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白いカラス  作者: シンドゥー


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11/16

血管の毒

数字は、感情よりも遅く燃える。


 未分類人型荷物。


 その言葉が地上へ落ちた時、人々はまず不快感を覚えた。


 何だそれは。

 気持ち悪い。

 捏造ではないのか。

 総流社がそんなことをするはずがない。

 いや、でも内部印は本物に見える。

 誰か詳しい人はいないのか。


 感情は一瞬で広がる。


 だが、一瞬で消える。


 怒りも、嫌悪も、疑念も、次の話題が流れてくれば押し流される。


 だから、天城慧悟は次に数字を置いた。


 総流社配送遅延ログ。


 地域別薬品在庫の欠損率。


 代替配送に切り替わった区域一覧。


 特定地域でのみ不自然に増えた医療関連物資の再配送記録。


 それらは派手ではなかった。


 人を怒鳴らせる言葉ではない。


 誰かの涙を映した映像でもない。


 ただ、数字だった。


 けれど、数字は疑われる。


 そして、疑われた数字は調べられる。


『こんなのただの偶然だろ』


『総流社ほどの大企業なら、多少の遅延くらいある』


『薬品の欠損率? 季節要因じゃないの?』


『いや、同時期の隣接区域と比較するとおかしい』


『代替配送が集中している場所、前に行方不明者の噂があった地域と被ってる』


『誰か統計できる人いない?』


『計算した。偶然にしては偏りが強すぎる』


 否定したい者ほど、数字を見た。


 総流社を信じている者ほど、総流社を守るために検算した。


 そして、検算すればするほど、違和感は増えた。


 火種は、煙になった。


 煙は目に入る。


 目に入れば、人は無視できない。


   ◇


 地上の小さな喫茶店で、砕耀は端末を眺めていた。


 店内には学生や会社員がいる。


 誰も砕耀たちの正体を知らない。


 隅の席で、久夜はフードを深く被ったまま水を飲んでいた。


 梟は車椅子をテーブルに寄せ、膝の上に小型端末を置いている。


 ラナは向かいの大型ビジョンを見ないように、必死にカップの中身をかき混ぜていた。


 ビジョンでは、偶愛の星チセラの新曲広告が流れている。


 音は小さい。


 だが、声は聞こえる。


『無理しなくても、大丈夫』


 ラナの指が一瞬止まる。


 久夜はそれに気づいたが、何も言わなかった。


 慧悟の言葉を思い出す。


 彼女の声が君の答えになる前に、自分の問いを持て。


 分かるようで、分からない言葉だった。


 久夜は慧悟が嫌いだった。


 いや、正確には気に食わなかった。


 あの男は、分かりにくいことを分かりにくいまま言う。


 相手に理解させる気がない。


 それなのに、的は外さない。


 ラナが危ういことも、久夜たちが数字の扱いに慣れていないことも、総流社の否定が逆に疑念を広げることも、全部読んでいた。


「広がってるな」


 鈴木が隣の席から身を乗り出す。


 今日は目立たない服を着ているが、体格は相変わらず目立つ。


「この勢いなら、総流社も終わりじゃねえか?」


「終わらねえ」


 砕耀は即答した。


「まだ疑惑だ。総流社は否定できる。数字の出所を怪しませる。反天界勢力の工作だと流す。こっちの人格を叩く。情報じゃなく、情報を出した奴を潰しに来る」


 梟が画面を見た。


「もう来てる」


 端末には、総流社に近いニュース配信者の動画が表示されていた。


『総流社を狙う悪質な捏造か? 冥下発の情報汚染に注意』


 久夜は鼻で笑う。


「早いな」


「予定通りだ」


 砕耀は端末を閉じる。


「むしろ遅いくらいだ。慧悟の設計通りなら、ここから総流社は二手に分かれる。表では否定。裏では情報源の特定と排除」


「情報源って」


 ラナが顔を上げる。


「私たち?」


「俺たちもだが、それだけじゃない」


 砕耀は低い声で言った。


「数字を拾って検算してる連中も狙われる」


 久夜の目つきが変わった。


「一般人だろ」


「ああ」


「総流社はそこまでやるのか」


「やる。直接殺すとは限らねえ。アカウントを凍結する。職場に圧力をかける。配送契約を止める。家族の薬を遅らせる。生活を詰まらせる」


 久夜はコップを置いた。


 少し強く置きすぎて、水面が揺れた。


「最低だな」


「だから総流社だ」


 砕耀の端末が震える。


 短い通知。


 発信者名はない。


 だが、文面だけで誰か分かった。


『検算者三名が危険域。優先順位は、薬剤師、学生、配信者。座標を送る。救助ではなく経路維持を選べ』


 慧悟だった。


 鈴木が画面を覗いて顔をしかめる。


「経路維持?」


 砕耀はすぐに立ち上がる。


「火を消されないようにするってことだ」


 久夜も立ち上がる。


「三人とも助ける」


「助けるだけじゃ足りねえ。情報を流し続けさせる必要がある」


「なら両方やる」


 砕耀は一瞬だけ久夜を見た。


 無茶だ。


 だが、今の久夜の言葉は悪くなかった。


 殺すためではなく、守るために動こうとしている。


 砕耀は小さく息を吐いた。


「分かった。手分けする」


   ◇


 一人目は、地上の小さな薬局にいた。


 古い商店街の端。


 大手チェーンに押されながらも残っている、個人経営の薬局だった。


 薬剤師の女は、総流社の薬品供給記録に疑問を持ち、地域別の欠品データを検算していた。


 ただの善意ではない。


 彼女の弟は、数年前に必要な薬が届かなかったせいで後遺症を負った。


 総流社は当時、「一時的な配送混乱」と説明した。


 彼女はそれを信じるしかなかった。


 だが、今回流れた数字を見て、初めて疑った。


 あれは本当に事故だったのか。


 薬局のシャッターは半分閉じられていた。


 その前に、黒い車が二台停まっている。


 車体に総流社の印はない。


 だが、梟はすぐに分かった。


「表の人間じゃない」


 梟は低く言う。


「封荷衆?」


「残党か、別部隊か。どっちでも面倒だ」


 久夜は路地の影に立っていた。


「殺すなよ」


 梟が言う。


「分かってる」


「本当に?」


「しつこい」


 久夜はダガーを抜く。


 薬局の中から、女の声が聞こえた。


「帰ってください。私は、ただ数字を見ただけです」


 男の声が答える。


「だから困るんですよ。見なくていい数字を見る人は、世の中を不安定にする」


「間違っているなら、総流社が説明すればいい」


「説明は上がします。あなたは、黙ってください」


 久夜は動いた。


 速い。


 だが、殺すための速さではない。


 入口にいた男の手首を打ち、武器を落とさせる。


 もう一人の膝裏を蹴り、体勢を崩す。


 ダガーの柄で顎を打つ。


 意識は飛ぶが、命は奪わない。


 店内にいた三人目が銃を抜こうとした瞬間、窓の外から梟の弾が銃だけを撃ち抜いた。


 薬局の棚から薬箱が落ちる。


 薬剤師の女は震えていた。


 久夜は短く言う。


「逃げるぞ」


「あなたたちは……」


「説明してる時間はねえ」


 梟が車椅子で裏口側へ回り込んでいた。


「端末は?」


 女ははっとしたようにカウンター下の端末を抱える。


「ここに」


「バックアップは?」


「クラウドと、古い記録媒体に」


「よくできてる」


 梟はそう言って、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 久夜は倒れた男たちを見下ろす。


 動けない。


 だが死んではいない。


 それでいい。


 今はそれでいい。


   ◇


 二人目は学生だった。


 大学の情報演習室で、総流社の配送遅延ログを解析していた。


 彼は正義感からではなく、単純に気になっただけだった。


 数字の偏りが気持ち悪かった。


 偶然にしては形が整いすぎていた。


 だから調べた。


 それだけだった。


 だが、世界を支える巨大企業にとっては、それだけで十分に危険だった。


 演習室のドアが開かない。


 外側からロックされている。


 中では、学生が一人で端末に向かっていた。


 画面には警告が並んでいる。


 アカウント停止。

 解析データ破損。

 不正アクセス警告。

 大学ネットワーク利用停止通知。


「何だよ、これ……」


 学生の顔から血の気が引いている。


 その背後で、天井の監視カメラが静かに角度を変えた。


 次の瞬間、教室の窓ガラスが外から割れた。


 鈴木がロープで飛び込んでくる。


「おら、逃げるぞ!」


「え、え、誰!?」


「説明は後だ!」


 学生が混乱している間に、ラナが窓の外から手を伸ばした。


「大丈夫、こっち!」


「いや、大丈夫って何が!?」


 鈴木は端末を引っこ抜こうとした。


 だが、学生が叫ぶ。


「待って! それ抜いたらデータ飛ぶ!」


「じゃあどうすんだよ!」


「あと二分で外部保存が終わる!」


 鈴木は舌打ちする。


「二分守れってか」


 廊下の向こうから足音が近づいてくる。


 大学の警備員ではない。


 もっと重い。


 訓練された足音。


 ラナは震えながら、天井の蛍光灯を見上げた。


「落とせるもの……落とせるもの……」


「無理すんな!」


 鈴木が言う。


「無理しないと、二分もたないでしょ!」


 ラナは両手を握る。


「落ちて!」


 廊下の天井に固定されていた案内板が落下した。


 大きな音。


 追手の足が止まる。


 続けて、消火器が壁から外れ、床を転がった。


 白い煙が噴き出す。


 ラナは息を荒げる。


 大した攻撃ではない。


 でも、足止めにはなる。


 学生の端末が音を鳴らした。


「保存、終わった!」


「よし!」


 鈴木は学生を抱えるようにして窓へ向かう。


「ちょ、待って、ここ三階!」


「死にゃしねえ!」


「いや死ぬ!」


 ラナが下を見る。


 ちょうど下に、古い広告幕が張られている。


 チセラの笑顔が印刷された巨大な布。


 ラナは一瞬だけ、その顔を見た。


 チセラは笑っていた。


 ここにいていい、と言っているように見えた。


 ラナは唇を噛む。


 違う。


 今決めるのは、私だ。


「落ちて!」


 広告幕を支える金具が、片側だけ外れる。


 布が斜めに垂れ、簡易の滑り台のようになった。


 鈴木が学生を抱えて飛び出す。


 悲鳴。


 布の上を滑り、地面へ転がる。


 ラナも続く。


 着地は不格好だった。


 でも、全員生きている。


 鈴木は立ち上がりながら笑った。


「やるじゃねえか、ラナ!」


 ラナは息を切らしながら、倒れた広告幕を見た。


 チセラの顔は、地面に半分隠れている。


 ラナは小さく呟いた。


「……ありがとう。でも、今日は私が決めた」


   ◇


 三人目は配信者だった。


 小規模だが、数字を分かりやすく解説することで少しずつ注目を集めていた。


 彼は総流社を攻撃したかったわけではない。


 ただ、視聴者に聞かれた。


「この数字って本当に変なの?」


 だから説明した。


 それだけだった。


 だが、その配信は消されなかった。


 代わりに、偽の切り抜きが大量に作られた。


 彼が言っていないことを言ったように編集した動画。


 冥下の反社会組織から金をもらったという偽情報。


 過去の発言を切り貼りした炎上誘導。


 配信者の自宅前には、すでに数人の記者もどきが集まっていた。


 砕耀は離れたビルの屋上から、それを見ていた。


「情報社の手口に近いな」


 梟の通信が入る。


『総流社単独ではない?』


「分からん。だが、少なくとも外注はしてる」


 砕耀は屋上の縁に立つ。


 下では、配信者が青ざめた顔でカーテンの隙間から外を見ていた。


 彼の部屋の端末には、コメントが流れている。


『捏造野郎』


『金もらってんの?』


『総流社に謝れ』


『いや、数字の説明は合ってたぞ』


『切り抜きおかしくない?』


『元動画どこ?』


 砕耀は端末を取り出す。


 慧悟から渡された設計図の中に、この状況に近い分岐があった。


 偽切り抜きが出た場合。


 否定するな。


 元動画を再掲するな。


 第三者に比較させろ。


 砕耀は笑った。


「本当に性格悪いな、黎明の星」


 彼は複数のアカウントへ短い情報を流した。


『切り抜きAと元動画Bの音声波形が一致しない』


『字幕生成ログに編集痕あり』


『比較用データはこちら』


 反応は早かった。


 配信者を叩いていた者たちの一部が、今度は切り抜きの検証を始める。


 否定したい者は、否定材料を探す。


 そして否定材料を探す過程で、偽造の痕跡を見る。


 砕耀は屋上から降りた。


 下の路地には、配信者の部屋へ入ろうとしていた男たちがいた。


 砕耀はその前に立つ。


「そこまでにしとけ」


 男たちは振り返る。


「何者だ」


「通りすがりの飯屋志望だ」


「ふざけてるのか」


「半分な」


 男が殴りかかる。


 砕耀は避けない。


 拳が腹に入る。


 骨が軋む。


 だが、砕耀は笑った。


「軽い」


 次の瞬間、砕耀の拳が男の胸を打つ。


 殺さない。


 ただ肺の空気を奪う。


 男が膝をつく。


 残りがナイフを抜く。


 砕耀は一歩踏み出し、肩で押し、肘で落とし、足を払う。


 派手ではない。


 しかし重い。


 倒れた男たちは、しばらく動けなかった。


 砕耀は彼らを見下ろす。


「命は取らねえ。だが、次に一般人へ手を出したら、手足のどれかは諦めろ」


 男たちは返事もできない。


 砕耀はそのまま立ち去った。


 配信者の部屋から、小さな声が漏れる。


「……ありがとうございます」


 砕耀は振り返らない。


「礼なら、自分の数字を最後まで見ろ」


   ◇


 夜になる頃には、状況は変わっていた。


 総流社は公式声明を出した。


『現在拡散されている一連の資料は、当社への悪質な攻撃を目的とした捏造の可能性が高く、関係各所と連携し厳正に対処いたします』


 だが、その声明には具体的な数字への反論がなかった。


 人々はそこに気づいた。


『捏造なら、どこが間違ってるのか言えばいいのに』


『総流社、数字に触れてなくない?』


『配送遅延ログの元データ、消された?』


『消したら答え合わせじゃん』


『薬品欠損の件、他の地域でも似た記録出てきた』


 総流社は削除した。


 削除したことで、疑いは増えた。


 否定した。


 否定したことで、検証者は増えた。


 火種は煙になり、煙は街の中へ入り込んだ。


 誰もまだ、総流社が燃えているとは思っていない。


 だが、少なくとも人々は、焦げた匂いに気づき始めた。


   ◇


 総流社上層管理棟。


 地上の喧騒とは別世界のような、静かな会議室。


 壁一面に、配送網の立体投影が浮かんでいる。


 赤い点がいくつも点滅していた。


 情報流出地点。

 削除失敗地点。

 検証拡散地点。

 疑惑増幅地点。


 役員たちは顔色を失っていた。


「なぜ止まらない」


「削除は行っています」


「なら、なぜ増える!」


「削除そのものが拡散理由になっています」


「情報社への追加依頼は?」


「費用が跳ね上がっています。向こうは今回の件を総流社単独の失態と見ており、正式な十柱間調整なしでは深く関与しないと」


「保安社は?」


「観令監査の件以来、動きが鈍いです」


 役員の一人が机を叩いた。


「たかが冥下の連中に、なぜここまで!」


 その時、会議室の扉が開いた。


 ゆっくりと。


 古い杖の音が響く。


 こつん。


 こつん。


 入ってきたのは、一人の老人だった。


 枯野万作。


 総流社の要。


 万具の翁。


 背は高くない。


 体も細い。


 顔には深い皺が刻まれ、白い髪は丁寧に撫でつけられている。


 手には古い杖。


 腰には小さな工具箱。


 服装は、どこか倉庫作業員にも、古い職人にも見えた。


 役員たちの一部が安堵した顔をする。


「枯野殿。ようやく来られたか」


 万作は会議室を見回した。


 そして、静かに言った。


「遅いのう」


「は?」


「手を打つのが、遅い」


 役員の顔が歪む。


「我々は対処している」


「対処ではない。反応じゃ」


 万作は杖をつきながら、立体投影の前へ歩く。


 赤い点を眺める。


「火種を踏めば消えると思うたか。違う。踏めば靴に火が移る。火の粉は歩く。歩けば広がる」


「ならば、どうすればよかったと?」


「最初の時点で、燃えるものを周囲からどかすべきじゃった」


 万作は振り返る。


「薬剤師、学生、配信者。狙ったな?」


 役員たちは黙った。


「馬鹿なことをしたのう」


「危険分子の処理です」


「危険分子ではない。薪じゃ」


 万作の声は穏やかだった。


 だが、会議室の温度が下がったように感じられた。


「殴れば燃える。脅せば煙る。消せば臭いが残る。あの者たちは、もう火元ではない。火を見に来た野次馬じゃ。野次馬を殴れば、火事は事件になる」


 役員の一人が苛立って言う。


「では、翁が出るべきでは? あなたは要だ」


「嫌じゃ」


 即答だった。


 役員たちが固まる。


 万作は平然としている。


「わしは人殺しが嫌いでのう」


「これは総流社の存亡に関わる事態です」


「知っとる」


「ならば!」


「じゃから嫌じゃと言うとる」


 万作は赤い点を指差した。


「お前さんらが腐らせた荷じゃ。臭いが漏れたからといって、今さら翁に蓋をさせるな」


 役員たちの表情が歪む。


 その中で、一人が低く言った。


「……御孫様の学費支援について、再検討が必要になるかもしれませんな」


 空気が止まった。


 万作の目が、ゆっくりとその役員へ向く。


 怒鳴らない。


 睨みつけもしない。


 ただ、見る。


 それだけで、役員の喉が鳴った。


「脅しか?」


「いえ。制度上の話です」


「そうか」


 万作は腰の工具箱を開けた。


 中から、小さな瓶を取り出す。


 医療会社の印が入った薬瓶。


 役員の一人が息を呑む。


「それは……」


「三分だけ、老人の手の震えを止める薬じゃ」


 万作は瓶をしまった。


「副作用で、その後しばらく心臓が痛む。使いどころが難しい」


 次に、小さな金属片を取り出す。


「これは環境会社の重力固定具の欠片。正規品ではない。だが、扉一枚くらいなら落とせる」


 さらに細い針。


「これは腐敗の蝶が好む毒針の劣化品。わしには耐性がないから、扱いを間違えると死ぬ」


 役員たちは動けない。


 万作は工具箱を閉じた。


「総流社は流通屋じゃ。世界中の善意も悪意も、うちは運んできた。わしはそれを、少しばかり長く見てきただけじゃ」


 老人は穏やかに笑った。


「お前さんらも、あまり老人を脅すでない。老人はな、先が短いぶん、道具の使いどころを迷わん」


 会議室は沈黙した。


 万作は立体投影へ視線を戻す。


「とはいえ、このまま燃え広がれば総流社は潰れる。潰れれば、孫の学費も困る」


「では……」


「出る」


 万作は静かに言った。


「ただし、殺しには行かん。まずは流れを見に行く」


「相手は天理久夜、砕耀、狙撃手、異世界線由来個体です。殺さずに止められると?」


 万作は少しだけ笑った。


「若いのう」


 杖の先で床を軽く叩く。


「殺すだけなら、道具はいらん。止めるのが難しいから、道具が要るんじゃ」


   ◇


 その頃、久夜たちは冥下へ戻る途中だった。


 地上の夜風は冷たい。


 ラナは歩きながら、遠くの大型ビジョンを見た。


 チセラの広告はもう流れていない。


 代わりに、総流社の公式声明が無音で映っている。


 久夜は隣を歩くラナに言った。


「今日は見なかったな」


「少し見た」


「そうか」


「でも、決めたのは私」


 ラナは小さく笑った。


「それでいい?」


 久夜は少し考えてから言う。


「俺に聞くな。お前が決めろ」


「うん」


 砕耀が前を歩きながら、端末を見る。


 数字は広がっている。


 煙は上がっている。


 だが、胸騒ぎがした。


 総流社はまだ本気ではない。


 十柱の血管は、少し傷ついただけで止まるほど細くない。


 その時、砕耀の端末に新しい通知が届いた。


 発信者不明。


 短い一文。


『万具の翁が動く。場所を選ぶな。すべて道具にされる』


 砕耀の足が止まった。


 久夜が振り返る。


「どうした」


 砕耀は画面を見たまま、低く呟いた。


「来るぞ」


「誰が」


「総流社の要だ」


 風が吹いた。


 地上の明かりが揺れる。


 どこかで、古い杖の音が聞こえた気がした。


 こつん。


 こつん。


 火種は煙になった。


 煙は街に満ち始めた。


 そして、血管の奥から、古い職人が歩き出した。

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