのように皆から一目置かれるようになった。女性同士というのも、珍しく、若いのでスポンサーはもちろんマスコミ関係者や関連会社のお偉方にも可愛がられた。そんな絶頂期の時に健二に交際を求められ、ゴールイン。仕事も恋も一番幸せだった。人生の全盛期だった。しかし、結婚と共に多くのものを失った。夜遅くまで仕事をすることが出来なくなったし、周囲も遠慮して飲みに誘わなくなった。仕事のメンバーとおもいっきりクリエイティブ論争をしていたのに、自分だけ仲間はずれにされたような疎外感に苛まれ、仕事もやりにくかった。何しろ、まるで健二の持ち物になったように、行動の全てに健二の了承が必要な空気があって、周囲の人との間に目には見えない壁を感じて孤独だった。
女性たちは結婚生活に興味津々だったが、羨望で裏では悪口を言っているのを知っている。とはいえ仕事は好きだったし、人間関係も深くは付き合えないが喧嘩や支障があるわけでもなく、日々は忙しさの中で忙殺されてきたのだ。一人暮らしの女性スタッフだって、30歳過ぎると会社では居づらい雰囲気。若い可愛い女の子に男性社員の興味は移り、いきなり「オバサン」扱いされる。
仕事帰りの飲み会にも、あまり誘われなくなる。後輩が多くなって、どこに行っても奢らされるようになる。世に言う【売れ残り】とみなされ、声をかけてくるのは既婚者ばかり。誘われても愛人候補。結婚したくても話が来なくなる。どんなに仕事で成功しても、たくさんのお給料を貰っても、一人は寂しい。だから、いいタイミングで結婚出来たと思っていた。なのに、鏡子は孤独だった。独身時代よりもずっと。




