従順な娘〜母の構造
母から電話が来たのは、木曜日の夜だった。
「あ、友梨、最近全然帰ってこないねぇ、お母さんな、最近ちょっと体の調子が悪くて」
「どこが?」
「頭が痛くて、めまいもして。病院行ったら、ストレスだって言われたんだけど、ストレスって言われてもね。
お父さんは何も分かってくれないし、向かいの田村さんとのこともまだ解決してないし、
友梨が帰ってきてくれたら少し楽になると思うんだけど」
私は画面の時計を見た。二十一時を過ぎていた。デスクには今日の積み残しがある。
「今週は難しいかな」
「そう……まあ、いいけど。私がなんとかするから」
私がなんとかするから。
この言葉を聞くと、罪悪感が湧いてくる。助けてほしい、という意味だと分かっている。
分かっているけど、行くとも言えない。
その罪悪感を消すには……
「来週の土曜なら行けるよ」
「本当? よかった。待ってるから」
電話を切って、私はしばらくスマホを持ったままでいた。
土曜日、実家に帰った。
母は玄関に出てきた時から少し顔色が悪いように見えた。
でも私が上がると、すぐにお茶を入れ始めた。
「友梨が来てくれると思って、昨日から煮物作ってたのよ」
「ありがとう」
「体調悪くてもね、友梨のためだから」
あなたのために。
それはありがたいと思う。
でもそんなこと言わないで欲しいとも思った。
テーブルに並んだ煮物を食べながら、私は母を見ていた。体調が悪い、とは言うものの、
よく動くし、よくしゃべっている。
私が帰ってきてからずっと、向かいの田村さんのこと、父のこと、親戚の誰それのこと、話が止まらない。
「最近はあまり話ができる人がいなくて。寂しくて。友梨がいると張り合いがあるわ」
「電話してるじゃない」
「電話と直接会うのは違うでしょ。友梨は分かってないのよ、お母さんがどれだけ心配してるか」
私は煮物を食べた。昔から知ってる味、おいしい。
母は料理が上手だ。
「お見合いの件、まだ考えてる?」
「考えてる」
「あのね、友梨が幸せになってくれることが、お母さんの一番の願いなの。安心したいわ」
「分かってる」
また同じ言葉を言った。
分かってる。
でも何を分かっているのか、私にはよく分からない。
夕方、母が横になると言ったので、私は一人でリビングにいた。
実家の天井を見上げながら、私はずっと前から考えていたことを、ようやく言葉にしようとしていた。
私は母は不幸だと思っている。
そう思ったのはいつ頃からだろう。
ずっとそこにある感覚だったけれど、今日初めてはっきりと見た気がした。
母の不幸は本物だ。
寂しいのも本当だと思う。
体調が悪いのも嘘じゃないだろう。
ただ、その不幸が、いつも私に向かってくる。
父はリビングの隣の部屋にいるはずだった。
この家に二人で住んでいる。
それでも母は「私がなんとかするから」と言う。
父では埋まらない何かが、ずっとそこにあるのだと思う。
助けてほしい、とは言わない。
私がなんとかするから、と言う。
友梨のためだから、と言う。
お母さんがどれだけ心配しているか、と言う。
その言葉が来るたびに、私は動かずにいられなくなる。
断ると、母を傷つける怖さがくる。
傷つけたかと思うと、罪悪感が止まらないことを知っている。
だからどうにかしたい。
でも動いても、母の不幸は終わらない。
終わらないまま、また次の電話が来る。
そのひとつひとつが、私から何かを奪っていく。
何を奪っているのか、私にもおそらく母にもわからない。
帰りの電車の中で、私はぼんやりと窓の外を見ていた。
もっと強く言わないと、と宮本さんは言った。
その言葉を思い出した時、違う、と思った。
言っている、ただ届かないだけ。
でも今日、母に対して私は何も言えなかった。
言えなかった理由は、迷惑をかけたくないからじゃない。
母を傷つけたくないからじゃない。
なんだろう、と思った。
お見合いの話を断ることが、なぜあんなに難しいのか。
人員を増やしてくれと言うことが、なぜ簡単に流されるのか。
慣れていないのに慣れました、と言ってしまうのか。
全部、同じ場所から来ている気がした。どこか、私の一番最初の場所から。
窓の外に、夜の町が流れていった。
月曜日、宮本さんがまた来た。
いつもと同じように隣に座って、いつもと同じように作業を手伝った。
帰り際、宮本さんが言った。
「最近、どうかした? なんか考えてる顔してる」
「そうですか」
「週末、何かあった?」
「実家に帰って」
「お母さん、具合悪いんだっけ」
以前話したことを、宮本さんは覚えていた。
「まあ、そんなに大したことはなくて」
「そっか。でも友梨さん、今日なんか違う感じがする」
違う感じ。
私は自分の中を確認した。何かが違うかどうか、分からなかった。
ただ、土曜日から、胸の中に小さな石が一つ増えた気がしていた。
「何も変わってないと思いますけど」
「そう?」
宮本さんはそれ以上聞かなかった。
ただ、帰り際に「お疲れ」と言う前に、一瞬だけ私の顔を見た。
何かを言おうとして、やめたような感じ。
私はその空気に気づいた。
気づいて、そのまま流した。
カウンセリングをしていると、こんな言葉をよく聞きます。
「やりたいことが、わからないんです」
「希望した仕事のはずなのに、何か満たされなくて」
その背景に、記憶にも残らないくらい幼い頃からの刷り込みがあることは、珍しくありません。
こう生きるのが幸せだよ。これを目指して頑張ればいい。
親はたいてい、本当にそう信じています。そこに悪意はありません。
それどころか、深い愛情からきていることがほとんどです。
ただ、その愛情の中に、親自身の「正解」が混ざっています。
自分の本当の気持ちを言おうとした時、こんな言葉が返ってきた方もいるかもしれません。
「あなたのためを思って言ってるのよ」
その言葉の前では、反論することも、望むことも、どこかへ消えていきます。
そうして少しずつ、「自分が何を望んでいるのか」がわからなくなっていく。
友梨もまた、その構造の中にいます。
そして、母もまた、同じ構造の中にいます。
悪人はいない。それでも、何かが奪われていく。
ダブルバインドの物語。それを書いてみました。




