全てを知るもの
火種は、思っていたよりも静かに広がった。
総流社内部資料に存在する不可解な分類名。
未分類人型荷物。
最初にその言葉を見つけたのは、地上の小さな掲示板に張りついていた数人の暇人だった。
次に、それを保存した者がいた。
さらに、総流社の内部印に気づいた者がいた。
誰かが捏造だと笑い、誰かが気味悪がり、誰かが過去の行方不明者情報と結びつけようとした。
投稿はすぐに削除された。
だが、削除は遅かった。
画像は複製され、切り抜かれ、別の掲示板へ流れ、短い動画に加工され、噂として広がっていった。
地上の人々は、まだ何も知らない。
総流社が何を隠しているのか。
冥下で何が起きているのか。
天界がどこまで記録を握っているのか。
何も知らない。
ただ、一つの言葉だけが、喉に刺さった小骨のように残った。
未分類人型荷物。
人を、荷物と呼ぶ言葉。
その夜以降、総流社に関する小さな検索が増えた。
未登録倉庫。
総流社 内部資料。
人型荷物。
荷物番号 欠番。
行方不明者 配送記録。
小さな波だった。
だが、波は立った。
◇
砕耀は古い端末の画面を見つめていた。
拠点の空気は重い。
第一弾の証拠は流れた。
しかし、それで総流社が崩れるわけではない。
むしろ、ここからが本番だった。
「勢いはある」
鈴木が言った。
「少なくとも、火はついたんじゃねえか?」
「火種だ」
砕耀は画面から目を離さずに答えた。
「まだ火じゃねえ。踏まれりゃ消える」
梟が端末に表示された投稿の推移を見ていた。
「削除が早い。総流社側も気づいてる」
「ああ。次は潰しに来る」
久夜は壁に背を預け、腕を組んでいた。
「来るなら来いよ。潰し返せばいい」
「そういう話じゃねえ」
砕耀は短く返す。
「総流社を殴って倒すなら倉庫を壊せばいい。だが、信頼を殺すには順番がいる。順番を間違えれば、俺たちがただの捏造犯になる」
「面倒くせえな」
「面倒だから情報戦なんだよ」
ラナは部屋の隅で膝を抱えていた。
自分の記録が火種になったことを、まだうまく飲み込めていない。
自分は荷物ではない。
そう言うために、荷物と書かれた記録を使った。
それは正しい。
分かっている。
でも、胸の奥が少し痛い。
ラナは端末を見ないようにしていた。
見ればまた、あの言葉を見つけてしまう。
未分類人型荷物。
そこに自分の名前はない。
アステール・ラナという名前は、どこにもない。
「次に何を流す?」
梟が尋ねた。
「未登録倉庫の番号か?」
「それだけじゃ弱い」
砕耀は眉間に皺を寄せた。
「倉庫番号は改竄される。存在しない施設だと言い切られたら終わりだ。こっちには証拠があるが、向こうには信用がある」
「じゃあ、どうすんだよ」
鈴木が苛立つ。
「信用を崩すには、信用の崩し方を知ってる奴に聞く」
砕耀は端末を閉じた。
「黎明の星に会う」
部屋の空気が少し変わった。
久夜が眉をひそめる。
「また星か」
「天城慧悟。世界最高峰の研究所、理に認められた天才。地上の監視網、観令の挙動、情報拡散の癖。その辺りを理解してる数少ない人間だ」
「人間なのか?」
「少なくとも、体はな」
梟が静かに言った。
「接触できるの?」
「する」
砕耀は立ち上がる。
「できるかどうかじゃねえ。必要だからする」
◇
地上の昼は、相変わらず眩しかった。
久夜はフードを深く被り、人混みの中を歩く。
総流社の配送車。
偶愛の星、チセラの広告。
駅前の大型ビジョン。
買い物袋を下げた人々。
何も知らない顔で笑う学生たち。
全てが平和に見える。
だが、その平和の血管には、総流社が流れている。
そしてその血管に、久夜たちは小さな毒を流し込んだ。
「最初の接触地点は?」
久夜が低く尋ねる。
「旧市街の古書店」
砕耀が答える。
「慧悟本人じゃなく、間に一つ挟む。いきなり本人へ行くのは危険すぎる」
「向こうもそう思ってるだろうな」
梟が車椅子を進めながら言った。
「こっちの動き、読まれてる可能性がある」
「読めるなら読ませときゃいい」
久夜は歩調を変えない。
「会えばいいんだろ」
梟は呆れたように息を吐いた。
「そういうところだと思う」
古書店は、地上の外れにあった。
高層ビルの隙間に残された、時代から置いていかれたような店。
砕耀が扉を開ける。
中には誰もいなかった。
店主もいない。
客もいない。
ただ、カウンターの上に一冊の本が置かれていた。
砕耀が本を開く。
中はくり抜かれていた。
そこに小さな紙片が入っている。
『尾が四つ。右後方の配送車、二階窓際の端末、新聞売りの老人、そして君たちの通信端末。まず切れ』
久夜が紙片を覗き込む。
「何だこれ」
「慧悟だろうな」
「もう始まってんのか」
「始まってるんじゃねえ」
砕耀は紙片を握り潰した。
「こっちが店に入る前に終わってたんだよ」
梟が窓の外を見る。
右後方の道路に、総流社の配送車が停まっていた。
不自然ではない。
この街に総流社の車があることなど、当たり前だからだ。
だが、当たり前に紛れるものほど見つけにくい。
「二階窓際」
梟が小さく呟く。
向かいの建物。
カーテンの隙間に、小さな端末の光。
「新聞売りの老人もいる」
鈴木が舌打ちした。
「こっちの端末もかよ」
砕耀は自分の端末を見た。
画面に、新しい通知が出ていた。
『その暗号は三日前に破られている。使用継続は推奨しない』
久夜が苛立った顔をする。
「性格悪いな、こいつ」
「合理的なだけだろ」
「お前、今のでよく平気だな」
「平気じゃねえよ」
砕耀は端末の電源を落とし、鈴木へ放った。
「潰せ」
鈴木が端末を分解し始める。
梟は窓の外へ銃口を向けない。
撃てば目立つ。
撃たずに切る必要がある。
「配送車はどうする?」
久夜が聞く。
「動かす」
砕耀は短く言った。
◇
尾を切るのに、三十分かかった。
久夜にとっては、苛立つだけの時間だった。
敵がいるなら斬ればいい。
追ってくるなら潰せばいい。
だが、砕耀はそれを許さなかった。
総流社の配送車には、別ルートから偽の受取信号を送った。車は勝手に別の地点へ向かった。
二階窓際の端末には、鈴木が拾った廃棄回線から過負荷をかけ、画面だけを焼いた。
新聞売りの老人には、梟が小さな紙飛行機を撃ち落とすように飛ばし、足元へ落とした。
紙には一言だけ。
『見えている』
老人は即座に店を畳んで去った。
通信端末は鈴木が完全に分解した。
その間、久夜は何もしていない。
それが一番苛立った。
「次はどこだ」
久夜が低く言う。
砕耀は古書店の奥に残された別の紙片を見つけていた。
『第三水路跡。だが、最短経路を通るな』
久夜の眉が動く。
「最短経路を通るな、だと?」
「お前向けの言葉だな」
梟が言う。
「うるせえ」
第三水路跡へ向かう道は複数あった。
一番早いのは、人通りの少ない裏道を抜ける経路。
久夜は当然そこを選びかけた。
だが、砕耀が止めた。
「やめろ」
「何でだよ」
「読まれてる」
「読まれてるから何だ。逆にそのまま行きゃ裏をかけるだろ」
「その考えまで読まれてる可能性がある」
久夜は舌打ちする。
「じゃあどうすんだよ」
「遠回りする」
「くだらねえ」
久夜は一歩踏み出した。
その瞬間、足元で乾いた音がした。
久夜は反射的に跳び退く。
路面の一部が沈んだ。
壊れかけの地下配管が露出し、細い警報線が切れている。
もし踏み抜いていれば、音と振動で周囲の監視が一斉に反応していた。
壁に、小さな紙が貼ってあった。
『君は最短距離を選びすぎる』
久夜のこめかみが動いた。
「……ぶっ殺す」
「今のところ、一方的に負けてる」
梟が淡々と言う。
「黙れ」
砕耀は紙を剥がし、しばらく見つめていた。
「こいつ、久夜の性格まで読んでやがる」
「会ったこともねえのにか」
「だから黎明の星なんだろ」
◇
第三水路跡に着く頃には、久夜たちは全員、疲労とは別の消耗を感じていた。
敵と戦ったわけではない。
走ったわけでもない。
だが、一つ動くたびに、すでに誰かの掌の上へ足を置いている感覚があった。
水路跡は、今では使われていない地下施設だった。
地上と冥下の境目にある古い排水設備。
湿った匂いがする。
壁には苔が生え、ところどころに古い監視装置の残骸があった。
梟は車椅子を止め、周囲を見渡す。
「高所がない」
「狙撃手対策か」
鈴木が言う。
「違う」
梟は天井付近を見る。
小さな反射板がいくつも仕込まれていた。
角度が嫌らしい。
どこへ銃口を向けても、射線の一部が反射で外部のセンサーに拾われる。
壁にまた紙があった。
『上を取る癖は優秀だが、単純だ』
梟の表情が消えた。
久夜が少し笑いそうになる。
梟は無言で銃口を久夜へ向けた。
「笑ってない」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってた」
砕耀は水路の奥へ進んだ。
そこには古い投影機が置かれていた。
電源は入っていない。
だが、砕耀が近づくと、勝手に起動した。
壁に文字が映し出される。
『接触拒否。理由は三つ。観令、総流社、そして君たち自身』
久夜が目を細める。
「本人はどこだ」
文字は続く。
『君たちは危険だ。物理的危険ではない。観測上の危険だ。君たちに接触することは、私が守るべきものを危険域へ押し上げる』
砕耀は黙って読んでいた。
『学者の城は、この件に関与しない。今後も接触しない。君たちがその名を出した場合、以降の全経路を閉じる』
ラナが小さく呟く。
「学者の城……?」
砕耀はラナを制した。
「今は聞くな」
投影の文字がさらに変わる。
『帰れ。君たちの火種は、君たちで処理しろ』
そこで投影は終わった。
水路跡に沈黙が落ちる。
久夜がダガーを抜いた。
「ふざけやがって」
「落ち着け」
砕耀が止める。
「落ち着けるかよ。ここまで人を動かして、帰れだと?」
「だから、ここからだ」
砕耀は投影機の裏を調べた。
そこに、一つだけ古い端末が残されている。
画面には入力欄。
短い文字。
『反論があるなら、三百字以内』
鈴木が目を丸くした。
「三百字?」
「多分、これ以上は読む価値がないってことだ」
砕耀は笑った。
「いい性格してる」
久夜は苛立ったまま言う。
「そんなもんで説得できんのか」
「する」
砕耀は端末に向かった。
指が迷わず動く。
文章は短い。
『総流社が揺れれば観令の注視は流通と天界系統へ傾く。君が隠したい研究の周囲に余白が生まれる。総流社物流記録には感情平坦化、薬品供給、地域別発症偏りの痕跡が残る可能性がある。こちらは証拠を持つ。君は流し方を知る。接触は君個人に限定。学者の城の名は出さない』
砕耀は送信した。
数秒。
何も起きない。
久夜が舌打ちする。
「無駄だったんじゃねえか」
その瞬間、端末に返信が表示された。
『続けろ』
砕耀の口角が上がった。
◇
最後の指定場所は、旧天文台だった。
地上の中心から少し離れた丘の上にある、使われなくなった観測施設。
今の空には星が見えない。
光害のせいだと人々は言う。
だから天文台は、長い間忘れられていた。
錆びた門を抜け、久夜たちは建物の中へ入る。
丸いドームの天井。
壊れた望遠鏡。
埃をかぶった観測記録。
そして、その中央に一人の青年が立っていた。
黒髪。
細いフレームの眼鏡。
派手さのない服装。
戦う者の姿ではない。
逃げる者の姿でもない。
だが、そこに立っているだけで、久夜は奇妙な違和感を覚えた。
隙がないわけではない。
むしろ、肉体的な隙はいくらでもある。
久夜なら、一歩で距離を詰められる。
梟なら、狙える。
砕耀なら、殴り倒せる。
鈴木でも、撃てる。
だが、誰も動かなかった。
動けば、その動きの意味まで読まれている気がしたからだ。
青年は、久夜たちを見る。
「十三手」
第一声は、それだった。
久夜が眉をひそめる。
「あ?」
「接触までに十三手。想定より二手多い。原因は天理久夜の短絡行動と、梟の射線確認の遅れ。砕耀の修正で致命域は避けた」
梟の目が細くなる。
久夜は一歩前へ出た。
「お前が天城慧悟か」
「そう呼ばれている」
「人を駒みたいに動かしやがって」
慧悟は表情を変えない。
「駒として扱っていない。危険物として扱った」
久夜の指がダガーに触れる。
砕耀が横から止めた。
「やめろ。斬る相手じゃねえ」
「斬れるだろ」
慧悟が静かに言った。
「斬ることはできる。斬った後、君たちは七分以内に総流社の監視に捕捉される。三十分以内に天理家の警戒網へ上がる。翌朝には君たちの第一弾情報は殺人犯の捏造として処理される」
久夜は慧悟を睨む。
「脅しか」
「予測だ」
「分かりやすく言え」
「必要な情報は渡した」
「そういうところがムカつくんだよ」
「君の感情は、私の説明義務を増やさない」
空気が張り詰める。
慧悟は久夜を見ていないようで、見ていた。
久夜の重心。
指の動き。
呼吸の乱れ。
踏み込む距離。
全てを数値ではなく、構造として見ている。
「君は速い」
慧悟が言った。
「だが、速い者ほど選択肢を削る。最短を選ぶ。最短は読みやすい」
「言ってくれるじゃねえか」
「事実だ」
久夜が踏み込もうとした瞬間、慧悟が視線だけを床へ落とした。
久夜は反射的に足を止める。
床板の一部が、わずかに浮いていた。
罠ではない。
ただ、古くなった板だ。
踏めば音が鳴る。
音が鳴れば、外の監視が拾う。
久夜は歯を食いしばった。
戦っているわけでもないのに、止められている。
それが腹立たしかった。
砕耀が前へ出た。
「話をしに来た」
「拒否したはずだ」
「だからメリットを出した」
「不足している」
「何が」
「君たちは情報を持っている。だが処理能力が低い。火種を置いた後の風向きが読めていない。次に出すべき情報の選択基準も不安定だ」
鈴木が小さく呟く。
「喧嘩売ってんのか、こいつ」
「事実を言っている」
慧悟は鈴木を見もせずに答えた。
砕耀は笑った。
「性格悪いな」
「性格は関係ない」
「そういうところだよ」
慧悟は砕耀へ視線を戻す。
「君の提示した利益は二つだけ有効だ。総流社への注視誘導。そして物流記録に含まれる症状分布の可能性」
「十分だろ」
「危険の方が大きい」
「学者の城を守りたいんだろ」
慧悟の目が、わずかに冷えた。
久夜はその変化に気づいた。
ほんの一瞬。
だが、確かに空気が変わった。
「その名を出すな」
慧悟の声は低かった。
「ここに研究チームは存在しない。私が単独で接触し、単独で判断し、単独で切る。君たちが彼らへ向かえば、私は君たちの経路を全て閉じる」
砕耀は頷いた。
「それでいい。こっちも巻き込むつもりはねえ」
「信用できない」
「信用しなくていい。条件にすればいい」
砕耀は端末を出さず、口頭で続ける。
「俺たちはお前を内通者として扱う。ただし、名前は残さない。接触記録も残さない。情報は片方向じゃなく交換だ。総流社の流通記録から、お前が必要とする症状分布や薬品供給の偏りを抜き出す。お前は、俺たちが地上に流す順番と形を設計する」
慧悟は黙った。
沈黙は長くなかった。
だが、誰も口を挟めなかった。
ラナは息を潜めている。
梟は慧悟の顔を見ている。
久夜は苛立ちながらも、動けなかった。
慧悟はやがて言った。
「協力ではない」
「何でもいい」
「限定的な情報交換だ」
「それでいい」
「私の指示に反した場合、次はない」
「分かった」
「分かっていない」
慧悟は砕耀を見る。
「君は理解しても、周囲は実行しない可能性がある」
視線が久夜へ移る。
「特に彼だ」
「俺かよ」
「君以外に誰がいる」
久夜は舌打ちした。
慧悟は壊れた望遠鏡の台座に手を置く。
「次に流すのは未登録倉庫ではない」
砕耀が眉を上げる。
「何だと?」
「倉庫は否定される。番号は改竄される。存在証明に時間がかかる。次に必要なのは、再現可能な不一致だ」
「具体的には」
「薬品供給記録と配送遅延ログ。そこに地域差を重ねる。感情平坦化、対人応答鈍麻、自己喪失感に近い症状が多い区域で、特定薬品と代替配送が不自然に変動している可能性がある」
鈴木が顔をしかめた。
「全然分からん」
慧悟は鈴木を見ない。
「君に分かる必要はない」
「腹立つな」
「重要なのは、総流社が否定しにくいことだ。未分類人型荷物は感情に刺さる。だが、感情は反論で濁る。次は数字を使え。数字は捏造と言われても、第三者が検算したがる」
砕耀が頷く。
「数字に餌を混ぜるのか」
「そうだ。疑う者に検算させる。総流社を信じている者ほど、否定のために調べる。調べれば、不一致に触れる」
「否定させるために流す」
「肯定を求めるな。否定を誘導しろ」
砕耀は笑った。
「いいな、それ」
「よくはない。必要なだけだ」
慧悟は淡々としている。
「三段階で流す。一つ、地域別の配送遅延。二つ、薬品在庫の欠損。三つ、未登録倉庫番号の断片。順序を逆にするな。倉庫を先に出せば、陰謀論として処理される」
「保安社との非公式接触は?」
「まだ早い」
「マッドファザーは」
「さらに早い。異世界線由来個体などという語は、一般層には毒性が強すぎる。理解より拒絶が先に立つ」
ラナが小さく震えた。
慧悟はその反応を見逃さなかった。
視線だけを向ける。
「君は、偶愛の星を見すぎるな」
ラナが顔を上げる。
「え?」
「君は空白が大きい。自分の帰属も、目的も、未来も定義していない。あの星は、そこに入り込む」
久夜が慧悟を睨む。
「おい」
「事実だ」
「言い方があるだろ」
「ない」
慧悟はラナを見る。
「画面の中の言葉は、君に向けられたものではない。だが君は、自分に向けられたものとして受け取る。そういう状態だ」
ラナは唇を噛む。
「……悪いことなの?」
「悪いとは言っていない。危険だと言っている」
「どう違うの?」
「悪は価値判断。危険は状態だ」
ラナは黙った。
分かったような、分からないような顔をしている。
慧悟はそれ以上説明しなかった。
久夜が低く言う。
「お前、どこまで知ってる」
慧悟は久夜を見る。
「君が知る必要のある範囲まで」
「そうじゃねえ。星のことも、観令のことも、総流社のことも。何でそんなに見えてる」
「見えているのではない。構造上、そうなる」
「またそれか」
「君は答えを人物に求めすぎる。世界は個人の意思だけでは動かない。根がある。根が二つあれば、枝の揺れ方も二種類に分かれる」
砕耀の表情が変わった。
「根?」
慧悟はそこで口を閉じた。
話す気がない。
久夜にも分かった。
今、何か重要なことを言いかけて、意図的に切った。
「続きは」
「不要だ」
「こっちは必要だと思ってる」
「順序が違う」
慧悟は眼鏡の位置を直した。
「知識には順序がある。順序を誤れば、真実は武器ではなく毒になる。君たちはまだ、毒を飲んで動ける段階にない」
「偉そうに」
「実際、君たちよりは知っている」
久夜は笑った。
怒りを通り越して、少しだけ面白くなってきた。
「本当にムカつくな、お前」
「感想は不要だ」
砕耀が間に入る。
「で、条件は」
慧悟は短く答えた。
「三つ」
指を一本立てる。
「一つ。学者の城の名を出すな。存在も匂わせるな」
二本目。
「二つ。私との接触経路は毎回こちらが指定する。君たちから来るな」
三本目。
「三つ。次の情報公開は私が組んだ順序で行え。変更する場合は、事前に理由を出せ」
鈴木が小声で言う。
「完全に上からじゃねえか」
慧悟は聞こえていた。
「上下ではない。機能分担だ」
「やっぱ腹立つな」
砕耀は少し考え、頷いた。
「飲む」
久夜が砕耀を見る。
「いいのかよ」
「こいつが必要だ」
「信用できねえ」
「信用はしない。使う」
慧悟がわずかに眉を動かした。
「その認識でいい」
砕耀は笑う。
「お互い様だ」
◇
慧悟は小さな記録片を取り出し、砕耀へ渡した。
砕耀は受け取る前に一瞬止まる。
「罠か?」
「罠なら渡す必要がない」
「まあ、そうか」
記録片には、短い設計図のようなものが入っていた。
情報公開の順序。
拡散経路。
偽の否定反応を誘発するための文面。
第三者検証を呼び込むための数値断片。
総流社が削除した時に逆に疑惑が増す配置。
砕耀は目を通し、息を吐いた。
「これを今ここで作ったのか?」
「来る前に八割。君たちの反応を見て二割修正した」
「化け物かよ」
「違う」
慧悟は淡々と答えた。
「学者だ」
久夜は記録片を覗いたが、ほとんど理解できなかった。
ただ、一つだけ分かった。
この男は戦えない。
剣も振れない。
銃も持っていない。
たぶん、久夜が本気で踏み込めば一秒で殺せる。
それなのに、この場にいる全員が、最初から最後まで慧悟に動かされていた。
それが、黎明の星。
久夜の知っている星とは違う。
死蝕の星のような恐怖ではない。
光年の星のような遠さでもない。
災焔の星のような圧倒的な熱でもない。
この男は、夜明けそのものではない。
夜明けが来る前に、闇の形を測る者だった。
慧悟は出口へ向かう。
「待て」
久夜が呼び止めた。
慧悟は振り返らない。
「何だ」
「お前は、俺たちが総流社を落とせると思ってるのか」
少しだけ沈黙があった。
慧悟は答えた。
「落とすだけなら可能だ」
「だけなら?」
「落とした後に何が崩れるか、君たちはまだ理解していない」
久夜は何も言えなかった。
慧悟は続ける。
「血管を切れば、毒も止まる。だが、血も止まる。総流社を壊すなら、代わりに何を流すかを考えろ」
「俺たちは政治家じゃねえ」
「なら、政治をする者を殺すな。残す者を選べ」
久夜の眉が動く。
「どういう意味だ」
「今は不要だ」
慧悟はまたそれだけ言った。
黒髪が、天文台の薄暗い光の中で揺れる。
「最後に一つ」
慧悟は出口の前で足を止めた。
「偶愛の星を軽視するな。戦闘能力の有無で危険度を測るな。君たちの周囲で最も深く影響を受けるのは、彼女だ」
視線はラナへ向いていた。
ラナは何も言えない。
「彼女の声が君の答えになる前に、自分の問いを持て」
それだけ言い残し、慧悟は天文台を出た。
追おうとした久夜の足が止まる。
どうせ追っても、また読まれている。
そう思ってしまった自分に、久夜はさらに腹が立った。
◇
慧悟が去った後、しばらく誰も話さなかった。
鈴木が最初に口を開く。
「何なんだよ、あいつ」
梟が静かに答える。
「星」
「いや、そうだけどよ」
砕耀は記録片を握っていた。
その顔には、疲労と苛立ちと、ほんの少しの興奮が混じっている。
「使える」
砕耀は言った。
「ムカつくが、使える」
久夜は天文台の外を見る。
街の明かりが遠くに見える。
地上の夜。
星の見えない空。
その下で、総流社の血管がまだ動いている。
「次は数字か」
「ああ」
砕耀は記録片をしまう。
「未分類人型荷物で感情を刺した。次は、否定する奴らに調べさせる」
「総流社を信じてる奴ほど、こっちの証拠を掘るわけか」
「そういうことだ」
ラナは黙っていた。
久夜が声をかける。
「ラナ」
「……私、自分の問いって何か分からない」
「今すぐ分かる必要はねえだろ」
「でも、分からないと、またあの人の声を聞いちゃう気がする」
久夜は少し考えた。
うまい言葉は出てこない。
慧悟のように、相手の空白を正確に言い当てることもできない。
砕耀のように、戦いの形へ変えることもできない。
だから、久夜は自分の言葉で言った。
「じゃあ、聞いてもいい」
ラナが顔を上げる。
「いいの?」
「ああ。でも、最後に決めるのはお前だ」
ラナは少しだけ目を伏せた。
そして、小さく頷いた。
天文台を出ると、地上の街に大型ビジョンが見えた。
遠くでチセラの広告が流れている。
声はここまで届かない。
だが、ラナは一瞬だけそちらを見た。
それから、ゆっくり目を逸らした。
◇
同じ頃。
地上の複数の小さな掲示板に、第二弾の情報が流れ始めていた。
総流社配送遅延ログ。
地域別薬品在庫の欠損。
特定区域に集中する不可解な代替配送。
そして、第一弾で出た未分類人型荷物との、まだ明示されない接点。
それは派手ではなかった。
誰かを怒らせる言葉でもない。
ただの数字だった。
だが、その数字は、否定したい者ほど見てしまう形で置かれていた。
総流社を信じる者が言った。
「こんなの偶然だ」
別の誰かが言った。
「じゃあ、計算してみよう」
火種は、煙に変わり始めた。
総流社はまだ燃えていない。
けれど、血管の奥で、確かに熱が生まれていた。
黎明の星は語らない。
ただ、夜がどの方向から薄くなるのかを、誰よりも先に知っている。




