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従順な娘〜揺らがない私

「友梨さんって、怒らないんですか?」


後輩の小田さんが、お昼の休憩室でそう聞いてきた。


入社二年目の小田さんは、総務部にいる。


いつも少し遠慮がちで、廊下で会うと小さく会釈する子だ。


その日はたまたま自販機の前で一緒になって、急にそう聞いてきた。


「怒る?」


「なんか、友梨さんって何があっても穏やかじゃないですか。


忙しそうなのに、誰かに呼ばれたらすぐ行くし、顔に出ないし。それに責任者じゃないですか、二十五歳で。


本当にすごいなって思って」


「ひとりだから。すごい訳じゃないよ」


「いや、すごいですって。友梨さんって、憧れます」


小田さんはそう言って、コーヒーを持って出ていった。


私はしばらく、自販機の前に立っていた。


怒らない。すごい。憧れている。


そうだろうか。




月曜の朝、部長室をノックした時のことを思い出した。


先週の「明日、言おう」を、週をまたいでようやく実行した日だ。


「少しよろしいですか。人員についてなんですが」


「うん」


「現状、一人では回らない業務量になっています。週に十時間以上の残業が続いていて、


マニュアル整備や定期点検と並行するのは限界で」


部長は書類から顔を上げた。


困った顔ではなかった。むしろ、穏やかだった。


「太田くん、君だけで回せてるじゃないか。本当に助かってるよ、太田くんがいてよかった。


マニュアル整備が終われば落ち着くだろう。人員はしばらく増やせないけど、君ならもっとできると思うよ」


私はしばらく、何かを言おうとした。頭に血が昇ってきた、落ち着いてから。


回せていない、だから言いに来た。


マニュアルが終わっても、他の業務は減らない。


でも部長の顔は穏やかなままで、私の言葉は出る前に消えた。


「……分かりました」


廊下に出た瞬間、胸の中に何かがあった。熱いような、苦いような。


腹が立った。


でも同時に、君ならもっとできる、という言葉が頭の中に残っていた。


助かってる、君がいてよかった。その言葉を、私は何度も聞きたかった。


もっと聞けば報われる気がする。評価も失いたくなかった。


その二つが胸の中で並んでいた。


どちらが本当の自分なのか分からないまま、デスクに戻ってパソコンを開いた。


続けるしかない、と思った。


みんながすごいと言ってくれる。部長も認めてくれている。


それを手放すことが、私にはできなかった。




コーヒーのボタンを押しながら、私は小田さんの言葉をもう一度頭の中で繰り返した。


怒らないんですか。


怒っていないわけじゃない、と思う。


ただ、怒っている間に、もう消えている。




その週の木曜日、二十一時を過ぎても私はデスクにいた。


セキュリティレポートの仕上げが終わらなかった。


オフィスの電気は半分落ちていて、自分のデスクだけが明るかった。




そこに足音がした。


「あれ、まだいたの」


顔を出したのは宮本さんだった。


「宮本さんこそ、どうしたんですか」


「鍵、忘れた」




宮本さんは苦笑いして、自分の部署に向かった。


しばらくしてから、「あった」と戻ってきた。


帰るのかと思ったら、帰らなかった。


「何やってるの」


「レポートの仕上げです」


「見ていい?」


断る理由もなくて、「どうぞ」と言った。


宮本さんは後ろから画面を覗き込んで、少しの間黙っていた。


「この部分、表にした方が見やすくない?」


「そうですね」


「やろうか」


「いいです、自分でできます」


「いいから」


宮本さんは断られたのに、隣の椅子を引いて座った。


そのまま一緒に作業をした。一時間ほどで、レポートは仕上がった。


「ありがとうございます」


「いや、もう誰もいないよ。抱えすぎじゃない」


宮本さんは立ち上がって伸びをした。


「毎日こんな感じなの?」


「まあ、そうですね」


「しんどくない?」


「慣れました」


また同じ言葉を言った。


本心かわからない。


ただ、慣れていないと言うのが迷惑な気がした。




宮本さんは何も言わなかった。ただ、少しだけ眉を寄せた。


「帰ろう」


二人でオフィスを出た。夜の空気は冷たかった。


「お疲れ」


「お疲れ様でした」


宮本さんは駅の方へ歩いていった。


私も同じ方向だったけれど、少し間を置いてから歩き出した。




それからたまに、宮本さんが手伝いに来るようになった。


声をかけてくるわけではない。


遅くまで残っていると、気づけば隣に椅子を引いている。それだけだった。


最初は断った。自分でできます、と言った。


でも宮本さんは「いいから」と言って座った。


二度目もそうだった。


三度目からは断らなくなった。


手伝ってもらっている間、二人はあまり話さなかった。


作業に関係することだけ、少し話した。


それで十分だった。


宮本さんが帰る時は決まって「お疲れ」と言った。


私は「お疲れ様でした」と返した。


それだけだった。


迷惑をかけている、という感覚が最初はあった。


でも宮本さんは嫌な顔を一度もしなかった。だから少しずつ、その感覚が薄れていった。


薄れていったことに気づいた時、私は少し驚いた。




ある夜、作業が一段落したのが二十一時過ぎだった。


もう少し続けようと思っていた。残っている項目がまだあるから。


「腹減った」と宮本さんが言った。「何か食べて帰らない?」


手伝ってくれる手前、断りづらかった。


「いいですね、いきましょう」


鍵を忘れた夜に二人で帰ってから、何度目かの夜だった。


駅前の小さな居酒屋に入って、向かい合って座った。


宮本さんはビール、私は烏龍茶を頼んだ。


「烏龍茶でいいの?」


「すぐ眠くなってしまうので」


「そっか」


宮本さんはそれ以上聞かなかった。


仕事の話をした。


宮本さんが企画部に来た経緯とか、最近手がけているプロジェクトとか。


私もシステム部のことを少し話した。


「部長には言ったんでしょ、増員のこと」


「言いました。マニュアルが終われば落ち着くだろうって言われました」


「それで終わり? 人は増やせないってこと?」


「そうです」


「おかしくない? マニュアルが終わっても業務量は変わらないじゃない」


「そうなんですけど」


「もっと強く言わないと、向こうは業務内容理解してないと思うよ。部長パソコン触れないし」


もっと強く言わないと。


言っている。何度も言っている。


強く言えばどうにかなるなら、とっくにそうしている。


でも私は「そうですね」と言った。


言っている。届かないだけだ。でも私は「そうですね」と言った。


「なんか壁作ってる感じがするんだよね、友梨さん」


「壁じゃないと思いますけど」


「いつも大丈夫ですって言うから」


「大丈夫なんです、たぶん」


「たぶん、って言った」


宮本さんが少し笑った。責めているわけじゃない笑い方だった。


ただ、見ている、という感じがした。


それが嬉しいような、落ち着かないような、両方だった。




帰り道、電車の中で今日一日の言葉を頭の中でなぞった。


怒らないんですか、と小田さんは言った。憧れてるんです、とも言った。


もっと強く言わないと、と宮本さんは言った。


どれも、違う気がした。


でもよくわからないから違う、とは言えなかった。


言えなかった理由が、迷惑をかけたくないからなのか、評価を失いたくないからなのか、


それとも別の何かなのか、電車の窓に映る自分の顔を見ながら、私にはまだ分からなかった。


判断している私はいる。


どこかにいる。


ただ、それがどこにいるのか、まだ見つけられないでいた。

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