従順な娘〜もれた言葉
倒れたのは、十一月の終わり。
ずっと疲れていると感じていた。
その日は朝から頭が重かった。
でもやらなければいけないことが山積みだった。
業務マニュアル刷新の最終確認、セキュリティレポートの提出、午後には他部署からのトラブル対応の依頼も来た。
断る理由はない。
特にマニュアルは誰かにお願いできるように。
少しでも楽になるように、と思って始めたことだ。
たぶん夕方。気づいたら、病院に運ばれていた。
点滴に繋がれて、天井を見ていた。
過労と睡眠不足、と先生は言った。
特に重大なものは何もない。
考えていたより限界だった、ということみたいだ。
誰かが連絡してくれたらしく、宮本さんが来た。
「友梨さん」
「宮本さん、すみません、迷惑かけて」
「まだそんなことを。その気持ちは尊重するけど、無理しすぎだよ」
宮本さんは椅子を引いて座った。オフィスでよく見る動作だった。
「大丈夫だと思ったのですが」
「大丈夫じゃなかったね」
私は何も言えなかった。
「友梨さん、言っていい?」
「はい」
「しんどいって言って欲しかった。俺ももっとできたと思う」
しんどい、と言えなかった理由を、私は探した。
迷惑をかけたくなかった。
評価を失いたくなかった。
でも、言いかけて止まった。
それだけじゃない気がしたからだ。
「言っても、何も変わらないと思ってたから」
自分の口から出た言葉に、私は少し驚いた。
今まで言ったことのない理由だった。
でも言ってみると、それが一番正確な気がした。
「変わらないかもしれない。でも言ってほしかった」
「なぜですか」
「知りたかったから。あまり手伝いすぎるのも迷惑かもと思った」
宮本さんはそれだけ言って、それ以上説明しなかった。
私はしばらく、点滴の管を見ていた。
「宮本さん」
「うん」
「助けてください」
声に出してから、自分でも驚いた。
武器として言ったわけじゃなかった。
同情を引こうとしたわけでもなかった。
ただ、そうだった。
助けてほしかった。それだけだった。
宮本さんは黙っていた。しばらくして、「わかった」と言った。
何かが、ゆっくりほどけた気がした。
三日間、入院した。退院してから一週間、休暇を取った。
宮本さんが毎日、夕方に連絡をくれた。
電話ではなく、短いメッセージだった。
「調子はどう?」とか「何か買い物いる?」とか。私は短く返した。
ある日のメッセージに、いつもと少し違う空気があった。
「会社の業務がうまく回らなくなっている。一人に押し付けたツケを払っているよ」
「俺も断った、専門じゃないから。委託して高くついてるよ」
返し方が分からなかった。
宮本さんが怒っているのか、呆れているのか、それとも別の何かなのか、分からなかった。
そのメッセージがしばらく頭から離れなかった。
だめだ。
もう、この会社辞めようと思った。
ある日、宮本さんから「今日、少し話せる?」とメッセージが来た。
「はい」と返した。
宮本さんは近くの喫茶店に来た。
私は紅茶を頼んだ。宮本さんはコーヒーを頼んだ。
「体はもう大丈夫?」
「だいぶ良くなりました」
「そっか」
少し沈黙があった。
「友梨さん、これからどうするの」
「転職を考えてます。また同じことしそうで」
「どこか当てはある?」
「しばらく休みながら探そうかと」
「そっか」
また沈黙があった。
宮本さんはコーヒーを一口飲んで、テーブルを見ていた。
何かを言おうとして、何度か止まっているのが分かった。
「俺も辞めようと考えてる」
「えっ」
「友梨さんのことがあって、改めて思った。使い捨てにする会社で、何年も働く気にはなれなくて」
私は自分の中を確認した。
宮本さんが辞める。
それが何を意味するのか、うまく整理できなかった。
ただ、完全に会社に戻る選択は、もうなくなった気がした。
「完全に回復したら食事でも行こうよ」
「はい、ぜひ」
帰り道、一人で歩いた。空は暗くて、街灯がついていた。
助けてください、と言った夜のことを思い出した。
あの言葉は、今まで言った言葉の中で一番本音に近かった。
ただ、本当にそう思ったから、そう言った。それだけだ。
「私はこうしたい」と言うことも、今日初めてちゃんとできた気がした。
辞めるとか言ったら、もっと頑張れとか言われるんじゃないかって、今まで止めていた言葉。
何かが大きく変わったわけじゃない。ただ、私を優先している私がいる。
それだけで、今は十分だと思えた。




