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白いカラス  作者: シンドゥー


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9/15

全愛の偶像 チセラ

 冥下の朝は、地上より少し遅い。


 空が見えないからだ。


 頭上に広がるのは、鉄骨と古い配管、崩れかけた上層道路の裏側ばかり。地上の陽光がその隙間を縫って落ちてくる頃、冥下の人間たちはようやく朝が来たことを知る。


 久夜は、拠点の窓際に立っていた。


 窓と言っても、ガラスは半分割れている。残った部分にも汚れがこびりつき、外の景色はぼやけていた。


 それでも、久夜は外を見ていた。


 冥下第5圏。


 かつて死蝕の星が支配していた場所。


 今ではその名を口にする者も少ない。


 だが、消えたわけではない。


 死蝕の星。


 殺した者の記憶も、技術も、異理すら継承した怪物。


 高井雫井。


 守りたかったものの名前すら忘れて、死の星になった少年。


 砕耀からその話を聞いて以降、久夜の中には妙な引っかかりが残っていた。


 星。


 強いだけではない。


 誰かの心に、消えない光か傷を残した者。


 久夜は自分の手を見る。


 天理家を捨てた手。


 天理の彫像へ刃を突き立てた手。


 今は、冥下の連中と総流社の血管を断とうとしている手。


 自分は何になろうとしているのか。


 星になりたいわけではない。


 英雄になりたいわけでもない。


 ただ、あの家に従うのが嫌だった。


 世界を、天理の言葉だけで測られるのが嫌だった。


「考えごとか?」


 背後から声がした。


 砕耀だった。


 手には古い端末がある。昨夜からほとんど寝ていないはずだが、その顔に疲労は薄い。


「別に」


「その顔で別には通らねえよ」


 砕耀は机の上に端末を置いた。


 机の周囲には、梟、ラナ、鈴木、そして数人の協力者たちが集まっていた。


 テーブルの上には、第7話で総流社の隠し倉庫から奪った記録媒体が並べられている。


 黒い記録結晶。

 紙の帳簿。

 破損した携帯端末。

 総流社の印が入った封筒。

 そして、ラナを「未分類人型荷物」として扱った分類表。


 ラナはそれを見ないようにしていた。


 しかし見ないようにすればするほど、そこに書かれている言葉は彼女の心に貼りついて離れなかった。


 未分類人型荷物。

 異世界線由来個体。

 魔法体系保持者。

 回収対象。


 名前はない。


 アステール・ラナという名は、どこにもない。


「……今日の目的を確認する」


 砕耀が静かに言った。


「俺たちは総流社の倉庫から証拠を奪った。だが、証拠を持ってるだけじゃ意味がない」


「地上に流すんだろ?」


 鈴木が椅子の背にもたれながら言う。


「一気にばら撒けばいいじゃねえか。これだけあれば総流社も言い逃れできねえだろ」


「できる」


 砕耀は即答した。


「巨大な組織ってのは、事実だけじゃ死なねえ。むしろ事実を握り潰すための仕組みを持ってる。総流社は流通屋だ。物も情報も、人の生活も、全部運べる。逆に言えば、運ばないこともできる」


 梟が低く呟く。


「薬を届けない。食料を遅らせる。記録を消す。噂を別の噂で上書きする」


「そういうことだ」


 砕耀は頷いた。


「だから今日は地上へ行く」


 ラナが顔を上げた。


「地上……?」


「ああ。証拠を流す前に、地上の空気を見る。総流社がどれだけ生活に食い込んでるか。どこなら情報が流れるか。誰が信じて、誰が見ないふりをするか」


 久夜は壁に背を預けた。


「戦いに行くわけじゃねえのか」


「今日はな」


 砕耀は久夜を見る。


「お前は暴れるなよ。地上じゃ天理の顔が目立つ」


「俺は天理じゃねえ」


「地上の連中から見りゃ、天理久夜は天理久夜だ」


 久夜は舌打ちした。


 捨てたはずの名が、こういう時だけ重くのしかかる。


「地上組は?」


 梟が尋ねた。


「工馬と土龍には裏から動いてもらう。表に出すには危険すぎる。観令に拾われると生活が終わるからな」


「私たちはいいの?」


 ラナが不安そうに尋ねる。


「ラナ、お前は外見だけなら地上でも目立たねえ。黙ってりゃな」


「黙ってればって何?」


「そのままの意味だ」


 砕耀が淡々と言い、ラナは頬を膨らませた。


 久夜は少しだけ笑った。


 ラナが怒れるなら、まだ大丈夫だと思った。


   ◇


 地上へ出る昇降路は、冥下第3圏の外れにあった。


 第5圏とは違い、第3圏にはまだ生活の匂いが残っている。


 薄暗い市場。

 違法に改造された屋台。

 亜人や異理者が身を隠して暮らす集合住宅。

 天界製品の中古品を売る店。

 古い音楽を流すスピーカー。


 冥下は一つではない。


 第5圏のように死の記憶がこびりついた場所もあれば、第3圏のように、隠れながらも日々を続ける場所もある。


 ラナは周囲を見回していた。


「冥下って、全部あんな感じなのかと思ってた」


「あんな感じ?」


「第5圏みたいな」


 砕耀は少しだけ目を細めた。


「第5圏は特別だ。悪い意味でな」


 梟が車椅子の車輪を静かに進める。


「でも、ここも地上から見れば同じ冥下。まとめて汚い場所扱い」


「雑だな」


 久夜が言う。


「世界なんてそんなもんだ」


 梟は淡々と答えた。


 昇降路の前には、古いポスターが貼られていた。


 半分剥がれ、雨染みで文字もにじんでいる。


 それでも、中心に描かれた少女の顔だけは、奇妙なほど鮮明だった。


 柔らかな髪。

 澄んだ瞳。

 こちらへ向けられた笑み。


 久夜は足を止めた。


 なぜか、目が離れなかった。


 見覚えはない。


 ないはずだった。


 だが、知っている気がした。


 画面越しでも、写真越しでもない。


 もっと奥の、心の端に引っかかるような感覚。


「……誰だ、これ」


 久夜が呟く。


 鈴木が振り向いた。


「お前、知らねえのか?」


「知らねえ」


「チセラだよ。偶愛の星」


 久夜は眉をひそめる。


「ぐうあい?」


「アイドル兼配信者兼歌手兼、まあ色々だな。ゲームもやるし、雑談もやるし、歌も出すし、企画もやる。今の地上じゃ知らない奴の方が珍しい」


 梟が少しだけ視線を逸らした。


「……曲は悪くない」


 鈴木がにやつく。


「お、梟も聴くのか」


「たまたま流れてくるだけ」


「たまたまにしちゃ再生リストに多いな」


 梟の狙撃銃の銃口が、わずかに鈴木の方へ向いた。


 鈴木は黙った。


 ラナはポスターをじっと見つめていた。


「きれい……」


 その声は、普段よりずっと小さかった。


 久夜がラナを見る。


「ラナ?」


「この人、すごいね」


「何が」


「分からない。でも……見てると、胸が少し軽くなる」


 ラナはポスターの前から動かない。


 剥がれかけた紙の少女は、ただ笑っているだけだ。


 それなのに、ラナはまるで誰かに名前を呼ばれたような顔をしていた。


 砕耀がポスターを見る。


 彼も一瞬だけ、視線を止めた。


 そしてすぐに目を逸らす。


「行くぞ」


「砕耀は知ってるのか」


「名前くらいはな。天界にも地上にも冥下にも広告がある女だ」


「冥下にも?」


「今見ただろ」


 砕耀は昇降路の扉を開ける。


「星ってのは厄介だ。記録や広告だけじゃねえ。人の心の中に入り込む」


 久夜はもう一度だけポスターを見た。


 チセラ。


 偶愛の星。


 知らないはずなのに、耳に残る名前だった。


   ◇


 地上は眩しかった。


 久夜は思わず目を細める。


 冥下の光とは違う。


 天界の光とも違う。


 地上の光は、人の生活の中にあった。


 駅前の大型ビジョン。

 総流社の配送車。

 飲食店の看板。

 制服姿の学生。

 買い物袋を下げた親子。

 足早に歩く会社員。

 スマートフォンを見つめる若者たち。


 そのどこにも、総流社の印があった。


 配送ロッカー。

 電子決済。

 食料品の物流管理。

 薬局の在庫端末。

 駅の荷物受取所。

 広告枠。


 砕耀が言った通りだった。


 総流社は血管だ。


 あまりにも自然に張り巡らされているため、誰も血管があることを意識していない。


 だが、詰まれば死ぬ。


「これ全部、総流社か」


 久夜が低く言う。


「全部じゃない。だが、大半には関わってる」


 砕耀が周囲を見回す。


「この街に住んでる連中のほとんどは、総流社を悪だなんて思ってねえ。むしろ感謝してる。荷物が届く。食料が並ぶ。薬が買える。生活が回る」


「裏で何しててもか」


「裏を知らなきゃ、表だけが事実だ」


 久夜は黙った。


 その時、大型ビジョンの映像が切り替わった。


 白い背景。


 淡い光。


 画面の中央に、少女が現れる。


 チセラだった。


 冥下の剥がれかけたポスターとは違う。


 映像の中の彼女は、完璧だった。


 笑みの角度。

 声の温度。

 目線の揺れ。

 指先の動き。


 そのすべてが、不自然なほど自然だった。


『今日も、ここにいてくれてありがとう』


 たった一言。


 駅前の雑踏が、わずかに緩んだ気がした。


 足を止める者。

 スマホを向ける者。

 イヤホンを片方外す者。

 見慣れているはずなのに、もう一度見てしまう者。


 久夜も、反射的に顔を上げていた。


 自分でそれに気づき、舌打ちする。


「……何だよ」


 砕耀も見ていた。


 だが、久夜と同じようにすぐ目を逸らした。


「気にするな。大体の奴がそうなる」


「お前も見てただろ」


「否定はしねえ」


 梟は画面を見上げていた。


 表情は変わらない。


 けれど、その目はいつもより少し柔らかかった。


 鈴木たちも妙に静かだ。


 むさ苦しい男たちが、大型ビジョンの前で揃って黙る光景は、久夜には少し異様に見えた。


「お前ら、そんなに好きなのか」


 久夜が聞く。


 鈴木が慌てて咳払いする。


「いや、推しってほどじゃねえぞ。ただ新曲が出たら聴くし、配信の切り抜きもたまに見るだけだ」


「それを世間ではファンと言うんじゃねえのか」


「違う。これは情報収集だ」


「何の情報だよ」


「地上の流行だ」


 久夜は呆れた。


 ラナは、画面から目を離せていなかった。


 チセラの映像が終わり、総流社の広告に切り替わっても、しばらくその場に立っていた。


「ラナ」


 梟が声をかける。


「……うん」


 ラナはようやく瞬きをした。


「ごめん。ぼーっとしてた」


「大丈夫か」


 久夜が聞く。


「うん。ただ、変な感じ」


「変?」


「なんか……あの人を見てると、ここにいていいって言われてる気がする」


 その言葉に、久夜は少しだけ眉を寄せた。


 ラナはこの世界に来た。


 元の世界には帰りたくない。


 でも、この世界で何をしたいのかも決めていない。


 久夜はそれを知っている。


 だからこそ、今の言葉が妙に引っかかった。


 砕耀は黙っていた。


 その目は、チセラの広告ではなく、それを見つめる人々の方を向いていた。


   ◇


 最初に向かったのは、地上の小さな情報取引所だった。


 表向きは古本屋。


 実際には、地上の噂、配信者の動向、企業の広告枠、学術系掲示板、地下フォーラム、冥下との細い連絡経路まで扱う場所だった。


 店主は、痩せた中年の男だった。


 砕耀の顔を見るなり、嫌そうに眉をひそめる。


「また面倒を持ってきたな」


「まだ何も言ってねえ」


「お前が来た時点で面倒なんだよ」


 砕耀は机の上に小さな記録媒体を置いた。


「総流社の未登録倉庫の記録だ」


 店主の表情が変わった。


「……帰れ」


「話くらい聞け」


「聞いたら巻き込まれる」


「もう聞いた」


 店主は深く息を吐いた。


「お前、性格悪くなったな」


「元からだ」


 久夜たちは店の奥へ通された。


 薄暗い部屋の中には、古い端末がいくつも並んでいた。壁には新聞の切り抜き、企業広告、政治家の写真、配信ランキング表が貼られている。


 その中にも、チセラのポスターがあった。


 久夜はまた視線を取られそうになり、意識して目を逸らした。


 店主は記録媒体の一部を確認し、顔をしかめた。


「本物なら爆弾だな」


「本物だ」


「だから厄介なんだよ。本物の爆弾は、爆発する前に処理される」


「地上に流したい」


「無理だ」


 即答だった。


「総流社は広告枠も配送網も決済系も握ってる。大手掲示板も表のニュースサイトも、どこかしらで総流社の世話になってる。真正面から出せば、偽物扱いされるか、反天界テロ組織の捏造扱いだ」


 鈴木が舌打ちする。


「じゃあどうすんだよ」


「小さく割る」


 店主は端末に指を走らせた。


「全部を一気に出すな。未登録倉庫の存在だけ、搬送記録の矛盾だけ、行方不明者リストとの一致だけ。別々の場所に、別々の人間が、別々の目的で見つけたように流す」


 砕耀が頷く。


「やっぱりそうなるか」


「それと、感情に刺さる形にしろ」


 久夜が眉をひそめる。


「感情?」


「証拠だけ見せても人は動かない。数字も帳簿も、見慣れてない人間にはただの模様だ。だが『未分類人型荷物』なんて言葉は違う」


 ラナの肩が小さく震えた。


 久夜が店主を睨む。


 店主は気づき、少しだけ声を落とした。


「悪い。だが、これが一番刺さる。人間を荷物として扱った記録。それが総流社の言葉で残ってる。これを最初の火種にするのがいい」


 ラナは俯いた。


 久夜は口を開きかけたが、ラナが先に言った。


「使っていいよ」


「ラナ」


「嫌だけど、使っていい」


 ラナは顔を上げる。


 その目は揺れていた。


 だが、逃げてはいなかった。


「私が荷物じゃないって証明するために、それを使うんでしょ。だったら、いい」


 砕耀は静かに頷いた。


「分かった。だが、お前の名前は出さない」


「うん」


「お前は荷物じゃない。証拠でもない。俺たちの仲間だ」


 ラナは少しだけ目を見開いた。


 それから、小さく頷いた。


   ◇


 次に向かったのは、地上の配信街だった。


 若者向けの店が並ぶ区域で、大型モニター、動画広告、音楽スタジオ、配信ブース、グッズショップが密集している。


 そこには、チセラが溢れていた。


 新曲の告知。

 ゲーム配信の切り抜き。

 雑談配信の名場面。

 企業コラボ広告。

 香水。

 飲料。

 衣服。

 学習アプリ。

 総流社の配送キャンペーンまで。


 久夜は思わず呟いた。


「……本当にどこにでもいるな」


 砕耀が答える。


「偶愛の星だからな」


「会ったこともねえ奴に、何でこんな気になるんだ」


「それが星ってもんだろ」


 砕耀はそう言ったが、表情は少し硬かった。


 ラナは完全に上の空だった。


 通りのモニターにチセラの配信告知が映るたび、足を止めそうになる。


 梟が車椅子を進めながら、ラナの袖を軽く引いた。


「見るなとは言わない。でも歩いて」


「うん……ごめん」


 ラナは歩く。


 しかし、また声が聞こえる。


『ねえ、今日も頑張った?』


 チセラの声。


 どこかの店頭から流れているだけの広告音声。


 それなのに、ラナは自分に言われたように感じた。


『頑張れなかった日も、ここにいていいんだよ』


 ラナの足が止まる。


 久夜が振り返る。


「ラナ」


「……この人、すごいね」


 ラナは笑っていた。


 けれど、その笑みは少し危うかった。


「私、何も決めてないのに。何もできてないのに。それでもいいって言ってくれてる気がする」


 久夜は言葉に詰まった。


 違う、と言うのは簡単だ。


 ただの広告だ。

 お前に言ってるわけじゃない。

 画面の向こうの女は、お前のことなんか知らない。


 だが、それを言えばラナの何かを壊してしまう気がした。


 その時、聞き慣れた声がした。


「少し面倒なものを見つけたようだね」


 振り返ると、航海流星が立っていた。


 モノクル越しに、街頭ビジョンを見上げている。


「流星?」


 久夜が驚く。


「偶然だ。地上で少し部品を探していてね」


「本当か?」


「半分は」


 流星は平然と答えた。


 砕耀が呆れたように息を吐く。


「お前、最初から様子見に来てただろ」


「中立にも心配くらいはある」


 流星はそう言って、チセラの広告を見た。


 画面の中の少女は笑っている。


「なるほど。これは、歌や映像だけではないな」


 久夜が眉をひそめる。


「何か分かるのか」


「確信はない。だが、受け手の欠落に入り込む性質がある。見る者、聞く者によって、声の響きも印象も微妙に変わっているように感じる」


「能力か?」


 流星は少し黙った。


「本人がそう認識しているかは分からない。そもそも、これは自覚して制御する類のものではないかもしれない」


 ラナが不安そうに流星を見る。


「悪い人なの?」


「おそらく違う」


 流星は柔らかく言った。


「彼女自身は、ただの人気者かもしれない。少なくとも、画面から見える限りではね」


「じゃあ、どうして」


「星になったからだ」


 流星の声が少しだけ低くなる。


「星は、本人の意思だけでは止まらない。人々の心に焼き付く。時に、本人が望まない形で」


 久夜は大型ビジョンを見る。


 チセラは笑っている。


 完璧に。


 誰にとっても、正しい角度で。


 誰にとっても、欲しかった言葉をくれるように。


「お前には効いてるのか」


 久夜が聞く。


 流星は少しだけ目を細めた。


「効いているよ」


「自覚あるのか」


「ああ」


「なら、何で見てる」


 流星は答えるまでに、ほんの少しだけ間を置いた。


「心地いいからだ」


 その声には、疲れがあった。


 長い旅の末に、戻れない場所を思い出した者のような疲れ。


「分かっていても、心地いいものはある。だから厄介なんだよ」


 流星は画面から目を離した。


「ラナ。今は深く見すぎない方がいい」


「……うん」


「君が何になりたいかは、画面の中の誰かに決めてもらうものじゃない」


 ラナは何も言わなかった。


 ただ、手を握りしめた。


   ◇


 その後、久夜たちはいくつかの場所を回った。


 古い新聞社の跡地。

 個人配信者が集まる貸しスタジオ。

 大学近くの掲示板管理室。

 総流社に依存していない小規模配送業者。

 冥下と地上の境界で情報を売る雑貨店。


 どこでも答えは同じだった。


 総流社の悪事を信じる者はいる。


 だが、表に出すには怖すぎる。


 総流社に睨まれれば、荷物が届かなくなる。

 商売が止まる。

 薬が来ない。

 決済が凍る。

 広告が消える。

 生活が詰まる。


 総流社は人を殺さずに殺せる。


 それが、地上での総流社だった。


 夕方、久夜たちは人気のない歩道橋の上で足を止めた。


 下には配送車が流れている。


 どれも総流社の印をつけていた。


 砕耀が手すりにもたれる。


「分かっただろ」


「何が」


「総流社を倒すってのは、建物を壊すことじゃねえ。信頼を断つことだ」


 久夜は下を見た。


 整然と走る配送車。


 その一台一台が、地上の生活を運んでいる。


「だが、信頼を断つには順番がいる」


 砕耀は続ける。


「最初は小さな疑いでいい。未登録倉庫。荷物番号の不一致。行方不明者と搬送記録の一致。そこから少しずつ繋げる」


「火種を落とすわけか」


「ああ。火は一気に燃やすと消される。だが、あちこちで煙が上がれば、全部は消せねえ」


 梟が静かに言う。


「第一弾は?」


「未分類人型荷物」


 砕耀はラナを見ずに言った。


「ただし、個人情報は出さない。言葉だけを出す。総流社の内部分類として」


 鈴木が頷く。


「次に未登録倉庫か」


「ああ。第三弾でマッドファザーとの接触記録の断片。第四弾で保安社との非公式接触。全部を一つに繋げるのは最後だ」


 久夜は砕耀を見る。


「お前、こういう戦いの方が向いてるな」


「殴るのも嫌いじゃねえぞ」


「知ってる」


 その時、砕耀の端末が震えた。


 画面に短い文字が表示される。


 工馬からだった。


『中継地点、準備完了。第2圏、旧映画館地下。送信は今夜可能』


 続いて土龍から。


『地盤経路確認済み。追跡された場合は地下搬路を落とす』


 砕耀は端末を閉じる。


「今夜、第一弾を流す」


 空気が変わった。


 ラナが小さく息を吸う。


「今日?」


「ああ。総流社も馬鹿じゃない。時間をかければ、証拠の価値が下がる」


「でも、準備は」


「準備は今日一日で十分だ。足りない分は、走りながら整える」


 久夜は笑った。


「雑だな」


「反逆なんて大体雑だ」


   ◇


 夜。


 冥下第2圏、旧映画館地下。


 かつて地上の娯楽施設だった建物は、今では半分沈むように冥下の一部になっていた。


 スクリーンは破れ、座席は抜かれ、映写室には古い機械が残っている。


 その地下に、工馬鉄磁が作った仮設中継装置が組まれていた。


 工馬本人はいない。


 地上生活組がここに直接顔を出すのは危険すぎる。


 だが、彼の技術はそこにあった。


 配線。

 磁気遮断装置。

 古い映写機を改造した送信機。

 総流社の追跡信号を分散させる偽装回路。


 鈴木がそれを見て口笛を吹く。


「工馬の野郎、相変わらず変態みてえな仕事するな」


 梟は高所に陣取り、周囲を警戒している。


 ラナは端末の前に座っていた。


 画面には、公開予定の短い文章が表示されている。


『総流社内部資料に存在する不可解な分類名

 “未分類人型荷物”とは何か』


 その下には、証拠の一部。


 分類表の断片。

 倉庫番号は伏せてある。

 ラナ個人につながる情報も伏せてある。


 だが、総流社の内部印だけは残っている。


 ラナはそれを見つめていた。


「怖いか」


 久夜が隣に立つ。


「怖い」


 ラナは正直に答えた。


「でも、嫌って言ったら、ずっと荷物のままな気がする」


「お前は荷物じゃねえよ」


「うん。分かってる」


 ラナは少しだけ笑った。


「でも、私だけが分かってても駄目なんだよね」


 久夜は黙る。


 その時、古いスピーカーから小さな音が流れた。


 誰かが接続確認のためにつけた端末から、動画の音声が漏れている。


『こんばんは、チセラです』


 ラナの肩が反応した。


 久夜も反射的に音の方を見た。


 映像は小さな端末に映っていた。


 チセラが、部屋着のような柔らかな服装で、ゲーム配信の準備をしている。


『今日は少しだけ、のんびりやろうかな。疲れた人は、無理しないで見ててね』


 ラナが画面を見る。


 吸い寄せられるように。


 久夜は端末を伏せた。


「今は見るな」


「……うん」


 ラナは目を伏せた。


「ごめん」


「謝るな」


 久夜は少し乱暴に言った。


「見ちまうもんは仕方ねえ」


 砕耀が送信装置の前に立つ。


「準備はいいか」


 梟の声が上から聞こえる。


「外に三人。総流社の連中かは不明」


 鈴木が銃を確認する。


「来るの早くねえか」


「総流社が証拠の流れに気づいたか、ただの巡回か」


 砕耀は端末を操作する。


「どっちでもいい。送信は止めない」


 久夜はダガーを抜いた。


「なら、守ればいいんだろ」


 梟が静かに言う。


「上は取った。旧映画館は私の劇場」


「言い方が少し気に入ってるだろ」


「黙って」


 外で足音が増えた。


 封荷衆の残党。


 総流社の隠し部隊。


 彼らは映画館の入口を破って入ってきた。


「記録媒体を渡せ」


 先頭の男が言う。


「未許可情報の流通は、総流社規定により回収対象となる」


 久夜は笑った。


「また回収か」


 ダガーを構える。


「お前ら、本当にそれしか言えねえのな」


 戦闘は短かった。


 だが、激しかった。


 旧映画館の座席跡を、久夜が駆け抜ける。


 投げたダガーが敵の武器を裂き、戻る刃が防具の留め具を切った。


 梟の狙撃が照明跡を撃ち抜き、落下した金具が通路を塞ぐ。


 鈴木が火花を散らしながら遮蔽物を作る。


 ラナは震えながらも、天井の古いスピーカーを落とした。


 大した威力ではない。


 だが、足止めにはなった。


 砕耀は送信装置から離れない。


 端末の画面に進行率が表示される。


 23%。

 41%。

 58%。


 敵の一人が砕耀へ突っ込む。


 久夜が間に入る。


「邪魔だ」


「こっちの台詞だ」


 久夜の刃が敵の腕を切る。


 殺さない。


 だが、動けなくする。


 総流社の兵たちは強くはない。


 だが、目的がはっきりしている。


 証拠を止める。


 それだけのために、何度も突っ込んでくる。


 進行率が上がる。


 76%。

 83%。

 91%。


 その時、敵の一人が隠し持っていた小型装置を投げた。


 磁気妨害。


 送信装置の光が揺らぐ。


「まずい!」


 鈴木が叫ぶ。


 久夜が走る。


 だが、間に合わない。


 装置が床に落ちる寸前、ラナが手を伸ばした。


「落ちて!」


 天井に残っていた古い映写機が、支柱ごと落下した。


 重い金属が磁気妨害装置を叩き潰す。


 轟音。


 埃。


 ラナは息を荒げていた。


 久夜が振り返る。


「やるじゃねえか」


「たまたま!」


「たまたまでも十分だ」


 送信装置の光が安定する。


 進行率。


 98%。


 99%。


 100%。


 砕耀が端末を叩く。


「流れた」


 その言葉と同時に、旧映画館の中の空気が変わった。


 敵の動きが止まる。


 彼らは失敗を悟った。


 第一弾は、もう地上へ落ちた。


   ◇


 その夜、地上の小さな掲示板に、一つの投稿が現れた。


 最初に見た者は、数人だけだった。


 次に、それを別の誰かが保存した。


 さらに別の誰かが、総流社の内部印に気づいた。


 ある配信者が、深夜の雑談でそれに触れた。


 小さなニュースサイトが、疑惑として取り上げた。


 数分後、投稿は削除された。


 だが、削除は遅すぎた。


 複製が生まれていた。


 切り抜きが作られていた。


 画像が別の場所へ流れていた。


 誰かが言った。


「未分類人型荷物って何だ?」


 誰かが答えた。


「総流社の内部資料らしい」


 誰かが笑った。


「どうせ捏造だろ」


 誰かが黙った。


「でも、印は本物に見える」


 火種は小さかった。


 だが、確かに地上へ落ちた。


   ◇


 旧映画館を出た時、ラナは空を見上げた。


 冥下の空に星はない。


 けれど、今夜はなぜか、どこか遠くで何かが瞬いているような気がした。


 久夜が隣に立つ。


「どうした」


「私、荷物じゃないって、少しだけ言えた気がする」


「少しじゃねえよ」


 久夜は前を見る。


「十分だ」


 ラナは笑った。


 その笑顔は、チセラの広告を見ていた時のものとは違っていた。


 不安定で、弱くて、迷っている。


 でも、ラナ自身の笑顔だった。


 その頃、地上の街では大型ビジョンにチセラの配信告知が流れていた。


『今日も、ここにいてくれてありがとう』


 その声は、地上にも、天界にも、冥下にも届いていた。


 誰かを励ます声として。


 誰かを縛る声として。


 誰かの空白に入り込む声として。


 そして同じ夜、別の場所では、総流社の役員たちが初めて沈黙していた。


 彼らの血管に、逆流が始まった。


 まだ世界は何も知らない。


 けれど、総流社の信頼に、最初の亀裂が入った。

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